「あの、賈充さん。」
「なんだ。」
「海………行きません?」
「………………。」
ああ、やっぱりダメか。ダメ元で言ってみたななしだが案の定、賈充の表情は何一つ色を変えない。鋭い目付きは誰にでも平等に注がれ、その範疇となる彼女にもまた、涼し気な視線が寄越される。
「で、ですよね、色白な賈充さんの事だから、焼けるのはやっぱり……」
「どうして俺が行きたくないと思った?」
「…………え、っと。……その顔は興味ない、という顔だと。」
「ほう、お前はその曖昧な判断を頼りに俺の顔色を伺っていたのか。」
「……うう……結論を言えばどちらなんですか。」
いい加減睨まれるのも居心地が悪いと肩身を狭める彼女を見て、賈充はくつくつと喉を鳴らし始めた。
「くく………本当に面白い。」
「私をからかっても面白くないですー。」
そう言って賈充のシャツを思い切り引っ張れば、分かった分かったと言いつつ満更でもない様子で笑みを浮かべ続ける彼。
「……いいぞ、お望み通り行ってやる。」
「え!本当ですか!」
「ああ………但し、だ。」
スッと、指先を真っ直ぐ立てて、彼女の方角へ静かに指す。その指された先を追ってみると、自分の胸元に当たった。
「露出のない水着とパーカー、それらをクリアしたならば、行ってよし。」
「………………。」
「どうした……何か問題でもあるか。」
「買いたい水着………これなんですけれど。」
雑誌を漁って賈充に見せつけると、やはりと言った所か、微かに眉間に皺を寄せて
「駄目だな。」
と、呆気無く却下された。
賈充から受けたノルマから程遠い、可愛らしいフリルのついたビキニ。当然受け入れられる筈もなく、その雑誌はすぐさま取り上げられる。
「…………なるほど、最近はこういうのが流行りなのか。」
「その……流行りに乗ろうとはしていませんよ?ただ、可愛いかなって。」
「そうだな……これを着て行って、お前が後悔しないのであれば、いいんだがな。」
「………後悔?」
「全く、男の気苦労も分かって欲しいものだ。」
と、息を吐きながら脚を組む賈充を見てななしは不思議に首を傾げる。
「と、とりあえず、分かりました。賈充さんがそこまで言うのであれば、私はもっと地味な水着とパーカーを買います。それなら、行ってくれるんですよね。」
「ああ、必ず行く。」
約束ですよ、そう笑って小指を立てれば、賈充は静かに黙りつつもその小指に自分の指を絡めた。
「人、凄い………。」
有名なスポットだけあって、人の数も尋常ではない。室内プール並みに芋洗い状態であり、パラソルやシートで砂浜はほぼ埋め尽くされていた。
足の踏み場もないこの惨状に、流石のななしも絶句せざるを得ない。
「……………。」
恐る恐る隣に立つ賈充の姿を見れば、太陽の日差しに晒される真っ白な肌がやけに眩しく思わず見惚れてしまうが、そんな悠長な事を言っている場合ではない。涼しい顔ながらも眼科に広がる現状にこの上なく不機嫌な雰囲気を醸し出している。
「…………賈充さーん。」
「………なんだ。」
「気をしっかり、まだ始まったばかりです、よ。」
「俺は別段普通だが?」
「ごめんなさいその顔は普通じゃありません。」
ニヒルに口角を上げた顔つきが妙に恐ろしく、真夏だというのに一瞬にして背に極寒が襲った。これから起こるであろう展開に思わずパーカーのジッパーに手を掛けて上に上げる。
「と、とりあえず、海の家とか行ってみますか?お腹も空きましたし。」
「そうだな……こんな阿呆みたいな人数で空いていればいいが。」
「う……そうですよね。」
お腹辺りを擦って悄気げる彼女に、
「くく……そう思って予め用意しておいたんだが……食うか?」
と、賈充は自分の鞄からサンドイッチを幾つか差し出した。しかも素晴らしい事にそれが手作りという。
「賈充さん……!貴方は神様ですか!」
「こういう事を想定しておいたまでだ。まさか、呑気に日焼け止めクリームやら自分の持ち物ばかりに気を取られて肝心な事に気付かないとはな……。」
「うう、すみません……。」
