第4話


 私は小さな頃の記憶がない。正確に言うと、五歳の頃に記憶喪失になったのだ。
 ある日、目が覚めると私は私のことが分からなくなっていた。覚えているのは、名前だけ。それ以外、何も覚えていなかった。本当に、目が覚めたら養護院のベッドの上にいたのだ。どうして私はここにいるのかということも、覚えていなかった。
 今でこそ折り合いを付けていられる。だって、小さな頃の記憶を正確に覚えている人なんて、ほとんどいないから。私だってそう。小学生の頃の記憶なんて、もうあまり覚えていない。
 でも、あの頃の、記憶を失くしたばかりの私は、何も覚えていないことがとても怖かった。誰も私を知らない。私を知っている人がいない。私すら、私のことを覚えていない。そのことが、とても怖かった。私は、一体誰なんだろう。ただ、それだけを考えていた。
 あれから、もう十二年。
 私は、誰なんだろう。そう考えることはなくなったのか、と聞かれたら嘘になる。でも、思い出せない過去を、失ってしまった過去を想い続けるのは、なんだか不健全だ。
 だって私は、これから生きていくことの方が、ずっと、ずっと長いから。だから折り合いを付けていられる。……ううん。きっと、努力していると言う方が、正しいのかもしれない。



 今のところは異常は何もなし。
 映し出されたモニターを見て、私は息を吐いた。
 あの日、歌仙さんに提案されたのは、しばらく審神者として過ごしてみないか、ということだ。見習い審神者、みたいな感じかもしれない。平日は授業を終えてから夜までと、休日は一日中、本丸で過ごしている。
 中学生までは養護院で過ごしていたけど、卒業したら、出なければいけなかったから、今の私は高校の寮生活。そして、部屋は一人部屋だ。だから、人目を気にする必要もない自室から私はここに来ていた。
 今日は土曜日。
 朝から本丸に来ていた私は、こうしてモニターとにらめっこをしていた。大きな異常があれば出陣で、小さな反応だと遠征。そこから出陣という形になることもある。何度か出陣のお願いをしたことがあるけど、私が行くわけじゃないのに、今でも緊張してしまう。
 あれからもう一か月。
 一か月が経とうとしているのに、私は審神者になるかどうかを決められずにいた。
 ゆっくり考えれば良い。歌仙さんはそう言ってくれたけど、あまり長々と待たせてしまうのは、果たしてどうなのだろう。早く決めないといけないと思うのに、なかなか決められない。
 感情に流されるのではなく、私の意志で。審神者になるのか、ならないのか。
「夕鶴」
 ふいに障子が開いて、私は顔を上げた。
 入って来たのは、黒髪の男の子。厚くんだ。
 厚くんは、厚藤四郎。粟田口吉光が打った短刀の一振り。見た目は私より年下に見えるのに、彼もまた刀剣男士。
「……どうかしたのか?」
 用があって来たはずなのに、厚くんは心配そうな顔をして尋ねてくる。たぶん、私は浮かない顔になっているのだろう。
「え、何が?」
 だけど私は、なんでもない振りをして笑って返した。
 これは、私のこと。私が決めないといけないこと。だから、だからこそ厚くんに相談したくなかった。厚くんだけじゃない。歌仙さんにも、他のひとにも。
 厚くんは何かを言いたそうに口を開いたけど、小さく首を振った。けれど、すぐに笑顔を浮かべる。
「さっきサツマイモ収穫したんだけどさ、こっちに来ないか? 焼き芋食べようぜ」
「私も良いの?」
「良いから誘ってるんだろ」
 からからと、いい笑顔。
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
 少し迷ったけど、私は頷いた。
 今でも私は、みんなの輪の中に入ることに躊躇いを感じてしまっていた。でも、誘ってくれるのに断るのも、なんだかおかしな話だから。
 それに、みんなといるのは、やっぱり楽しいから。
 厚くんと部屋を出て、向かったのは桜の樹がある庭だ。ここで、落ち葉を集めて焚火にして、焼き芋にするらしい。落ち葉で焼き芋、だなんて漫画の中でしか見たことがなかった。だから、素直に感動してしまう。
「すごいね」
「毎年、この時期になると落ち葉を集めて焼き芋にするんだ。大将も、好きだったんだぜ」
「そうなんだ」
 大将、とは最初の審神者さんのこと。私のことは名前で呼んでもらっていた。厚くんだけじゃなくて、他のみんなにも。名前で呼んで欲しいとお願いしたのは私だ。だって、まだ審神者になると正式に決めたわけじゃないから。
 庭には、この本丸で過ごす刀剣男士のみんながいる。
 だけど、ひとりだけ輪から少し外れているひとがいた。
 鶴丸国永。
 この本丸に行き来するようになって、一か月経つのに、いまだに一度も言葉を交わしたことがないひと。
 なんとなく、じっと鶴丸さんを見つめる。
 その時、少しだけ目が合ったような気がした。けど、すぐに視線は外れたから、もしかしたら気のせいかもしれない。
 私は、小さく息を吐くと、そっと視線を逸らした。
 つい先日のことを思い出す。
 手持無沙汰だった私は、本丸を散歩していて、道場の傍まで来たことがあった。
 熱気が籠もるからなのか、扉は大きく開けっ放しになっていて、竹刀と竹刀がぶつかり合う音がよく響いていた。
 近くで見てみたい気もしたけど、剣の手合わせをしているところに近付くのは、なんとなく邪魔になってしまいそうな気がして、近寄り難い。
 だから、扉が大きく開け放たれていることをいいことに、私は外から手合せの様子を眺めていた。
 手合せをしていたのは、厚くんと鶴丸さん。
 厚くんは短刀の竹刀を振るっていて、(短刀の竹刀があるなんて、初めて知った)鶴丸さんはふつうの竹刀。太刀より短刀の方が不利なのでは、と思っていたけど、そう単純なことではないらしい。
 いつもはどこか子どもっぽい笑顔を見せることが多い厚くんは、あまり見たことがない気迫に満ちた顔をしていた。竹刀を使った稽古とはいえ、剣の試合なのだから、当たり前だとは思うけど、それがなんだか少し新鮮だった。
 それとは対照的に鶴丸さんはとても楽しそうだった。それは、厚くんを侮っているとか、そういうわけじゃなくて、試合を、剣を振るうことを楽しんでいるように見えた。白い着物が舞っているように見えて、まるで踊っているみたいだった。
 私がいることに気付いたのか、先に鶴丸さんが構えを解く。それに気づいて厚くんも動きを止めて、私に気付いて手を振った。私もつられて振り返す。
 それから、鶴丸さんと、少しだけ目が合って。――すぐに逸らされてしまった。
 あの時。
 なぜか私は、思わず手を伸ばしていた。
 その手に行く先なんてないから、すぐに下ろしてしまったけど。
 どうして、私は手を伸ばしたのだろう。今でも、その理由は分からない。
 あの後、厚くんは何か言っているように見えたけど、鶴丸さんはどこ吹く風といった様子で、どこか曖昧な笑顔を浮かべていたように思う。
 一言か、二言か何か言い合って、厚くんの持っていた竹刀を抜き取ると、自分の竹刀と一緒に竹刀掛けに掛けに行っていた。
 厚くんが再び何かを言っているようだけれど、鶴丸さんは聞こえない振りをしているようにみえた。
 厚くんが私を見る。
 何か言いたそうな顔をしていたけれど、私はただ曖昧に笑った。だって、別に何かしてほしいわけじゃなかったから。
 厚くんが、それに気づいたかどうかはわからないけど。



