口づけを4




 街頭の影に紅子はいた。教会の屋根からは到底視認できる場所ではないが、錦には問題ではなかった。
 紅子は錦の姿を見て挙動不審にはなったものの、どうやら覚悟はしていたようで、第一声が「錦さん、お元気?」になるくらいには冷静だった。

「ええ、元気よ。あまり驚かないのね」
「錦さんの実力をもってすればどんな高等魔法でも成せるだろうと思うもの。感動するのは昨晩に済ませたわ」
「なら、わたくしが紅子さんの家に体を置きたいと言っても、驚かないでいてくれるかしら」
「体を……その、その肉体を?」
「ええ。彼との妥協点でもあるけれど、わたくしの住んでいる家、諸事情でややこしいものを持ち込めないのよ。ストレスでパパの胃が破裂しちゃうわ」
「か、考えるわ。ちょっと待って」

 錦は頷いて、笑顔のまま返答を待った。
 一方の紅子は腕を組み、整った顔をしかめて首を傾ける。神とさえ自身が評価を下した存在を、家に置く。困惑を通り越して呆然とした。光栄だと受けるべきなのだろうか、荷が重いと断るべきなのだろうか――そこまで考えて、荷が重いなどあり得ないとプライドが燃え上がった。が、しかし。肉体の長期保存となると、紅子が現在習得している魔法では対応がきかないかもしれない。気持ちの問題ではなく、力不足となる可能性も否めなかった。肉体の保存という面だけではなく、己の身の安全という意味でも。
 快斗に忠告した内容に嘘はないのだ。紅子は、錦を尊敬し慕うと同時に、おそれてもいる。

「構わないけど、わたしの……今のわたしの力では」
「……わたくしがこわい?」

 錦は、紅子の不安を察知した。初対面で逃げられたほどなのだ、より強い力を持つ体を警戒するなというのが無理な話なのだろう。
 しかし、錦に引く気はない。キッドとの関係を良好に保つためにも、景光の家を圧迫しないためにも、第三者であり、ある程度能力に理解のある紅子のもとが都合がいいのだ。
 
「わたくしをどこまで信用するかは紅子さん次第だけれど、わたくし、恩を仇で返すことはしないわ」
「その、錦さんを疑っているわけじゃ」
「分かっているわよ。おそろしいのは、仕方がないことだもの。……本当にこわければ、一度、寝ているわたくしを起こすと良いわね。わたくしたちは、"棺"を開いた存在を害することが出来ないから」
「……そう、させてもらうわ」

 姿勢を正して問いかけてくる紅子に、錦は微笑みかける。

「よろしくね」
「ただ、肉体の長期保存なんて魔法、今のわたしには使えないわ」
「特別な術式は必要ないわ。わたくしに、ジュエリーケースを贈ってくれたでしょう?あれに織り込まれたもので十分よ。基本的に、わたくしたちの眠りに特別な外部術式は必要ないの」
「具体的に、わたしは何をすればいいの?」
「寝床の確保と、場合によってはその番人かしら。もちろん、わたくしも別の体で起きているから、異変にはすぐ気づくわ。……近くに、寝首を掻くような同族もいないようだから、心配いらないのかもしれないけれど。紅子さんが望むなら、対価も与えるわ」
「対価?」
「吸血鬼の髪も、爪でも、牙を抜いて見せてもいいわよ。どうせすぐ生えてくるもの」
「……きゅうけつき」
「血液を欲しがる輩が多いけれど、わたくしたちの血液は同族に対してさえ毒になりかねないからおススメしないわね」
「待って、錦さん、吸血鬼なの……?」
「知らなかったの?」

 錦は目を瞬いた。そういえば言ったことはなかったかもしれないが、色々と察しが良いので知っていると思い込んでいたのだ。「何だと思っていたの」と興味本位で尋ねると「神、のようなもの」と返ってきて小さく噴き出した。
 なるほど、察しのいい人間からすれば、神にも見えるかもしれない。永久に等しい命を持ち、人間を同族に引き込む能力をもち、その気になれば人間も従えられる力を持つ存在は、神と呼べるのかもしれない。
 錦は穏やかに笑いながら、手をひらりと振った。

「初めて言われたわ。神ね、ふふ」
「吸血鬼って、皆錦さんのような感じなの?」
「血の濃さによるわね。ああ、そういう意味では、確かにわたくしは"神"の一人なのかもしれないわ」
「錦さんのお父様も?」
「パパは人間よ。わたくしは、ちょっと飛び入り参加しているだけなの」
「……吸血鬼って、初めて会ったわ」
「わたくしも、他の吸血鬼に会ったことはないわ」

 紅子のどことなくたどたどしい問いに答えながら、錦はおもむろに周囲の気配を探ってみた。やはり、同族の気配など微塵も感じない。それでも錦は、同族が存在しないとは言い切れなかった。"ここ"が元居た場所とどのくらい離れているのかすら定かではないのだ。別世界かもしれないが、過去や未来の可能性もある。加えて、世界はとんでもなく広い。同じ国の中でもやや異なった言語を扱うほどなのだ、気候が変わるくらい離れた場所になら吸血鬼もいるかもしれない。あえて探しもしないのは、同族を見つけることの優先順位がカニカマよりも数段低いからだ。
 
「ともかく。引き受けてくれて嬉しいわ。対価には何を?髪か爪か牙か……今は調子が良いから、腕一本あげてもいいわ」
「そんな物騒なものいらないわよ……流血沙汰になっちゃうでしょう」
「血液はやめておいたほうがいいわよ」
「そうじゃなくて……わたしは魔法使いとして、あなたの魔法を体験したい、と思う」
「魔法を?」
「ここからわたしの家まで、瞬間移動できるかしら」
「ええ、お安い御用よ」

 肉体の変換も瞬間移動も空間浮遊も、能力の一部に過ぎない。紅子が期待するような魔法ではないのだが、「だったら何?」と問われても答えようがないので訂正はしなかった。
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