直向きな恋心

人を想う事など、不可能だと思っていた。



「これ、落としましたよ。」



背後から声を掛けられたと思えば、振り返ると同時に甘くまろやかな香りが鼻を擽った。

「………。」

やや下に視線を落とせば長い黒髪の女が俯きがちに定期券を差し出していた。その瞬間、何故か言葉が出てこなくなり、受け取る事なくその場で立ち止まってしまう。

「あの……違いましたか?」

首を傾げながら困り顔で見上げる瞳にハッと我に返り、自分の落とした定期券だと再確認するなり差し出されるパスケースを静かに受け取る。

「すまん、一瞬何かと戸惑っていた。感謝する。」

妙に空いた時間を誤魔化す為の苦し紛れな言い訳をするも、彼女は何処か嬉しそうに小さく手を振った。

「いえ、大丈夫ですよ。いきなり声を掛けられたら私も同じ反応をしてしまうと思います。」

では私はこれで。軽く一礼して去っていく彼女の姿を見るなり、賈充は何処か胸の奥底で燻る情感に突き動かされていた。

「これは、そうか………。」

未だ感じた事のない感覚に戸惑いながらも、電車の時刻が迫っている事も忘れて小さくなっていく名も知らぬ女を暫く見続けていた。




それからというものの、彼女の面影が脳裏から離れず夢に漂い続ける日々が続く。デスクワークが一息ついたかと思えば不意に思い出す彼女の穏やかな声と微笑み。幾度となく反芻しては賈充の氷の心を徐々に溶かしていくのが嫌でも分かった。

すると一人の男が陽気に賈充の机に凭れ掛かる。

「よお、賈充。最近やけに窓の外ばかり見てるけど、何か悩みごとでもあるのか?」

「子上か。特に何もないが。」

「それにしては目の下がいつもより増して暗い気がするぜ。もしかして寝不足とか。」

「そう見えるのならいい加減溜まりに溜まった仕事をした方がいいぞ。それが原因かもしれないからな。」

「うわ……通常通りの賈充だった……しょうがねえ、元姫に見つかる前にやるか。」

呑気に欠伸をしながら離れていく司馬昭とは対照的に、ディスプレイを眺める賈充は複雑な表情をしていた。

もっと、知りたい。

そこから賈充の行動が始まる。



先日定期券を拾ってもらった時に走っていく方向が駅の方角だった事を思い出し、それからあの時の時間に合わせて家を出て、同じ道を通ってみた。思い返せばあの日は少し早めに家を出た事と、別ルートを使用した為に偶然彼女と出会う時間が重なったと思われる。するとどうだろう、遠くからだが彼女の姿を確認する事が出来たのだ。

近くに住んでいる可能性が高いと判断した賈充。常に私服である、曜日毎に時間が違う、同い年の友人と歩いている、それらの要素からおよそ大学生ではないかと判断し、彼女の帰宅時間に合わせて同じ道を距離を離しながら後ろから付いていく。そして自分の家からおよそ3km離れたマンションに入っていく様子を確認すると一先ず帰宅した。

「さて、どうやって近づくか。」

礼として何かをあげるのも悪くない。菓子折り一つあげるだけでも印象は大分変わる筈。

とはいえ、なるべく怪しまれないように自然に近付かないと一瞬で嫌われてしまうだろう。何分この見た目や性格だ、怖がる輩の方が多かった気がするが、中にはそれを好む滑稽な奴もいたな。

「あれは、どうだろうな。」

純粋無垢に見える彼女だからこそ、穢れたこの手で傷をつける事だけはしたくない。俺が生まれて初めて本気で人を愛そうと思ったのだから。










「あれ、確かこの前の……?」

その時はあっけなく訪れた。背後から声を掛けたのは賈充からで、振り返る彼女の姿を見るなり心臓を鷲掴みされたかのような鈍い痛みを覚える。

「あの後無事に電車に乗れましたか?」

「ああ、あの時は本当に助かった。」

あの日のように見上げる大きな瞳は星が瞬くように美しく、見惚れずにはいられないと嘆息する程だった。これ程に突き動かされる感情はないだろうと感心しながら、

「この前の礼だ。」

と、彼女にぴったりの小洒落た袋を目の前に差し出す。すると案の定困ったように眉を下げて

「え、そんな、悪いです。私そんな大した事してませんよ…!」

「いや、人に借りを作るのは好かんのでな。悪いが、俺もこのまま引き下がる訳にはいかない。」

目を泳がせて困惑する彼女は、申し訳なさそうに頭を下げながら袋を両手で受け取った。

「……差し支えなければ、名前を聞きたいのだが。」

「え、名前、ですか……?」

その途端、微かに怯えているのを賈充は見逃さなかった。殆ど初対面の人間に対して個人情報を教える事に抵抗があるのだろう、伏し目がちにこちらの様子を伺うがこちらの威圧感に押し負けてしまい遂に黙り込んでしまった。

