大層嬉しいことではないか

 錦は音読のチェック表を眺めた。宿題に出た音読のページ数を書いた横に、保護者のサイン欄と担任からのチェック欄がある。保護者のサイン欄は途中で手書きの"橙茉"のから"諸伏"の印鑑に変わっている。
 
「なんか気に入らないか」

 捺印を終えたばかりの景光が怪訝そうにする。

「いいえ。なぜ"橙茉"は手書きで、"諸伏"は印鑑なのかと思ったの」
「あー……別人ってことを印象付けようと思って。筆跡変えるのって難しいしな。あとは、ほら、今俺が毎日帰宅できるとは限らないじゃん。」
「ああ、わたくしが自分でサインが出来るようにと」
「そういうこと。俺がいないせいで錦が宿題未提出になるのはな」
「宿題、ズルしちゃうかもしれないわ」
「しないだろ、錦は夜更かし以外は真面目だから。多少ズルしても……まあ、錦なら問題ないんじゃないかと」
「どうして?」

 景光はシャチハタをもてあそびながら言う。

「俺の解釈だけど、音読って、自分の考えを口にするときの手段を身に着けるためにするんだと思ってるんだよ。言い回しとか、発言の仕方とかさ。その点、錦はもう語彙力豊富で大人相手にも物怖じしないだろ?」
「なるほどね。最近覚えた言葉は『白玉楼中の人となる』」
「どこで覚えたんだ。そんでどういう意味だ」
「文人や墨客が亡くなることですって」
「ぼっかく?」
「スミよ、スミのキャク」
「あー。……ほらもう俺は負けている」
「ふふ」
「兄貴はそういうの好きそうなんだけど」

 景光がシャチハタを玄関に戻しに行くので、錦も教科書とチェック表をランドセルに戻す。時間割を確認しながら翌日の準備をしていると、明日は体育があることに気づいた。手提げに体操服を入れてランドセルのそばに置く。倒れるという失態は二度と犯さないようにしたい。

「……」

 錦は体操服入れを二回軽く叩いてから、リビングに戻った景光の足にじゃれついた。

「なんだなんだ」
「実際は、誰にでもわかりやすく話すことが大事で、とっても難しいことだと思うの」
「さっきの続き?」
「ええ。少年探偵団は、江戸川君や哀さんがいるせいか難しい言葉を使っていたりするけれど、クラスメイトと話すときに思うのよ。誰にでも、分かりやすく伝えるって、とても難しいわ」
「それもそうだな。一概に、難しい言い回しを使うのが良いとも言えない。大人になると漢字ばっかりでなぁ」
「景光なら、『一概』をかみ砕くとしたらどうする?」
「まとめて、とか、ひっくるめて、とかかな。錦は? 例えば、クラスメイト相手に『一概』って言いたいとして」
「省くかもしれないわ」
「そういう手もあるな。ケースバイケースだよなあ」

 しつこく凌の足にじゃれついていると、腰をくすぐられた後肩車をされてその場でくるくる回る。

「じゃあ錦、今の気分をあえて難しく表現すると?」
「いとうれし事ならずや」

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