諸星光改め宮野明美は、都内のマンションで一人暮らしをしている。1Kだが十畳ある部屋は一人暮らしには十分広く、窮屈には感じていない。明美は、まだ物の少ない部屋を鼻歌交じりで念入りに掃除していた。
雑誌を片づけて掃除機をかけることはもちろん、トイレを磨き、なんとなく窓も掃除した。家事代行としてアルバイトをしていた経験が生き、掃除や料理のスキルは以前より高い。
お盆にケーキ皿とカップを二人分乗せてキッチンにスタンバイさせ、はやる気持ちを抑えきれず電気ケトルでは一度湯を沸かした。
テーブル拭きが三度目に入ったところで、玄関のチャイムが鳴った。
マンションの前に止まった車には、運転席に風見、後部座席に錦が座っていた。
「何度も説明したから、分かっていると思うけど」
風見が言う。柔らかい言葉遣いを心掛けていることが分かってしまう些細なぎこちなさがあった。
「面会時間は二時間。外出はしないこと。二時間経ったら迎えに来る」
「はぁい」
錦は良い子の返事をして車から降り、聞いていた号室に向かった。
ここは、宮野明美が住んでいるマンションである。明美側も錦側もある程度身辺が落ち着いたということで、面会が許された。明美の執行猶予が決まってすぐの面会が出来なかったことと風見が錦を送迎していることには、理由がある。
明美は組織に一度殺された身で、殺し損ねたことがバレたらまた狙われる可能性があるからと、GPSを持たされた上に外出は制限されている。錦も、組織から逃亡している"ということになっている"ので、接触はあまりにも危険だと判断されていたのだ。ある程度の外出は出来ていたらしいが、錦と会うことは出来なかったのである。それが今回、外出しないことと風見の送迎で許可された。景光いわく、景光自身も働きかけたが、母親役を失った錦の心情を安室がくんでくれたのだという。
そんな大人の事情はさておき。錦は部屋のインターホンを押した。
「錦ちゃん! さあ入って入って! あんまり広くないけど!」
明美はテンション高く錦を部屋に招き入れた。挨拶するよりも先に、紅茶と苺のショートケーキが運ばれてくる。
「あ、挨拶が先だったわね。すっごく楽しみにしていたから、つい」
「ふふ、構わないわよ。わたくしも、お土産を持って来たの。焼き菓子の詰め合わせよ。生菓子にしなくて良かったわ」
「わあ、ありがとう。一緒に頂きましょ。わたし、今は宮野明美よ、よろしくね」
"初対面"の挨拶はおざなりに済ませた。
テーブルに紅茶とお菓子を並べて、女子会の準備は万端だ。明美は数秒無言でカロリーを計算していたが、錦が「食べましょうよ」と促すとこの世全ての邪念を振り払ったような清々しい笑顔でケーキを食べ始めていた。
「わたしはGPSを持っているけど、この家には監視カメラや盗聴器なんかはないから、自由に話してくれていいわよ。それこそ、錦ちゃんこそがわたしたちを保護してくれたってこともね」
「……風見さんの記憶を、消さなければならないところよ」
「えっ」
「車に乗るとき、エスコートしてくれたと思ったら、袖に小さな絡繰りがついていたの。車に置いて来たわ」
「……迂闊な発言は慎みます」
「そのほうがいいわね」
「でも、そう、わたしも伝えたいことがあったから、盗聴器を置いて来てくれたのは助かるわ。あんまり錦ちゃんに情報を背負わせたくはないのは本心なんだけど」
「何かしら」
「妹がね、組織から逃げて生きていたの。風見さんたちは、死んだと思っているみたい。それから大ちゃん……諸星大もね、生きているようなの。本当の名前はまだ聞けてないんだけどね」
明美が心から幸せそうに笑う。明美が妹と恋人のことを気にしていたことは、家を出る時に聞かされている。どうやってその情報を手に入れられたのかは分からないが、微塵も疑っていない様子を見るに、信頼できる筋からの情報か、既に対面を果たしているのだろう。