「夕鶴」
 厚くんの声で、ぼんやりとしていた意識を戻す。
 目の前には。半分に割られた焼き芋があった。
「サツマイモ、ほんとは嫌いになってたとか?」
「へ? ううん、食べる」
 焼き芋はホクホクを通り越してアツアツだ。それに、お芋の色もどこか薄い色をした黄色じゃなくて、真っ黄色。
 手渡された軍手を嵌めて、火傷しないように気を付けながら、一口食べた。
「美味しい」
 びっくりするくらい、甘くて美味しい。
 ふぅふぅと冷ましながら、また一口食べる。
 うん、とっても美味しい。
「すっごく美味しい」
「それしか言えねぇよな」
 厚くんは、自分が褒められたみたいな、嬉しそうな顔をして笑っていた。
 でも、それもそうか。畑仕事は、みんなでやってるもんね。
 後藤くんが(後藤くんも、厚くんと同じ粟田口吉光の短刀だ)、声を掛けながら鶴丸さんに焼き芋を持って行っている。私はなんとなく、その様子を眺めていた。
 ……言いたいことがあるなら、面と向かって言ってくれればいいのに。そう思うときはある。
 でも、私だってそのことを鶴丸さんに直接伝えていないのだから、ひとのことは言えなかった。
 どうしてだろう。
 どうして話せないのだろう。
 どうして話してくれないのだろう。
 私のことが嫌なら。嫌いなら。はっきりそう言ってくれればいいのに。
 だって、私は。
 どうしたって、この本丸の後継の審神者でしかないのだから。