「孝直…と、呼んでいただけませんか。」
法正はそう言って彼女の目をじっと見つめる。作業中のパソコンをそっと閉じて、彼女が逃げられないように手を握れば、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
おずおずとした様子で口を開いたかと思えば、消え入りそうな声で答える。
「……孝直、さん。」
その言葉を聞いて満足したらしい彼は微笑みながら彼女の頬に触れた。優しく撫でると恥ずかしさからなのか身を捩るので、そのまま唇を重ねる。
最初は軽く触れるだけだったものがどんどん深くなっていき、やがて舌を差し入れれば彼女も応えるように絡めてくるようになる。息苦しくなって離れようとする彼女を離すまいと強く抱きしめた。
暫く堪能した後、ゆっくりと唇を放すと名残惜しげな表情を浮かべていた。
「これからは名前で呼ぶようにしましょうね。ななし。」
そっと耳元で囁やけば体を震わせながらもこくりと頷く。それが可愛くてもう一度キスをした。
「また私ってば……。」
今日こそはと決めたのに、また彼の思うがままに事を運ばれてしまった。彼は私よりも年下で、自分のような年上の女に何の魅力を感じるのだろうか。
しかし、結局答えは聞く事ができなかった。
彼と初めて出会ったのは半年以上前になるだろうか。私が勤める会社に新卒で入ってきたのが彼だった。他者に対して人当たりが良いとは決して言えなかったが、それでも接し方はとても丁寧で且つ聡明。だからすぐに仲良くなったのだが、私は彼に恋心を抱かなかった。というより、抱く事を何処かで諦めていた。
それは年下の彼が年上の私の事を恋愛対象として一切見ていなかったからだと思っていたのだ。
しかし、その考えは大いに違かった。
例えば仕事終わりにご飯に誘われて、いつものように2人で食事に行ったときの事だった。
普段なら楽しく会話をするはずなのに、今日の彼はどこか様子がおかしかった。何か話したいことがあるようで、ずっと口を開こうとしては閉じるという動作を繰り返している。
ついに「どうしました?言いたいことがあったら遠慮なく言ってください。」というと意を決したようにこちらを見据えてきた。
そして真剣な顔つきのまま言ったのだ。
「貴女が好きです。俺の恋人になってくれませんか。」
あまりにも唐突だったので思わず固まってしまう。まさか自分に好意を持っているなんて思ってもいなかったのだ。
「えっ……。」
驚きすぎて声にならないとはまさにこの事だろうと思った。だがそれと同時に込み上げる嬉しさもあった。
「ありがとうございます。とても嬉しいです。」
でも、と彼女は続ける。
「すみません。今は、貴方の気持ちには答えられません。」
そう言うと予想通り断られたことがショックだったらしく俯いてしまった。そんな彼を見ているうちに罪悪感が湧き上がってくる。
(ああ、こんな顔をさせたいんじゃない…)
「あの、私は……。」
そこまで言って言葉を詰まらせる。本当にこれでいいのかという迷いがあったのだ。
黙ったまま何も言わない彼女に痺れを切らせたのか、法正が口を開く。
「それは、俺が年下だからですか。」
その問いに少し考えてから答える。
「……私は、貴方より歳が上だから…同い年くらいか、年下の女の子の方がいいんじゃないなかぁって。」
当然ながら彼はモテる。彼の魅力に惹かれている女性を何度も見てきたからこそ、余計に痛感する。何もせずとも引く手数多な訳で、何も自分なんかを選ぶ事はないのに、なんて、心にもない事を考えてしまった。
それを聞いた彼は溜息をつくと徐に立ち上がると、すぐ間近まで端正な顔が迫ってくる。
彼女は座っていた椅子ごと後ろに下がろうとするが、当然ながら後ろはすぐ壁が立ちはだかっており、これ以上逃げることができず追い詰められる形となった。
やれやれと、半ば呆れながらも彼は彼女の両手を取って指先にキスを落とすと再び口を開く。
「ななしさん。聞いて下さい。確かに若干の年齢差はあるかもしれません。でも、それだけを理由にして断るのは早計かと。」
手を握られたことで動揺していると更に畳みかけられる。
「それに、今の時代そういうカップルなど珍しくありませんよ。
…貴女が年上だから何なんです。それで魅力が失われるとでも?失望するとでも?俺はその答えを絶対に認めませんし、絶対に諦めませんので。」
一度惚れたら しつこい男です、俺は。なんて、真剣な顔で言うものだから。
そう言われてみればそうだと納得する。
自分が気にしていただけで、世の中ではそうでもないかもしれないと思い始めたと所でふと気付く。自分は何を悩んでいたのだろうと。
「……ふふっ。」
すると彼女が突然笑いだしたので、今度は彼が驚いてしまう。
ひとしきり笑った後、彼女は晴れやかな笑顔で言った。
