口づけを1


 たった今出ていった本人の登場に、景光は混乱した。
 微笑みがデフォルトな錦のしかめっ面を、早朝以外の時間帯で拝むことになろうとは。言葉に窮していると、錦の表情はますます渋くなる。いつか、初詣に行ったときを思い出すほどの渋面だ。
 景光は、あえて無視していた『元人格』というワードを受け入れる決意をした。
 電気ケトルの仕事が終了した音を聞きながら、そうっと膝を折り曲げる。一挙一動を凝視されていた。見上げられているのに威圧されている感覚は、錦(本物)で随分と慣れたように思う。

「君は、錦じゃないんだよな」
「やっぱり、橙茉さまのしもべなんだな」
「『やっぱり』?」
「橙茉さまを呼びすてだし、ほら、橙茉さまが分身をのこしている」

 でも呼びすては失礼だと思う、とモゴモゴ付け足しながら、小さな指がキッチンを示す。何のことか分からず首をひねっていると、丁寧に"それ"まで案内してくれた。
 景光がお茶漬けのために用意した茶碗に、白い小鳥が一羽入っている。全て飛び去ったと思っていたが、一羽残っていたらしい。小鳥は景光に気づくと小さくさえずって羽ばたき、景光の視界から消えた。頭に控えめな重みを感じるので、錦の分身だという小鳥は、景光の頭に落ち着いたのだろう。
 景光はメルヘンな体験に歓喜した。一瞬、元人格とやらのことも忘れた。
 じとりとした視線に我に返ると、景光は再びしゃがみこんだ。

「君は、その体の元の人格ってことでいいのかな」
「うん」
「何て呼べばいい?」
「雪(すすぎ)。汚名をすすぐ、の雪」
「橙茉雪ちゃん?」
「橙茉家を名のるなど、おそれおおい!ただの雪で十分だ」
「えっマジで。俺、一時期名乗ってたんだけど」
「ぶれいものめ。人間のくせにたいどがでかい。わきまえろ」
「ボロクソ言うじゃん」

 雪と名乗る少女は微笑みもしない。

「人間は?」
「呼びかけのくくりがでかいなあ……俺は諸伏景光。錦には景光って呼ばれてる。というか、俺のこと丸っきり知らないんだな」
「橙茉さまと、きおくは共有されない。もともと、目ざめるつもりもなかった」
「そうなの?」
「だって、橙茉さまの体はもえ尽きるはずだったから。一体、何があったんだ?」
「俺も全然分かってないんだけどさ」

 ダイニングテーブルについて、景光はミス・ドライアドと錦の言動について話した。逐一「俺にもわかんないんだけど」と挟みながらの拙い説明だったが、雪には通じたらしく、説明を聞き終えた後の一言は「なるほど」だった。景光は、若干の疎外感を感じた。
 
「俺にも説明してくれない?錦サマ、そのへん不親切なの」
「不敬、だ」
「ごめんなさい」
「まあ、どうしてもと言うのなら、分かるはんいで話してあげてもいい。わたしは、橙茉さまのしもべとしては、せんぱいだからな」

 雪の説明は、決して長くなかった。
 錦は錦自身の体を燃料とし、"遠く"からこの地へやってきた。雪は、錦が体を喪ってしまったときに入れ物として機能するために同行し、今の今まで眠っていた。現在、錦が本来の体に戻ったことで肉体の所有権が一時的に戻り、目覚めるに至ったという。錦の本来の体が今になって現れたのは単なる時差だと思われる、とも言った。

「橙茉さまが持つエネルギーは、とんでもないんだ。えいえんを手に入れているから。だから、肉体までしょうひしなかったんだと思う」
「ふうん?」
「わたしがついていくのは、橙茉さまがもえ尽きたときの"ほけん"だった。もえ尽きることは、あくまでもよそうであって、かならず起こることじゃなかったから」

 "遠く"については、雪にも分からないようだった。別の星か異世界か。雪はどの可能性も否定できないと言った。この世界の過去や未来かもしれない、とも口にした。過去説については景光も口を挟んだけれど、「人間のきおくをかいざんすれば、ふしぜんじゃない」と言われて口を閉じた。記憶改ざんは可能であると、錦は何度か口にしている。
 景光は、頭に小鳥が乗っていることも忘れて頭をかいた。説明されても、残念ながら飲み込みきれない。思っていた以上に錦が高性能だということが分かり――最初から、空から降ってきたり自殺を偽装していたことを思い出す。驚くのはいつものことだった。飲み込めないのは今更だ。
 そして一段落すれば、空腹を思い出してくる。

「事情については、大体分かったってことにしておこう。俺には関与のしようがないしな」
「それでいいと思う」
「つきましては、夜食にしようと思うんだけど、雪も食べる?」
「……? 話についていけない」
「それ俺のセリフ。お茶漬けって食ったことある?」

 席を立ちながら問いかけると、そもそもお茶漬けという存在が分かっていないようだった。錦と同じ反応に、景光は一人で笑いながらキッチンに入る。
 茶碗を二つ出し、もう一度ケトルで湯を沸かした。

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