「まあいい、普段からお前の管理は俺がしているようなものだしな。」
確かに、とななしは改めてハッと気付く。賈充は自分が気付かないような所にもすかさず察知し完璧に熟せるのだ。
それはつまり
「ああ……お母さん。」
「誰がお母さんだ。」
「ありがとうございます。有りがたく頂きますね……けれど、まずは座る場所を決めましょうか。」
人混みの中を暫く歩き回っていると偶然帰る人達の場所を確保出来たので、咄嗟に持ってきたシートを敷いて草臥れた身体をうんと伸ばす。
「やっと見つけましたね……泳ぐ前にクタクタです。」
「そうだが……よく見ろ、海は近いぞ。」
「あ、本当だ……!」
言われた通りすぐそこには透き通るような青い海。更に運が良い事に人の数も僅かばかりだが少ない。
「いい所空きましたね。でも先にサンドイッチ、頂きます。折角用意してくれましたし。」
「ふ……食い意地だけは一人前か。」
「今、何か言いましたか。」
いや何も、と色っぽく黒髪を掻き上げる賈充。普段黒い服で隠された逞しい肉体が余計に彼女を魅了して、サンドイッチよりもそちらに釘付けになってしまう。
女性も憧れるような絹のように白くて滑らかな肌。それでも筋肉は程良くしっかりと付いていて男らしさもしっかりある。それに加えてこの顔立ちだ、反則にも程がある。
心なしか、近くにいる女性達の視線も集めている気がして。
「……………。」
「どうした?」
「あ、いえ、何でも無いです。」
誤魔化すように笑って再びサンドイッチに目を向けると、無意識に指先に力を入れていた所為で中身の具が微妙にはみ出していた。まずい、と慌ててななしははみ出した具のみを口に入れて何とかこぼれるのを防ぐが、どうにも周りの視線が気になって仕方ない。
「…………(もしかして)」
賈充さんも、同じような事を考えていた?
気持ちが晴れないまま何とかサンドイッチを完食し、そろそろ海で遊ぼうかと徐に立ち上がる。パーカーを脱いで水着姿になれば賈充もまた立ち上がって
「俺も行く。」
と、すかさず彼女の手を取った。
「わっ………。」
「勝手にふらつかれて迷子になられても困るしな。」
悪戯に笑みを浮かべつつも、掴む手に力がこもるのを感じる。そこへ熱が一気に集まり、なんだかんだ心配してくれる彼は優しい、そう思いながら嬉し恥ずかしい気分にななしは小さくはにかんだ。
しかし海のほとりに来るなり、彼女は更に手に力をこめて尻込みをする。
「ね、賈充さん、私……。」
目色を変えて唇を紡ぐ仕草を逃さず、賈充はすかさず彼女の躊躇いを察知した。
「……泳げないのか。」
「………かなづちまでは行かないんですが、実はあんまり得意じゃないんです……。」
じゃあ何故海に行こうと言ったんだ。そう迫られるかと覚悟をしていたのだが、賈充は何も言わなかった。
「なら砂浜で脆く崩れる城でも作るか?」
「い、嫌ですよそんな!作るならもっと頑丈に水を含んで……。」
「で、結局どっちにするんだ。」
「あ………えっと、砂遊びじゃなくて、フォローしてくれませんか。手を繋いでくれるだけでいいので……。」
「くく……離したら、面白そうだが。」
「やめて下さい……!お願いしますね、本当に!」
慌てふためくそんな状態が面白かったのか、賈充の表情はいつになく穏やかそのものだった。
賈充が心から笑ってくれている。それを見て安堵したななしは手を繋いだまま海へと身体を沈るが、思っていたよりも波が大きく、彼女にとってそれが不利な状況へと追い込んだ。
「怖い………っ、足がつかないと不安………!」
「安心しろ、俺がいる。」
身長差がある為か、賈充はギリギリ足が付く場所でもななしにとってそこは既に足場のない不安定な場所。何とか身体を浮かせようと足でバタバタと藻掻くが、どんどんと水に引き込まれていく感覚が妙に恐ろしい。
「うう、賈充さん………!」
「くく……そうしてい間にも、ほら。」
俺も足を離した、そう言われて彼女の表情はみるみる青ざめていく。
「やだ、落ちる……浮き輪……!」
「かなづちではないのだろう……?」
