私にとって今年の夏の思い出は、泡沫の夢でもあり、泡沫の恋と言っていい。
夏休みはやって来る前が一番楽しいとはよく言ったものだ。何をして過ごそうか、誰とどんな所へ行こうか、宿題は早めに済ませて残り時間を有意義に過ごそう。そんな浮き立つ事を考えながら、いざ休みがやって来ればそこから始まる終わりまでのカウントダウン。残り30日ちょっと余裕があるというのに、心は既に何処か秋の始まりのような寂しさを迎えていて、本当に夏というものは儚くも虚しい気持ちにさせるのが上手い。
そう、毎年思うことなのに、今年はいつになく鬱蒼とした気分だ。
夏休みが始まる前から抱え込んでいたこの想いも、線香花火の様に呆気無く消えて、塵芥と化したまま終わりを迎えるのがどうにも苦しくて仕方ない。
「…………………。」
ぼんやりディスプレイに映るのは、楽しそうに笑顔を見せている友達の写真。しかしそれは一人で映る写真ではなく、隣の男の人も嬉しそうに笑っている。
「………………。」
その彼に焦点を合わせるなり、胸がムカムカしてきて、つい携帯の電源を落としてしまう。
「…………我ながら不甲斐ない、なぁ。」
呆れ気味に溜息を零すと、すっかり温く空気の抜けたメロンソーダを飲み干した。
その青い浴衣を着こなす男の名は李典、彼こそがななしを悩みの根源へと至らせる。
何の縁があってか家がお隣同士であり、しかも奇跡的に小中高が一緒で、ななしと李典はほぼ幼馴染に近い関係である。
学校に行く時も彼がわざわざ玄関まで迎えに来てくれるので一緒に登校したり、下校する時もいつも校門の前で待ってくれていたりと、何か特別な関係を持っている訳でもないのに、彼は、まるで恋人の様に毎日傍にいてくれた。
それから高校に上がってからというもの、周りの友人にもお似合いカップルだの、早く付き合えだの散々言われていたが、その当時の自分は不思議とそういう気持ちにはなれなかった。距離があまりにも近過ぎて、きっと恋人以上の何かを感じていたからなのかもしれない。
だけど、ある日私は気付いてしまった。友人の中で、ある一人の子が李典に好意を持っていると聞き、二人きりで話している所を偶然見かけた時だった。
一人っ子の自分にとって兄の様に頼れる存在であり、唯一無二の友とも言える彼が堪らなく愛おしいと、その時初めて嫉妬心に駆られたのだ。
軈てその事に気付いてから優しくされる度、高鳴る胸の鼓動など、さり気ない行動に対しての動揺が常となり、いつしか彼の隣にいる事が苦痛とすら思えるようになっていた。
自分の気持ちを伝えてしまったら、今までのような優しさに触れる事が出来なくなるような気がして、私は何を思ってか、夏休みに入る何週間か前から彼との距離をすっかり空けてしまったのだ。
それがいけなかった。それが余計自分の首を締める結果となる。
李典に深く恋をしていた友人が、いつしかそのポジションになっていた。
「…………ダメ、かな。」
完全敗北、白旗、黒星、あらゆる負け言葉ばかりが頭を過る。このまま上手く行けば休み明けの初日、教室に入った途端に惚気話が始まるのだろう。彼と晴れて恋人同士になれました、祭も行ってきて幸せな時を過ごせた、と。
自分が恋人になる事を否定をしたから彼女には何の罪もないけれど、それでもやはり複雑な気分に違いない。
……ああ、駄目だ、もう寝よう。いっそ明日は憂さ晴らしにバッティングでもしてこよう。下手くそなりに空振りを繰り返して、青春は甘くも苦いと笑い飛ばしてしまえばいい!
