全部君のせい
美夜side
行儀が悪いけど、話しながら食事していた時。頭をぶつけた時。早口言葉の挑戦中とかにも。舌や口の中を噛んだ経験は、皆あると思う。
「ごちそうさまでしたー!」
「ごちそうさまでした」
「はーい、ありがとうね」
食堂で昼食を済ませて、食器を返却口へ運ぶ。返却口から見える洗い場担当の方に「ごちそうさま」を言うのはいつものことだ。優姫や沙頼と同じく私も言うのだけど、今日は笑顔で会釈するだけ。
簡潔に言うと、噛んだ。思いっ切り噛んだ。返却口に行く途中、生徒にぶつかった拍子に噛んだのだ。今、私は口を開くととんだホラーになる。
「美夜?どうしたの?」
沙頼が顔を覗き込んでくる。気付いて優姫も私を見る。私は口の中の血を飲み込み、血色が見えないように口元を手で覆った。
「頬、噛んじゃって出血がさ……お手洗い行ってるから、先戻ってて」
「大丈夫?出血って……」
どれだけ力を込めて噛んだのよ、と沙頼に呆れられてしまう。この学園での出血がまずいと知っている優姫に急かされて、私は一番近いお手洗いに入った。
幸いにも誰もいない。私はもう一度鉄の味を飲み込んで、鏡に向かって口を開けた。
「うわあ……」
歯が赤い。噛んだのは左頬だがかなり出血している。たかが噛んだだけーーそう思わないでほしい。私には立派な牙がある。刃物のように切れ味が良い訳ではなくても、人の肌を突き破るものだ。
牙を持つ吸血鬼ならば、口内を牙で傷つけても持ち前の回復力ですぐに血は止まるだろう。でも私の治癒力は人並みだ。
これが外であったなら、多少焦りもする。通りすがりの吸血鬼に目をつけられたくはないし。でも今いるのは学園で、ほとんどが<貴族>の夜間部生は少し血臭がしたからと騒ぎはしない。というか今は昼で私は校舎にいる。私の血臭が月の寮まで届くことはないだろう。
二、三回口をゆすいで、数分おいて口の中を確認。血は大体止まっていた。
「うん、大丈夫そう」
あまり長居して女子生徒に牙を見られたら厄介だ。まだ鉄の味は滲んでいるけれど、私は教室に向かうことにした。洗面台に血が残っていないことを確認してから、お手洗いを出る。
廊下を歩き出してすぐに、違和感を感じた。数人の生徒が逃げるように私とすれ違う。でも悲鳴が上がってる訳ではないのでとりあえず進む。
廊下を曲がって私が目にしたのは、黒い空気を背負った零だった。
「あ、零……」
「……」
生徒が逃げている原因は彼とみて間違いなさそうだ。私は別に怖くないけれど、無言で睨まれると流石に冷や汗が流れる。怒ってはなさそうだけど不機嫌だ。
……近付いていいよね。
ちょっと迷ったけど足を止めずに歩み寄る。零の前まで来ると、お互い止まって向かい合う。何だろう、この空気。じっと見下ろされているので、私もじっと見上げる。
「どうかしーーーーんむっ」
突然顎を掴まれた。一体これは何事か。零を見上げたまま顔の位置が固定され、私は瞬きを繰り返した。本当にどうしたのだろう、そう思ってはっとした。
……いた。この校舎にも吸血鬼が。
「……大体血は止まったよ」
零の眉間の皺が深くなったのは謎だが、彼の不機嫌の理由に間違いはなさそうだ。出血場所が分かっているあたり、優姫に聞いたのだろうか。
「血の匂いがする……」
やっと喋ってくれたと思えばそれだった。私には分からないが吸血鬼には香ってしまうのだろう。
「でもほとんど血は止まったから。放課後までには匂いも無くなるよ」
「口開けろ」
「はーい……」
大人しく口を開けて、指で傷の場所を示す。気恥ずかしくて何と無く視線を逸らした。口の中に視線を感じるのが本当に恥ずかしい。あまり顔を近付けていないのがせめてもの救いだった。少しして、零が今度は指を伸ばしてくる。
「う……?」
思わず体に力を入れて、傷に触れるのは駄目でしょ、と視線で訴える。顎を固定する零の手を離そうか、と両手を空中で泳がせる。別に叱られている訳ではないが、零の手をはがす度胸はなかった。
唇に指が触れて、泳いでいた手が硬直する。しかし零の指は傷ではなく、私の牙に触れたらしかった。
「ほんとにあるんだな……」
「はあへ」
まあね、と言いたかったのだけど、口が開いているので中途半端な音になる。零が少し笑った。体勢もあれだし笑われるし、顔の熱が引かない。
「なあ、俺の手咬んでみろよ」
「……へ?」
指を引いた零が、私の前に手を出した。突拍子もない言葉に、目の前の手と零の顔を交互に見る。零の真意は分からないが、冗談を言っている風ではなかった。
私が咬んでもすぐに治るだろうけど痛みはあるし、わざわざ零を傷付ける気はない。
「駄目だよ。というか何で?」
「どうせ治るし……出来心?」
「やめとこう、うん」
零が眉を寄せた。……私、おかしなこと言ってないと思うんだけど。
「じゃあ、俺が今ここで美夜を咬むけど」
「何故……」
そっちの方がまずい。私はすぐに治らないのだから。生徒が通る可能性もある。零が私を咬むのはまだ分かるけれど、私が咬んで零にどういう利があるのか。
咬まなければ咬まれる……どっちもどっちな気もするが、私にとって負担が少ないのは明らかに前者で、零に痛い思いをさせてしまうが零自身が望んでいるのも前者だ。だったらもう腹をくくった方が無難かもしれない。
「わ、分かったから……痛いと思うけど?」
「……俺がしてる方が痛いだろ。気にするな」
「えっと……では」
手の平を上にしてある零の右手に、妙に緊張して手を添える。私は元々平熱が低い方で、しかも今は緊張しているからか、零の手はいつもより暖かく感じた。
口元まで手を持ち上げて、親指の付け根辺りに噛み付いた。噛み付いたと言えるものではないけど。これじゃ甘噛みだよ、ただ恥ずかしいだけだよ!
半ば自棄になって、立てた牙と顎に力を込める。牙が肌を破った感覚が伝わると、私は即座に顔を離した。
「美夜、そんな遠慮しなくて、も……」
浅く傷付けただけだけど、牙跡からは血が滲んでいた。傷はもう塞がってしまっている。少し羨ましく思いながら、私は滲んだ零の血に口を付けた。二カ所の血を舐め取ってから、ハンカチで唾液を拭き取る。
「一応、咬んだよ」
私は零を見ずに言い、正方形に折りたたんであるハンカチで顔を扇いだ。大した風はこないけど、茹でられたみたいに顔が熱い。
私は片手で零の手を持ったまま、零を目だけで窺った。
「今のは美夜が悪い……」
「え」
空いている手で自分の顔を覆った零が、どことなく弱々しい声で言う。そんな零の目元が赤いのを見て、私は目を見開いた。
「顔赤い……?」
「見るな」
「ちょ……っ」
「見るな動くな」
掴んでいる手を解いた零に目を覆われた。理不尽な言い分だが大人しく従い、体を硬直させて手も空中に留める。ふわふわとした沈黙を、私は口内に僅かに残った鉄の味で紛らわした。自分の血か零の血か、全く判別は出来なかった。
予鈴が鳴って視界が戻ると、私が目を慣らしている間に零はさっさと歩き出してしまった。一体何がしたかったのかは謎だけど、零の背中は何となく上機嫌だった。
fin
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