「そうですけど、こういう波は別ですから……!」
「そう簡単に飲まれるものか。が、そんなに怖いなら……俺に抱き着けばーー」
その言葉よりも先に彼女は身体を寄せて賈充の脇下辺りに手を滑り込ませ、離さまいと強く抱き締めた。
「ななし…………。」
賈充は含み笑いを辛うじて堪える。実を言えば、賈充の足はまだ底に付いているのだ。しかしそんな事を考えている余裕のないななしは躊躇なく彼に身体を密着して、柔らかい部位が容赦なく当たってしまっている。
「うう……っ。」
「怖がりめ。」
「だって………っ。」
「……だが、そんなお前も、愛おしい。」
過酷な状況での告白にななしの足はピタリと止まり、うっかり手を滑らせそうになる。いきなりそんな発言されて戸惑わない訳がない。
「俺の気持ちが分かっただろう。お前がこの大勢の中で肌を晒せばどういう目で見られるか。俺がそうされたように、お前も他の奴からそういう目で見られるのが非常に気に食わん。」
「……っ……知ってたん、ですか。」
「丸分かりだ。自分の容姿に対しては別段何とも思わんが、お前から見れば少しでも俺が誰かから見られるのが嫌なのだろう……?」
「でも、私なんて賈充さんと違って、色気なんてないですし………。比べるまでも……いたっ!」
頬を抓られ、堪らず声を上げる。
「いひゃい………。」
「ふ、間抜け顔。」
「それは賈充さんが………っ。」
「好きだからこそ、嫉妬の感情も無意識に生まれる。」
「……………っ…………。」
「お前が俺以外に見られるのが気に入らない、それだけだ。」
あの冷徹な賈充がヤキモチを妬くなど、世界がひっくり返ってもないと思っていたが……まさかだった。意外すぎて、言葉が上手く出てこない。
しかし気が付けば荒れていた波も収まり、足元が薄っすらと見えて……
「あれ……よく見ると、足……。」
「ああ、最初から付いているが?」
「………………………。」
「くく………。」
馬賈充!と声高らかに言いたかったが、好きだと真顔で言われたら、そんな気も失せてしまうわけで。
「うう、卑怯……。」
「さて、何の事だろうな。」
そう言いつつ彼の指は彼女の顎に添えられていて、企みを含んだ顔が異様に近い。整った顔が近いとそれはもう目を逸らさずにはいられない。
「………人いますよ……。」
「だから?」
「だから……そのですね……。」
知ったことか、と黙らせるように塞がれた彼の唇は冷たくなっていた。
「ここにもう来れません……。」
あの後、散々唇や身体のあちこちで遊ばれて周りの客から脚光を浴びる散々な結末に。水中だと思うように身体も抵抗は出来ず、かと言って離れれば上手く泳げずに密着せざるを得ない、そんな訳で首や胸元には容赦なく付けられた深紅の痣。パーカーでも隠せない位に絶妙な位置に付けられたので、結局人の目を気にしながら夕方になってしまった。
「安心しろ、誰も覚えていやしない。」
「私は鮮明に覚えてますから………。」
「悪いな、あれだけ密着されれば流石の俺も理性が効かん。」
「うう………誰の所為で……。」
ぶつくさと足で砂浜を蹴り上げながら不意に地平線に目を向ければ、茜色の空に見送られながら夕日が向こう側に沈みかけている。
「…………綺麗。」
「……そうだな。」
そう答える賈充もまた夕日に映えて美しい。
「また、来年も……いいですか?」
「……もう嫌ではなかったのか。」
「た、確かに今日は色々ありましたけど……それでも、賈充さんといると、とっても幸せな気持ちになりますから。」
「くく……そうか。」
ぽん、と頭に乗せられた手が心地良く、うっとりと細められる目。
「今日は、ありがとうございました。」
「……礼を言われるような事は別にしていない。……が、ななしが幸せなら、それでいい。」
低音で囁く声色と海のさざなみに耳をすまして、静かに瞼を閉じれば唇に触れる温かい感触。先とは違う優しさに包まれながら、ななしはゆっくりと賈充の胸板に凭れた。
(そうだ!賈充さんも次からは上を着てくださいね!)
(くく、仕方ないから着てやろう)