「ななしー、そろそろお風呂に入っちゃいなさい!」
「…………はーい。」
一階の階段の傍から母が声を上げる。やる気なしに返事してベッドに沈めていた身体をのっそり起こすと、カーテンから覗かせた遠くの打ち上げ花火をぼんやり見つめた。
……そういえば、夏休みに入ってかれこれ25日は過ぎただろうか。滾る夏もいよいよ終盤に入り、何処もかしこも締めくくりに祭だと賑わい始めている。
ではその25日、自分はどうして過ごしていたのか。思い返せばどうという事はない日常生活、予定通り宿題を早めに済ませて、一人でゆったり観光ぶらり旅、好みの服に目を輝かせて、気付けば友達と過ごした数なんて片手で指折り出来る程度のものである。ましてや李典と顔を合わせたのなんて、5秒もあるかどうか。
……いや、窓から見下ろして彼が何処かに行く後ろ姿ばかり見ていた。我ながら未練たらしい事この上ない。
「李典……………。」
今更名前なんて呟いて、なんて馬鹿な女だろう。その立場が辛くなって逃げ出したのは自分自身なのに。
もう一度、あの時のように笑いかけてくれたのであれば、私は今度こそ彼に向かって本当の想いを伝える事が可能なのだろうか。しかし、そんな機会はもう何処にも在りはしない。彼女にそのバトンが渡ってしまった。
「…………………。」
もう一つの窓のカーテンを開けて、隣の暗い窓を見つめる。いつもここから他愛無い会話をしていたあの頃を思い出して、ああ可笑しい、ほろほろ涙が出そうだ。
今思えば、李典は、同じように私に恋をしてくれていたのかな。
と、その時だった。その窓の中の明かりがパッとついた。
「……………え、」
先程まで楽しく祭を楽しんでいた李典の部屋に何故明かりがつくのか。彼の親が部屋に入ってきたのだろうか、とななしは慌ててカーテンを閉めようと手を掛けた時だった。
「ななし!!!」
「きゃあ!」
バッとカーテンと窓が一斉に開いて男の叫び声が鳴り渡り、ななしの声も驚きのあまり悲鳴に近い甲高い声を上げてしまう。よく見れば、つい先程友人から送られてきた写真の青い浴衣と同じく、荒々しく息をしながら、決死の顔付きで立ち尽くす男……それは紛れもない、
「り、てん………?」
恐る恐る問い掛ければ、それに応じてワッと明るい表情を見せる李典。
「良かった………やっと、話せた………。何か予感がしたんだよな、今帰れば、ななしに会えるんじゃないかって。」
「ど、どうして………?と言うより、あの子との祭は………まだ途中でしょう!?」
彼女を置いてくるなんて!そう言い放つなり、苦々しく李典は窓枠に両手をついて真剣な眼差しを向けた。
「……………俺なりの気持ちを伝えて、きちんとケジメをつける為に、今日は敢えて祭に行ってきた。」
「………それ、って。」
「……………彼女の想いは、受け取らなかった。」
「………………李典………。」
「なぁ、俺を避ける理由を教えてくれないか。あの子と話すようになってから、まともにななしと話せていない。」
「それ、は。」
夏の終わりを告げる風が頬をそよいで、黒髪が部屋の中でもゆらゆら靡く。言葉に詰まらせるななしは、下から再び聞こえる母の言葉も耳に入らない程返答に戸惑いを感じていた。
「俺が原因なら、そう言ってほしい。もし、知らない所であんたを傷付けていたとしたら……。」
「李典!」
遮るように荒らげた声は思っていたよりよく響いたようで、李典の身体が一瞬だけ浮いた気がした。別に怒っている訳ではないと何度も瞬きを繰り返して、結局弁解する為に出てきた言葉は
「あの、良かったら、下の庭で線香花火………やらない?」
そんな半ば無理のある誘いだった。だけど、彼は何の躊躇もなくそれを快諾してくれた。
「線香花火………?ん、ああ、いいけど、さ。」
「じゃあ、下に来てね、その格好でいいから!」
確か母が以前ノリで買ってきた花火セットがまだあった筈。ななしは急いで階段を降りると母に在り処を訊ね、この夏の間だけ眠りについていた花火セットを取り出すとしっかり抱えたまま外に駆け出した。
「お待たせ、李典。」
「…………ん、久しぶりだな。」
こうして二人で至近距離で会話を交わすのはいつぶりだろうか。少なくとも夏の間は顔を合わせていなかったから、妙にはにかむ姿がぎこちない。
高校に行けばまた変わらず隣の席にいるのだろうが、こうして会わなければきっと言葉を交わす時間が少なかっただろう。
「家で花火するなんて、いつぶりだろう。」
「そうだな………随分長くやっていなかったな、俺。」
で、さっきの続き、そう言いかけたのだが。
「……………ねぇ、李典。」
「……ん?」
「李典にとって、私はどんな存在なのかな。」
そんな問い掛けに、自分の質問が掻き消された。
先端に火をつければパチパチと小さな音を立てて色鮮やかな火花が地面に向かって落ちていく。