……さすがに押し過ぎたか。

一旦退こうと賈充は薄っすら笑みを浮かべて

「悪い、今のは忘れてくれ。」

と、靴音を小さく鳴らして一歩後ずさりした。憂心を抱き今にも消え入りそうな表情にこちらも苦しくなってしまったのだ。そんな顔をさせたくなかったが故に、己の行為に嫌悪がドロドロと渦巻いて、答えを聞く間もなく彼女の横を通り過ぎて行く賈充。

歩く音が聞こえないという事はその場で未だ立ち尽くしているのだろう。ただ気になって振り返る事はしたくないと、彼は重くなった空気を断ち切るように足早に姿を消した。










「何をやっているんだろうな、俺は。」

目がディスプレイに映る文字の上をただ滑っていく。あれから同じ時間同じ道を選ぶ事はなく、彼女がどうなったのかも知らないし、これから知る事もないのだろうと始まったばかりの物語はあっけなく完結してしまった。

……今の賈充には仕事に専念する事しか生き甲斐がなかった。

「子上、悪いが、俺は早めに帰る。」

「え、なんだよ……折角訳分からん書類を片付けてもらおうと思ってたのに。」

「くく、お前の頭の中が訳分からん。せいぜい根気よく残業する事だ。」

短期間でまとめあげた大量の書類を提出し、ふと時計を見れば彼女が帰宅する時間と被っている事に気付く。が、どうせルートは違うのだと改めて冷静さを取り戻し、そのまま何事も無かったかのように会社を後にする。

「…………。」

改札を過ぎて電車に乗り込み、見慣れた駅に到着する。以前と代わり映えしない光景に飽き飽きしながらも、賈充は人混みをうっとおしそうに分け入って外に出た。

その時、見覚えのある人影を見つけてしまう。


「(こんな時に、限って、何故)」


それは会いたかったような、会いたくなかったような、兎にも角にも遣る瀬無い心情だった。一人寂しく歩く彼女の後ろ姿を見るなりその後を追いたくなるが、辛うじて揺らぐ心を押し留めてギリッと唇を噛み締める。

「追いかけて何になる。また同じ事を繰り返すだけだろう。」

所詮は優しさ故の人助け。それ以上の感情は持ち合わせていないに決まってる。

期待はしてはいけないと、冷徹な思いを取り戻そうとした直後だった。

「…………?」

何か、違和感を感じる。一人の若者が彼女をつけている様に見えたのだ。これだけの人混みだから同じ道を通るのも当たり前かと最初は考えていたが、どうにも動きがおかしい。何度も信号で止まる彼女と敢えて距離を取って、歩き出すと同時に男もまた歩き出している。

「………気に喰わん。」

男の挙動不審な動向を探るべく、賈充も悟られないよう気配を消しつつその後をついて行く。生憎彼女は自分の存在に気付いてはいないが、その足取りは異様に速くなっている気がする。もしかすると男の存在には薄々気付いているのかもしれない、何としても男が接近する事だけは阻止せねば。

「………っ………。」

いよいよ人通りない道路に出ると、彼女の足並みも次第に乱れ始める。男はここぞと言わんばかりに一気に距離を詰めて行った。

「チッ………。」

クソが。殺されても文句は言うなよ。

人を殺めた事もない筈なのに、慣れた殺意のような感情が噴き出してくる。確かに己の手が穢れてると思って今まで生きてきたが、よもや前世で何かやらかしたのではないかとすら思い始めてきた。

あの男が彼女に何かしたのならば、俺は迷わず…。



「きゃあ!」

その声に身体が一気に強張る。男が今にも触れそうな距離にまで接近していた光景が目に飛び込むと、無意識に身体は奴に向かって走り込んでいた。

「おい。」

「だ、誰だよお前!」

「あ……貴方は……!」

「もしやと思って後をつけていたが……お前の様な下劣極まりない屑が彼女に何の用だ。」

腕を掴むとそのままギリギリと食い込んでいく黒い爪。男は小さな悲鳴を上げて振り払おうと抵抗を見せるが、今の賈充は加減すら忘れて今にも殺めてしまいそうな程に浅い肌を抉りながら鋭い眼光で穿った。