「明美や景光を殺した組織から、よく逃げられたわね」
「妹を尊敬する。誇りに思う」
「わたくしも、ご挨拶くらいしておきたいわ」
「案外、近くにいるかもしれないわよ」
「彼氏も、生きていたなんてどんなマジックかしら」
「ニュースで出ていた死者は、彼じゃなかったってことかもしれないわ」
錦は紅茶をすすりながら、諸星大の本名を飲み込む。錦は、彼の名が赤井秀一であると知っているのだ。景光が錦に安室の本名を教えないように、錦も、本当の名前は本人から明かされるべきだと思う。
そういえば、コナンは赤井の生存を知っているのだろうか。話しておきべきだろうかと少し考えたが、すぐに止めた。情報源を聞かれて明美のことを明かすのはリスキーだ。それに、コナンは警察に知り合いが多く情報網が広いので赤井の生存を知っている可能性もある。錦が口を挟む必要はないだろう。コナンにはいつも何かを怪しまれているので、これ以上怪しまれるのは避けておきたい。
「景光さんとの二人暮らしはどう?」
「楽しんでいるわ。聞いているかもしれないけれど、先日、一軒家からマンションに引っ越したの」
「風見さんが教えてくれたわ。ちょっと寂しいなあ」
「わたくしがいるのに?」
「んもー! 寂しくない! 錦ちゃんがいて、妹も彼も生きているのに、寂しいなんて言っちゃ駄目ね」
明美が勢いよく焼き菓子の包装を破った。インターホンを押したときから感じていたが、彼女は本日テンションが高い。
錦はくすくす笑いながら、小さなカバンからイヤリングを取り出した。一度返却されていた、明美の変装道具である。この受け渡しがあったからこそ、錦は服につけられた盗聴器を外す必要があったのだ。
テーブルに置かれたイヤリングを見て、明美の表情が笑顔から驚きに変わる。
「錦ちゃん、それは」
「いつでも光になれるイヤリングよ。景光もずっと眼鏡を持っているし、明美も持っておきなさい。万が一のために」
「……もらっていいの?」
「何を言っているの。最初からこれは明美のものよ」
イヤリングが明美の手に渡る。明美は懐かしそうに目を細めて、椅子から立ち上がるとアクセサリーを置いているらしい棚のほうへ移動した。「持ち運べるような、特別な入れ物を買わなきゃいけないわ」と弾んだ声がする。
ちゃり、とイヤリングを置いた音がして、次いで聞こえた声はさきほどまでの明るい様子とは打って変わって神妙だった。
「そうだ、錦ちゃん。他の人の耳がないついでに聞いておきたいんだけど……正直に答えてね」
「なにかしら」
「薬で大人が子供になることがあったとして、錦ちゃんは、どうなの?」
錦はぱちりと瞬きをした。この手の質問は何度目だろうか。コナンや哀や真澄の内輪ネタかと思いきや、明美にまで問われるとは。どこかの界隈で流行っている都市伝説なのだろうか。
錦は今までと同じように首を振った。
「薬なんて、使っていないわ」
嘘は言っていなかった。錦は薬を使ったわけでも、大人から子供に体が巻き戻っているのでもない。単に"入れ物が代わった"だけだ。
錦の返答を明美は予想していたのだろう、「そうよね、変なこと聞いてごめんね」と苦笑しながら席に戻った。
錦は、ケーキの最後の一口を頬張りながら考える。明美が橙茉家を出てからその都市伝説を知ったのなら、警察界隈でのことだろうか。ならば、景光や安室が口にしないのはおかしい。錦は自分が子どもらしくないと自覚しているので、警察界隈で流行っている都市伝説なのだとしたら、警察官からこそ「大人が子供になったの?」と問われるべきである。松田からも問われたことはない。大人のようだと言われても、巻き戻ったか、などと。
この妙な問いかけには、なんの意味があるのだろうか。