「………どんなって………そりゃあ…………。」
煌々と光る玉を眺めながらななしはその答えをじっと待ち続けるが、その答えを知るのにそう時間は掛からなかった。
真顔で俯いていた李典は視線だけ寄越して口を開く。
「……………好きと言ったら?」
「…………え…………。」
ぽたり、灯火の消えかけた玉が落ちた瞬間、
「ずっと、好きだった。いや、今でも、ななしの事が大好きだ。」
李典は自分の線香花火とななしの線香花火をバケツの中に捨てると、そのまま手を引いて腕の中へと閉じ込めた。ジュッと水に溶けていく残り火を聞く暇もなく、ただ暗闇の中へと誘われる。
「あ…………。」
「友人、もとい幼馴染として今まで接していたけど、正直言い出すのが怖かったんだよな。この関係を壊すような事だけはしたくなかったから、ずっと押し留めていたけど……………ん、やっぱりそういうの無理だわ、俺。」
どうしても好きだと、へらりと笑って腕に力を込める李典は何処か悲しそうに思えた。顔を見ずとも声色だけで分かるのは今までずっと一緒にいたからで、些細な変化すら読み取れるようになっていた。
「………そっか、そっか………私と、おんなじ事考えてくれていたんだね………。」
「ななし…………?」
「私も、ずっと言いたかった事があったの。」
胸板に埋める顔を上げ、ななしは頬をにんまりと緩めて笑みをたたえた。
「今ならちゃんと言える。李典の事が、世界で一番大好きだって。」
「え…………あ、」
不意打ちの口付けに合わせて、遠くから遅れて花火の轟音が響き渡った。雲散霧消する火の粉は闇空に染まり、どうやらこれが最後の一発だったようで音はすっかり静寂に元通り。
ゆっくり離れると、呆然と瞠目させて異次元に飛ばされたかのような表情のまま固まってしまう李典。
「………………うん、ファーストキス、捧げちゃった。」
「………っ…………。」
口元を押さえて耳まで紅潮させる李典は今にも発狂しそうだった。まさかの彼女からのキスに驚きを隠せない。
「ごめん、その………嫌だった、かな。」
「俺の勘が告げている………このまま死ぬんじゃないか、って。」
「ま……っ、死なないでよ………!私のキスで死んだらそれこそ夢見が悪くなるから……。」
「とりあえず………ななし………死ぬ程…………嬉しい…………今はそれしか言えないわ、俺。」
「…………良かった。」
再び彼女を抱き締めると、首元に顔を埋めては幸せを噛み締めるように穏やかな笑みを見せた。
「あ、お前らやっと付き合うようになったんだってな。」
長いようで短かった夏休みも終止符を打ち、気怠い身体を引き摺りながら教室に入ると、開口一番ニヤつく男友達にななしは怪訝そうに口角を下げた。
「え、あ………それ、誰から………?」
「ん?李典が嬉しそうに話してた。ったくよ、傍から見てる俺達はいつになったらカップルになるか散々待ちぼうけていたから、ようやく苦労が報われるっつーの。」
「………報われるって……仰る意味が良く分からないんですが。」
「………ま、男の約束だから、これ以上は勘弁な。」
手を合わせて御免と足早に立ち去る彼の背を見つめながら、何が何だかと肩を竦めた。
彼の言う通りあれから二人は晴れて恋人同士となり、友人には大変申し訳無い気持ちではあったが、ひたすらに謝罪して今でも何とか良好な関係は続いている。………と、信じているのだが、実際はどうだろうか………真意の方は定かではない。
「ななし。」
云々思考を巡らせていると、ぼすっと頭に手を乗せられ、徐に振り向けば欠伸をしながら涙を滲ませている李典。
「おはよう、李典。」
「ん、おはよう。……なぁ、何で一緒に登校しないんだ。」
「……………改めて考えると、照れくさいから、かな。今まで意識してなかったから、余計に。」
「別に恋人同士だからいいんじゃないのか?……むしろこれからが、本番だし。」
自分で言っておきながら顔が真っ赤な李典に、くすりと笑いがこぼれてしまう。
「………じゃあ、明日から。」
「いーや、今日の帰りからな。絶対に、約束だぜ。」
「もう………分かったよ、またいつもみたいに校門の前で集合ね。」
ほら、そろそろ授業が始まるよ。指定された教室へ各々向かう為、別れの挨拶に手を振ろうとしたら咄嗟に手首を掴まれて。
「ななし、来年は、絶対だからな。」
「…………うん、それも約束ね。」
どんな約束を交わしたのかは、来年の夏になれば分かる話。今度はいつものように退屈のしない夏休みになるのだろう。泡沫に消えた筈の線香花火は、胸の奥でまだ赫耀と燻ぶり続けている。
(ごめんね、日直で遅くなっちゃった)
(平気だぜ、じゃあ帰るか)
(…………って、李典さん、これはどういう事でしょうか)
(手を繋ぎたい、俺の勘がそう告げている)
(そ、そんな事………!……うう、悔しいけど、若干思ってたかも………)