第1話


 それは、夏休みも明けた九月の半ば。

 昼休みの教室。
 昼食のサンドウィッチを食べ終えた私は本を読んでいた。
 がやがやとクラスメイトの声が騒がしい。言葉としてのカタチが聞こえない喧騒の中で、私は物語の世界に耽っていた。
 別に、騒がしいところが嫌いなわけじゃない。そもそも嫌いなら、図書室とか、もっと静かなところに行くわけだし。ただなんとなく、その喧騒の中に入ることができないだけで。
 たぶん私は、窓一枚隔てた向こう側で、賑やかな喧騒を眺めていることが好きなのだ。
 そんな喧騒の中で、私は黙々と本を読み進めていた。
 物語の世界に入ってしまうと、外の音は遠い世界のように感じてしまう。つまり、集中すると周りの音が耳に入ってこない。
 そのはずなのに、

「野々原夕鶴さん」

 私の名を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
 それほど大きな声だったわけじゃない。それこそ、この喧騒の中では掻き消えそうな声。
 それなのに、その声だけがやけにはっきりと聞こえたのだ。驚いて顔を上げると、男の子がそこにいた。
 整った顔立ちをしているなぁと思った。どこか不敵で強い目をしているから、なんとなく近寄りがたい印象もみせるけれど。
 そんな男の子は、私と目が合うとにこりと笑った。
 どうやら、この男の子は私のことを知っているらしい。でも私には見覚えがなかった。人の顔を覚えるのは得意な方だし、この人のような印象の強い人は、もしどこかで会っていたり、話したことがあったら、覚えていると思うのに。
「えっと?」
「僕は国見楠那。どうぞよろしく」
 とりあえず本に栞を挟んで、脇に置く。
 男の子……国見くんはそんな私を眺めながら、「邪魔しちゃてごめんね」と、言葉とは裏腹に、あまり申し訳ないとは思ってなさそうな表情をしている。
「私に何か用?」
「うん。今日の放課後、二人で話ががあるんだけど、いいかな?」
「私に?」
 突然そんなことを言われても困ってしまう。
 今日初めて会ったであろう国見くんに、なんだか込み入りそうな話をされる覚えなんて全くない。
 私が困惑しきっ表情になっていたのだろう。国見くんは困ったように小首を傾げた。
「駄目かな?」
「駄目っていうか……うん、嫌、かな」
「はっきり言うなぁ」
「曖昧に濁しても仕方ないし。それに、私はあなたと初対面でしょう? 初対面の人に二人で話をしようと言われても」
「……確かに」
 苦笑を浮かべて、国見くんは息を吐いた。
 けれど、唇に手を当てて何かを考えるような仕草をする国見くんは、ふいに、くすっと笑った。なんだか、あくどいことを考えているような、小さな子どもが悪だくみを思いついたような、そんな顔。
 思わず身構えてしまう私に、国見くんはおどけたように笑う。
「やだな。別に何もしないよ」
「何もしない人は、そういう悪そうな顔なんてしないと思うけど」
「酷いなぁ」
 微塵も思ってなさそうな顔をして、そんなことを言う。
 警戒を続ける私に、国見くんはやれやれといった様子で肩を竦めた。
「本当なんだけど、信じてもらえないなら仕方ない。今日のところは諦めるとしようかな」
「……今日のところは?」
 嫌な予感がする。
 つまり、私が了承するまで毎日ここに来るということなのだろうか。
 嫌そうに顔を顰めてしまった私を見て、国見くんはにやりと笑う。
「冗談でしょう?」
「さて、どうでしょう?」
「あのねぇ!」
 思わず声を上げてしまった私は、何人かのクラスメイトの視線を感じて、慌てて口を押える。
 このままここにいると変に目立ってしまうような気がして、私は立ち上がると国見くんの腕を引いて教室を出た。その間、ちらちらと視線を向けられているような気がしたけど、そんなのは無視だ。
 廊下の隅まで引っ張って行って、私よりほんの少しだけ高い国見くんを強く睨む。
「どういうつもり?」
「どうって?」
「本当に用があるなら、こういう方法は逆効果だって思わないの?」
「安心して。人によって使い分けてるから」
 なんとなく嵌められたような気がして、私は怒りを通り越して脱力した。
 のらりくらりと躱すこの人をまともに相手にすると、逆に疲れるかもしれない。初めて会った人にそう思ってしまうのは、失礼な気もするけれど。
「……分かった。とりあえず、話だけは聞いてあげる」
「本当? ありがとう」
 大げさに溜息を吐いてみせたのに、国見くんは白々しい顔でそんなことを言う。
「……聞くから、もう教室には来ないでね」
「君以外に用があるときだってあるだろう?」
「それ、屁理屈って言うと思うんだけど」
「あはは。冗談だよ」
 からりと笑う国見くんとは対照的に、私はまた溜息を吐いた。まったく、なんだか厄介そうな人にからまれてしまった。
 了承してしまったけど、このまま放課後にまた話を聞かなければいけないのかと思うと、出来ればご遠慮したい。……たぶん、話を聞かなかったら、明日も教室に来そうだから、そっちの方が嫌だけど。
「それじゃあ、放課後。屋上に来てね」
 私がそんなことを考えているのを知ってか知らずか、国見くんは待ち合わせの場所を指定をすると、一度ひらりと手を振って、さっさと歩いて行ってしまった。
 ……よく見ると上履きの色が一つ上の三年生のものだ。先輩が、わざわざ下級生の教室に来るなんて。本当に、一体何の用があるのだろう。


