胡蝶カナエが柱となった際に支給された家、通称・蝶屋敷。精神的問題から戦えなくなった隊士の保護だけではなく、医学に精通した者が常駐し、今や治療院としての役割も持っている。家人だけの期間はほぼなく、常に誰かが休養のために滞在していて、怪我人の運搬で人の出入りも多い。
屋敷の主・胡蝶カナエは、柱を引退した後、部屋にこもることが多くなった。呼吸器官に後遺症が残っているため、こもらざるを得ないのだ。妹や、妹の継子に稽古をつけてやることもできないし、怪我人の治療の手伝いも出来ない。部屋から庭を眺め、時折散歩をし、療養する隊士の見舞いをし、元柱の経験から相談事にのることがせいぜいだった。
その日も、もどかしい思いを抱えながら部屋にいた。
アオイが茶を運んできたので、休憩に誘った。アオイは働きすぎるきらいがあるので、無理やり息抜きさせてやらないと体調を崩してしまう。今までも何度かあった。アオイは、最終選別を通過して隊士になったにも関わらず戦場に立てないことを負い目に感じており、そのせいか、休息を嫌うように動き続けるのだ。動くことが好き、ということももちろんあるのだろうけれど、疲労に見合うだけの休息を取らないのである。
カナエがこうして休憩に誘うことは初めてではないので、アオイは少しだけ嬉しそうにして頷いた。
庭を眺めて他愛ない話をしていると、一羽の鴉が縁側に降り立った。鴉は縁側で姿勢を正し――そう見えた――元気よくカナエを呼んだ。
「花柱様! 胡蝶カナエ様!」
「初めて見る鎹鴉ですね」
妹の鎹鴉ならば、この蝶屋敷にも慣れている。目の前でそわそわと縁側を歩く鎹鴉は、どうやら蝶屋敷がはじめてのようだった。
アオイが腕を伸ばすと、鎹鴉は自然とそこに乗った。
カナエに鴉語は分からない。だが現役時代は随分と世話になった存在だ。目の前の鎹鴉が、なにかひどく困っているらしいというのは察せられた。
「文も持っていないのね。どこの子かしら」
「カナエ様にどういったご用ですか?」
アウアウモゴモゴとしている鎹鴉は思考に人間の言葉が追いついていないようだったが、カナエやアオイが落ち着くよう促すと、ややあって二人にも理解できる言葉を発した。
「アンナ、羽々丸ハナ、ゴスズンヲ助ケル」
「うん?」
「思イ出シテ、思イ出シテ。花柱様、助ケテ。ゴスズンヲ助ケテ」
見知らぬ鎹鴉が、カナエに助けを求めているということは理解した。拳を握ったカナエに変わり、アオイが静かな声で言う。
「あなたが誰の鴉なのか知りませんけど、カナエ様は絶対安静なの」
「助ケテ! 羽々丸ハゴスズンヲ助ケル!」
「……カナエ様は、もう現役を退いておられるわ。戦いには、その、出られないのよ」
「ゴスズンハ、花柱様ヲ助ケタノニ。花柱様ハ、ゴスズンヲ助ケテクレヘンノ?」
「だから、」
「上弦ノ鬼ニモ立チ向カッタノニ! ゴスズンノ努力ヲ、無カッタコトニセントイテ!」
「上弦の鬼……?」
カナエはアオイと顔を見合わせた。アオイの表情には、上弦の鬼によって引退に追い込まれたカナエへの気遣いがあった。カナエはそれに「いいのよ」と返しながら、記憶をたどっていく。
カナエが上弦の鬼と戦闘したのは一度きりだ。引退に追い込まれた、一度の戦闘。上弦の弐との戦いだった。頸を斬れず、ただ柱の一人が引退しただけの戦い。生き残ったことを妹たちは喜んだけれど、鬼を殺せなかった以上、鬼殺隊柱としては不甲斐ない戦いだったと言わざるをえない。死にたかったわけではない。カナエのためにカナエを殺すと言った鬼の言葉を切り捨てたことを、悔いはしない。けれど。
上弦の弐の笑顔が脳裏に蘇る。と同時に、『無理だよ』と声がした。
カナエは瞠目して首を傾げた。
「……アオイ、あなた今なにか言った?」
「いえ、何も。……カナエ様?」
知らない声が、頭の中から聞こえる。周囲を見回し、庭を覗いてみても誰もいない。鎹鴉はカナエを見るのみで喋っていないし、アオイもカナエの挙動を補助するだけで話していない。
頭の中から声がする。誰かと喋っている声がする。
カナエはアオイに促されて庭から部屋に戻り、座布団に座った。まだ声は止まない。
濃い霧のかかった脳内で、カナエは声の主を探した。この声を無視してはいけないと、剣士の勘が告げていた。
『大丈夫、わたしのことだってすぐに忘れます』
ぞ、と背中から全身に鳥肌が立った。記憶の霧が晴れていき、白い"隠"の一文字が浮かぶ。
これは、とても忘れていい記憶ではない。
カナエは喉を引きつらせながら、落ち着かなそうにする鎹鴉に問いかけた。
「ねえ、あなた、確認させて。あなたがついているのは、隊士ではなく隠ね?」
「ゴスズンハ優秀ナ隠ヤデ」
「なま、名前は?」
「迫木路ヤデ」
皮膚が波打つように、また全身に鳥肌が立つ。
鎹鴉が思い出せと言った内容と、"今日"というタイミング。自分が忘れていたのは、迫木路という隠に違いない。カナエは、涼し気な目元を思い出していた。
迫木路という名前は、以前から知っていた。隠に百年近く所属する元忍。隠内ではよく知られた名前で、カナエも蝶屋敷を出入りする隠から聞いたことがあったのだ。長年鬼殺隊に仕え続けるその家系/名前に、カナエは好感を持っている。これは、ずっと迫木路に不信感を抱いていたらしい妹から、その存在が人間ではないと知らされても変わらない。歩み寄れる存在の可能性があるからだ。
そしてつい先日、迫木路の捕縛命令が出たことを知った。カナエの考えをくんでくれている妹は、顔を合わせるなり抜刀はしないだろうけれど、他の隊士がどうかは分からない。
おまけに"今日"は柱合会議で。出発する妹が「迫木路の捕縛に成功したから、他の柱の意見とお館様のご意見をうかがうわ」と言っていた。
鬼殺隊は鬼を殺すための組織で、その最高位である柱たちが、人間ではない迫木路に対して刀を向けないほうがおかしい。
「アオイ、筆を。お館様に文を出すわ。急いで」
「え、あっはい!」
「カア! 急ゲ、アオイ!」
「馴れ馴れしいわね!」
鎹鴉が嬉しそうに鳴く。
今はもう隊士ですらないカナエの言葉で、会議の流れが変わるかは分からない。そもそも、文が間に合うかすら分からない。だとしても、行動しなければ。命の恩人を、今度は自分が助けなければ。
アオイが準備してくれた筆を取る。戦闘を思い出した高揚と、記憶を失っていたことの動揺と、命の恩人が死ぬかもしれないという緊張とで、痩せた手は震えていた。
そうだ、あのとき。あの人の手も、震えていた。