蝶の恩返し2



 カナエは横目で空を見た。
 朝が近かった。上弦の弐よりも実力が劣っていることはわかっていたが、朝が近いから。頸を落とせなくても日光で殺せる。それまで引き止めさえ出来ればこちらの勝ちだ。およそ百年、上弦の鬼を討ち取れていない状況を変えられる。
 相打ちで自分は死ぬだろうけれど、それで上弦の弐という大物を殺せるのならば。
 しかし、すぐに自分の考えの甘さを知るのだ。呼吸をすればするほど、上弦の弐の術を吸うことになる。どんどん息がし辛くなり、技としての呼吸の精度も落ちていく。
 通常の、生きるための呼吸すら苦しくなってきたときに、華奢な背中が飛び込んできた。

「誰だい、きみ」
「うわ上弦だ……」
「そうだよ。うん? きみ、男? 女? 変な気配で分からないな。その顔布、隊士じゃないね」

 倒れ込む寸前のカナエを背にかばうのは、なぜか隠だ。嘘でしょ、と言いたかったけれど、無声音にしかならなかった。
 隠は上弦の弐に顔を向けたまま、手探りでカナエの手を取り、何かを握らせた。剣士の、硬い手のひらではなかった。ともすれば良家の息女のような、とても鬼殺隊には似合わない綺麗な手は、小刻みに震えている。

「これを持っていて」

 カナエの手に握らされたのは藤の香り袋だった。上弦の弐の前には気休めなのではと思うが、対する鬼は武器の扇で顔を隠す仕草をした。

「うわあ、すごいにおい。くさい。それに近づくとクラクラするんだろうなあ」
「鬼がすっごく嫌がるように作ったからね」
「……ってことは、やっぱりきみは鬼じゃないんだ。人間っぽくないけど」
「鬼なんかと一緒にするなよ」
「へえ? まあ、どうでもいいや。俺は今、その苦しんでいる子を救わないといけないだけで。死に損なって、苦しそうな呼吸音が聞こえてる。ちゃんと殺してあげなきゃ可哀想だろ」
「無理だよ」
「きみが俺の相手をするって?」
「冗談止めてよ、わたしがそんなに強そうに見えるの」
「いいやちっとも。きみも可哀想だね、震えてるのが分かる」

 上弦の弐が扇を構える。カナエは咄嗟に、自分ではなく隠の鼻と口を顔布の上から押さえた。吸ってはならないことを察したらしい隠が、一瞬だけ遅れてカナエに手ぬぐいを押し当てる。お互いがお互いの呼吸器官を守るという不格好な状態でいると、上弦の弐が悲しそうな顔をする。

「そんなことをしても無駄だぜ。呼吸をしない様にするなんて無理なんだから。きみたち二人とも、肺が凍って壊死していくんだ。あがかないほうが、楽に死ねるよ。俺相手にすごく頑張ったんだ、もう楽になっていいんだよ」
「肺が凍る……?」

 カナエが押さえた下で、隠が呟く。何を思ったのかカナエの手を外して、その場で深呼吸をした。

「そうだね、肺にきている感じがする」
「苦しいだろう? 無理しなくていいよ」
「でも大丈夫っぽいかな。すぐ治る」
「治るってそんな、鬼じゃないんだから。本気で言ってるのかよ」

 カナエも信じられないと隠を見る。先ほどまでの強がりの延長かと思いきや、本当になんともないらしい。隠は何度か深呼吸をして、一度むせ、それでも平気そうな顔をしていた。
 隠は、カナエに自分自身の口元を守るようにさせ、上弦の弐に向き直る。
 それでも、隠は隠だ。隊士ではない。上弦の弐と対峙するのは無茶だ。
 面白いものを見つけたと言わんばかりの上弦の弐は、扇を開閉しながら一歩進む。

「それが効かないからって、『だから?』ってだけなんだけど」

 一歩進んだところから、一瞬で間合いを詰めてくる。カナエにはもう、それに対応するだけの体力が残っていなかった。瞬きの間に、鋭い扇が隠の左肩を切り飛ばす。隠はなんとか反応して心臓や頭への怪我は避けたようだが、片腕が飛び、帽子と顔布も勢いで飛ばされる。一歩間違えば頸ごと左肩が切り離されていただろう。