「それもそうですね。私も、孝直さんの事が大好きです。」
「……やはり、貴女にはそういう笑顔が合いますよ。」
こうして二人は恋人同士になったのだ。
それからというもの、彼は事あるごとに好きだと言ってくれるようになった。
最初は慣れなくて恥ずかしさもあったが、次第に自分も言えるようになっていった。
きっと幸せというのはこういう事を言うのだろう。
だけど、どうしても全てを納得する事は出来なかった。心の何処かでは、自分なんかよりもずっと相応しい女性がいるんじゃないか、若い女性がいたら私なんてすぐに飽きられてしまうのではないか、と。
幸福を味わう反面、その恐怖と向き合う事がとても怖かった。
今日もまた彼に好きと言われて細やかながら幸せな気分に浸っていると、不意に名前を呼ばれた。
振り返ると後ろから抱きすくめられ、耳元で囁かれる。
「ななし。」
「ひゃっ!?」
急に声をかけられて変な返事になってしまった。
「ど、どうかされましたか?」
「いえ、何でも無いです。」
彼はくすりと笑うと耳元に唇を寄せた。
「好きです。」
「私も、です。」
恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくて。
彼の腕の中で微笑むと、そっと目を閉じた。
ーー最近、彼女が可怪しい。
どこか上の空で、話し掛けても気付かない事が増えた。
何か悩みでもあるのだろうかと思ってそれとなく尋ねてみると、返ってきたのは予想外の言葉だった。
どうやら未だに恋人である俺が年下であることに申し訳無さと自分に対して引け目を感じているらしい。
嗚呼、全く可笑しな話だと思う。
以前も話した通り、俺は別に年の差なんて気にしていないし、そもそも恋愛に年の上下は関係ないと思っている。
何より俺が好きになったのは、他の女には決してない純粋な優しさとお人好しな程に慈悲深い心を持っていたから。悪党であるこの俺の世界に、何の躊躇もなく飛び込んできたのは唯一彼女だけだった。上っ面だけの恋慕をぶつけてくる女なぞ、微塵も興味もありやしない。
本当の心を知っているからこそ、誰にも代わる事が出来ないのだ。
「貴女だから好きなんですよ。」
と伝えると、照れたような、それでいてどこか不安そうな表情をしていた。
どうすれば分かってもらえるのかと考えていると、ふとあることを思いついた。
「ななし。聞いて下さい。」
「は、はい、何でしょうか。」
ななしがこちらを向くと同時にキスをする。
「……っ!」
目をぱちくりさせて固まる彼女、そしてそのままじっと見つめながら言った。
「俺の本当の顔を知るのは、誰でもなく貴女だけ。他の奴にくれてやるくらいなら、この命なんて簡単に
「な、擲つなんて、そんな物騒な……。」
驚いたように固まる彼女を見て満足した法正。
「それくらい愛している、そういう事です。」
勿論、今度はしっかりと聞こえていたようだ。
「私も、です。」
そう言うと彼女は嬉しそうにはにかんでくれた。
「まぁ最も、貴女が他の男に少しでも目を向けたらどうなるか……分かりますよね?」
「え……っ、会社にいる男性とかは……。」
「業務連絡だけで十分。私情はいただけませんね。」
「あはは……でもですね、そういう感情はずっと変わらず孝直さんにだけ、ですよ。」
指を唇に当てて、笑みを浮かべる彼女がやけに色っぽく見えてしまい、法正は不覚にも理性を崩しそうになった。
…やはり彼女は笑っている事が一番似合うと思う。
これから先ずっと一緒にいると心に決めている。例え誰が奪いに来ようとも、劇薬を与えては全て縁を絶たせてしまえばいい。
ああ、もっと色々な顔を見せてほしい。
例えば俺の前でしか見せない、特別な顔を。
「おはようございます。孝直さん。」
「ああ、おはようございま……」
「あ……また私の事見てますよね!」
「……よく分かりましたね。」
「もう……そんなに見なくても大丈夫ですよ?ちゃんと可愛い服着てきましたから。」
「……」
「えっ…嘘、本当に見惚れてるんですか?」
「悪いですか。」
「悪くないですけど、ちょっと意外です。」
「いい加減こっちを見てくださいよ。」
「え、あ、はい……。」
「どうして目を逸らすんですか。」
「それは……その……孝直さんが、カッコよすぎて……。」
「……それ、本当ですか。」
「……はい。」
純粋な瞳をちらつかせて、小さく頷く彼女の可愛さたるや。やはり歳なんて宛にならない。
「どうしてお前はそんなに……。」
「え?」
「いえ、何でもありません。それより早く行きましょう。予約の時間まであと僅かですよ。」
「そうですね。楽しみです。」
今日もまた、彼女を独り占めできる喜びに浸りながら、二人で街へ出掛けたのだった。
(見て下さい孝直さん!凄く綺麗なドレスですね!)
(それを貴女が着たらもっと綺麗でしょうね)