 ***


 そして、放課後。
 一足早く屋上に来てしまった私は、フェンスに身体を預けてぼんやりと校庭を見下ろしていた。
 どこかの部活が、トラックを走っている。なんだかふざけ合ったりしていて楽しそうだ。そんな私は、中学生の時は弓道部に入っていた。だけど、この高校に弓道部はない。だから、今の私は帰宅部だ。
 今更どこかの部活に入りたいとは思わないけれど、ああいう光景を見ていると、あの頃のことを懐かしく思ってしまう。
 それにしても、だ。
 先輩はまだ来ない。いつになったら来るのだろう。腕時計を見ると、すでに三十分は経っている。人を呼び出しておいて遅れるなんて、一体どういう神経をしているんだ。他人に対して、負の感情を持つことなんて殆どないのに、昼休みの印象があまりにも悪いせいか、怒りがふつふつと湧いてくる。
 このまま、あと五分待っても来なかったらメモを残して、帰っちゃおうか。そんなことを考えていると、がちゃりと背後で扉が開く音がした。
 振り返ると、私の心を読んでいたかのようなタイミングで、国見くん……もとい、国見楠那先輩が立っていた。
 私はフェンスから離れると、先輩の元まで歩いて行く。
「あれ、早かったね」
「先輩が遅いんだと思います」
「ごめん、ごめん。ていうか、別に今更のように敬語なんて使わなくてもいいのに」
「一応、後輩なんで」
「律儀だねぇ」
 小さく笑って、先輩は扉を閉めた。それから、なぜか鍵まで閉めた。……どうしてわざわざ鍵まで閉める必要があるのだろう。そこまで誰かに聞かれたくない内容なのだろうか。
 ……というか、やっぱりここには来ない方が良かったのでは?
「そう警戒しないでよ。別に取って食おうってわけじゃないんだから」
「昼休みのことは覚えています?」
「あはは。それはそれ、これはこれ」
「……わかりました。さっさと要件をお願いします」
 このまま先輩のペースに合わせると、また思惑に乗せられるような気がして、私は要件を促した。
「そうだね。このままからかい続けたら、いい加減ほんとうに帰っちゃいそうだし」
 そう、からからと笑っていた先輩だったが、ふいに真顔になった。そして、それを告げる。

「君には審神者になってもらいたいんだ」

「…………は?」
 何を言われたのか理解できず、私はぽかんとした表情で国見先輩を見上げた。
「うん、予想通りの反応だね」
「……からかってます?」
「まさか」
 先輩はくすりと小さく笑う。
 でも、笑ってはいるけど、その目の奥はちっとも笑ってない。いっそ冷たいくらいの怖い目をして、私を見やる。
「僕は噛み砕いて話すことが苦手でね。まぁそれでちょくちょく叱られるんだけど、直す気はないから勘弁してね」
「……はぁ」
 なぜだろう。
 今すぐここから逃げた方がいい気がした。でも、残念ながらここから逃げることはできない。なぜなら、先輩は扉の前に立ちふさがっているからだ。そして、鍵まで閉められている。
 無言の抗議の意味を込めて先輩をにらみ上げたけれど、先輩はただただ笑うだけだ。
「それじゃぁ、まず初めに、歴史修正主義者と名乗る時間犯罪者がいてね」
「…………」
 そんな一言から始まった説明に、私は理解することを拒否したくなった。