「あれ?」

 隠の左肩を切り飛ばした上弦の弐は、きょとんとした顔で、何故か止めをささずに距離を取った。
 カナエは上弦の弐の反応に疑問を持ちながらも、攻撃の衝撃で膝をついた隠を支える。隠の反射神経に感嘆している暇はない。即死ではないものの、間違いなく致命傷だ。カナエは羽織りで止血をしようとしたが、隠に手で止められる。「あなたは動かずに、極力呼吸を小さくしていたほうがいい」致命傷を負い、痛みで顔をしかめているにも関わらず、隠は冷静だった。
 上弦の弐が、閉じた扇を隠に向ける。
 
「きみの顔、見たことがあるな。あの方から聞いてるよ。異種族だろ? しっかし気分が悪いな、ちょっと近づいただけなのに」
「あの方?」
「俺たちの主が、きみを探してるんだ。会ったことあるんだろう? なんだ、鬼殺隊だったのか。これは持ち帰らなきゃいけないなぁ」
「……まさか、あの人、鬼舞辻無惨だったのか」

 カナエは細い呼吸をしながら咳き込んだ。この隠、鬼舞辻と遭遇済みだというのか。咳をすると更に息を吸い、肺を痛め、またむせて。悪循環と酸欠で意識が薄くなったせいか、隠の変化にすぐ気が付かなかった。
 左腕が生えているのである。
 酸欠のせいでもなんでもなく、純粋に理解が追い付かなくなったところで、上弦の弐が喜びの声を上げた。

「ついてるぜ、可愛い女の子をつらい使命から救うだけじゃなく、異種族を手土産に出来るなんて」
「花柱は殺させない。彼女には、きみの頸を斬ってもらわなきゃならないから」
「この期に及んで、俺を討つ気かよ」
「万が一ってのがあるでしょう」
「ないけどね。ん、この際、後ろの柱の子は救えなくても、きみは持って帰らないといけないな」
「嫌だよ。そもそも無理だよ、もう。――ほら、空はとっくに白んでるのに」

 カナエははっとして空を見た。戦闘を開始したときから、朝は近かったのだ。カナエとの戦闘、闖入者との会話で、時間は十分経過している。
 建物より高くなった太陽から、朝日がさす。上弦の弐が弾かれたように物陰に移動する。

「ああ、クソ。きみが出てきたのは、時間稼ぎという訳だ。日向にいるきみたちに、俺はもう近付けない」
「お喋り好きな上弦の弐で助かったよ」
「でも、きみの気配も声も覚えた。次会った時は、真っ先に確保しよう」

 上弦の弐が消えるようにして撤退する。あっけない幕引きに肩透かしを食らうも、朝日が出ているのだから当然だ。カナエは震える腕で納刀し、確かに片腕を失っていた隠の肩を叩いた。
 声をかけようとすると「駄目ですって」と優しい声で制される。丁寧な手つきで座らされ、隠はカナエの手ごと藤の香り袋を握った。

「応援は呼んであるのでしょう。わたしはここを離れますが、もう朝日も出てますし、この香り袋があれば、たとえ上弦の弐が戻って来ても手出しはされないはずです。わたしは今、血鬼止め薬を持っていません。もう少し頑張って」
「あな、た……いったい」
「もう、駄目ですってば。喉も傷めているでしょう。大丈夫、わたしのことだってすぐに忘れます」

 隠の手から、体温は感じなかった。緊張で血の気が引いているのだろう。もしくは、カナエ自身の感覚が鈍っているせいだ。手を握られているという感触だけがする。それでもひどく安心した。人を守る立場の柱である己が、戦闘後に非戦闘員に手を握られて安堵するという図が少し可笑しかった。
 情けないな、と悔しくしなりながら、カナエは意識を手放して。目覚めた時には、見覚えの無い藤の香り袋を握っていることに首を傾げた。

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