手を伸ばす4


 錦は、きしむ体にやや顔をしかめつつ、服の裾についたゴミを払い、傷一つない手を確かめるように動かす。握り込み、開く。そうした動作を数回繰り返してから、周囲を見回した。
 現在地は、鈴木財閥所有展示場の屋根の上だ。頭上は星空、足元は無機質で、喧騒やサイレンの音が遠くに聞こえている。ぽつぽつと、消えていた街灯が点灯し始めていた。

「ああ、本当に無線が使えるようになってますね……」

 警察の無線を盗聴し、都合のいいように誘導しながら、怪盗キッドが呟いた。

「それで、あなたは誰なんですか?」

 錦とほとんど同じ目線の高さで、怪盗キッドが問うてくる。視線が合っているのは、怪盗キッドがしゃがんでいるからでも、錦が台に乗っているからでもない。
 錦の見た目は、小学生の中でもひときわ小柄な女の子ではなかった。女性にしては長身で手足も長い。つい数分前までガラスケースに入れられていた、ミス・ドライアドそのもの。
 錦はミス・ドライアドの姿で、いつも通り柔らかく笑む。

「わたくしは、んん、橙茉錦よ」
「見え透いた嘘はよしてください。わたしは、あの少女を知っています」
「あちらもわたくし、今もわたくしよ。あ、あー」
「……なんです?」
「寝起きで声が枯れているわ」
「あのガラスケースからの入れ替わり……どういうトリックを?」
「入れ替わったと思っているの?本気で?」
「……あなたは、"何"なんですか?」
「聞きたい?」

 体の後ろで手を組んで、怪盗キッドをのぞきこむ。「ねえ、知りたいの?」からかうように言う。怪盗キッドが言葉に詰まると、錦は一つ満足げに笑った。彼はロマンチストだが基本的にリアリストだ。真正面から遭遇した怪奇現象のタネを飲み下すには、せめて冷静になってからのほうがいいだろう。
 錦は無造作にオペラネックレスを外すと、怪盗キッドに手渡した。

「これがお目当てなのでしょう」
「……ええ。お借り、します」
「わたくしのものではないのだけれど、どうぞ」

 怪盗キッドがブラックダイヤモンドを月にかざしている間、錦は良すぎる視力で地上を確認しながら腹をさすった。
 錦は空腹だった。だが、食事は出来ない。食事をしても支障のない同族が、この世界には存在しないのだ。生気をもらうという手段もあるが、生気摂取は牙が生えそろっていない子どもの食事方法であり、ある程度成長してしまえば申し訳程度にしかならない。視界の隅を飛び去るコウモリの行方を目で追いかけてしまうほど錦は空腹で、目の前の怪盗キッドを襲わないほどには自制が出来ていた。
 獲物扱いされているとは露ほども思っていない怪盗キッドは、ブラックダイヤモンド越しに月を見た姿勢のまま動かない。

「それ、楽しいの?」
「っ……とても、嬉しいです。ようやく見つけた……!」
「探している宝石があったのね」
「ええ、まあ。これを壊すことが、わたしの目的なんですよ」
「壊すの?」
「ええ、はい」
「それは反対だわ」
 
 怪盗キッドは虚を突かれた顔をする。錦はその隙にブラックダイヤモンドをかすめ取ると、自分の首元に戻した。

「壊してしまうなら、わたくしに頂戴」
「いいえ、出来ません。わたしはそれを誰の手にも渡らせたくはない」
「世間的には、これはミス・ドライアド(わたくし)の装飾品よ」
「さっき、自分のものじゃないと」
「気のせいね。わたくしの物は、わたくしの物よ」

 高エネルギー体が壊されるのをみすみす見逃すわけにはいかなかった。空腹の錦にとっては死活問題だ。怪盗キッドにとっても手放せない事情があろうとも、知ったこっちゃないのである。
 それでも、一応、少しくらいは話を聞こうという気はあった。

「今日の所は解散しましょ。そろそろ帰らないと、パパが心配しちゃうわ」
「パ……ドライアドの瞳は」
「わたくしが持って帰るわ、壊されたら困るもの。詳しい話はまた後日、時間がとれるときにね」
「持ち逃げしない保証がどこに――」

 怪盗キッドの主張を最後まで聞く気もさらさらなく、錦は帰宅体勢に入った。
 錦の影から白い片翼が生える。音もなく現れた翼が錦を包むと、そのまま小さくなり、影の中に溶けて消えた。

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