「や、やめろ!俺が何をしたって言うんだ!ただ、彼女に話し掛けようとしただけで……。」

「酷く怯えてる彼女にか?まあ、これが初めてではないだろう。何度つけ回した。」

「わ、悪くない、俺は悪くないっ!彼女が気付いてくれないから、だから、こうして好きという思いを毎日伝えて……!」

「つくづく、歪んだ愛は醜いな……くく……。」

まあ、人の事は言えんが。

「うるせえ……っ!俺がどうしようと俺の勝手だろうが!」

男がムキになったのか、目を血走らせては一心不乱に賈充に殴りかかろうとする。あまりの出来事に彼女は咄嗟に手で顔を覆い隠してしまう、が。

「う、あ。」

唸声を上げたのは賈充ではなかった。

「殴りかかる……つまり、腕の一本圧し折られる覚悟はあるんだろうな?」

「は、何を、言って……。」


そして、何かが軋む音がした。


「う、がああああっ!!」

阿鼻叫喚の如く大きな悲鳴をあげながら、悶え苦しむ男は緩んだ手すら振り払う力もないままその場に倒れ込む。あまりの激痛に耐えきれなくなったのか、そのまま意識を失って気絶してしまった。

目にいっぱい涙を浮かべていた彼女は呆然とその場面を見つめていたが、正気に戻るなり頑なに閉ざしていた唇を必死にこじ開けた。

「…………あ、あの!」

「ああ、悪い。偶然帰る時間が重なってしまったのでな。これでコイツもつけ回す事はなくなるだろう。

……俺もな。」

皮肉るように淡々と言いたい事を済ませて踵を返す賈充だが、彼女は違うと言わんばかりに首を横に振って



「待って……私の名前は、ななし、です。」


「……………なに?」

か細い声を震わせながら、徐に賈充の腕を掴んだ。

「実は私、貴方より少し前、同じようにこの人を助けてしまったんです。それから、ずっと後をつけられていて……でも、目の前でパスケースを落とした貴方をどうしても見捨てる事が出来なくて。

だから、あの時は、名前を教えるのがどうしても怖かったんです。同じように怖い思いをしたらどうしようって。

でも、貴方は、この人とは違う。凄く、優しい方でした。」

「…………俺が、優しい、か。」

かつて誰にも言われたこともない科白だった。しかし、好いた女に言われて悪い気はしないと喜悦の笑みをこぼしたのは言うまでもない。

「よければ、貴方の名前を、教えてくれますか?」

「…………賈充。」

「賈充、さん。ありがとうございました。後のご恩は一生忘れません……。」

再び見上げるその顔つきは以前より穏やかで、その気持ちにもう迷いは見られなかった。














晴れて二人は恋仲となり、あれから逢瀬を重ね続けた。また、あの日以来ストーカーする男もいなくなり、平穏に過ごす日々が続いている。

今日も二人で食事をする約束をしていた為、駅の時計台の下で先に待つ賈充。

「遅れてごめんなさい、賈充さん!」

「……いや、俺も丁度来たところだ。」

そこに駆け足でやってくるななし。普段とは違う白いワンピースに包まれた彼女を目の当たりにした賈充は、思わず喉を鳴らして

「白いな、俺には眩しいくらいに。」

満足気に目を細めると、彼女は不思議そうに瞬きを繰り返した。

「えっと、あまりお洒落しないんですけど、変じゃないですか……?」

「……他には見せたくないものだな。」

「ええ!それって似合ってないという事ですか……!」

やっぱりあっちの服で来れば良かったかなあ。などと、おろおろと本気で狼狽する彼女を見て笑わずにはいられなかった。

「くく……本当にななしは全部を鵜呑みにする。そんな事をするのは俺だけにしておけ。」

「ど、どういう事ですか……?」

「そのままの意味だ。」

からかうように耳元で囁くと、彼女は小さく肩を震わせてみるみる頬を紅潮させる。長い睫毛を揺らして今にも泣き出しそうな顔をしているのがかなり応えたのか、ますます拍車をかけるように賈充は腰に手を回して細い身体を密着させた。

「それ、擽ったい、です。」

「擽ったい?感じるの間違いではないのか。」

「や、そんな。」

「嘘をつくな。楽しみは後に取っておけ。」

それが何を意味するか、嫌でも分かってしまうななしは無意識に賈充の腕に掴まっていた。満更でもない様子でそれを見つめる賈充は彼女の黒髪に口づけを落とすと、

「………好きだ。」

何回言ったか分からない告白を口にする。

「はい……私もです。」

それでも、本当に幸せそうに微笑みを返す彼女が愛おしくて。

ああ、ななし、ななし、その名前を呼ぶ度に、俺の冥い心は救われる。やっと手に入れたんだ、絶対に、死ぬまでお前を手離すものか。

「人を愛する事を教えてくれたお前を穢れたこの手で抱く事、どうか、赦せ。」



祈るように呟くと、静かに唇を重ねた。





(ああ、これが最初で最後の恋になるだろう)