三匹目

 東都水族館にはおやこで行くと言ったものの、景光はここ数日いつにもまして多忙だった。何が起こっているのか錦には一切明かされていない。ほとんど顔を合わせていないほどだった。ふらりとポアロに足を運ぶも安室とも会えなかった。
 だからといってしょげかえるほどの可愛げは残念ながら無い。むしろ深夜の散歩に精が出る。
 景光の心配はしているが、いざとなったら駆けつける気はあるので、そこまで気を揉んではいない。
 今夜はどこまで散歩に行こうかと晩御飯のラーメン(バターコーン乗せ)を食べながら考えていると、テレビで東都水族館のCMが流れた。何度も見すぎて飽き始めたCMだ。陽気な音楽と楽し気な声を聞きながら、カレンダーを確認する。景光の仕事の詰まり具合からして、東都水族館に行くのはまだまだ先になりそうだ。
 夜のライトアップの評判が良い、とは歩美から聞いた情報だ。こどもたちは明日、遊びに行くと聞いている。

「……下見……」

 そもそも、景光に「俺より先に東都水族館に行ってはいけません」などとは言われていない。子どもたちに誘われたことも、景光に言えばきっと「じゃあ俺を案内してくれ」と笑うだろう。一緒に新鮮な気持ちで楽しみたいというのは錦がなんとなく思っているだけだ。
 しかし気にはなる。
 錦はスープを飲みながら葛藤し、外からなんとなく眺める、というところに着地した。



 東都水族館は埠頭のそばにある。錦は近くに建つホテルの屋上に降り、ライトアップされた東都水族館を見下ろした。夜とあって大人が多いが、宿泊して楽しむのだと思われる家族連れの姿もある。
 錦はそっと両手で目をふさいだ。見えすぎる。ぼんやりとライトアップを眺めるつもりだったのだが、観覧車前にある高所恐怖の注意まで読めてしまう。単純に目が良いだけではなく、昼より夜のほうが見えやすいのだ。
 目をふさいだまま、水族館に背を向ける。このまま極力水族館を見ないようにして撤収することにする。
 静かに建物をひとつ移動したとき、爆音が聞こえた。大きな音という意味の爆音ではなく、まさしく爆音だった。なにごとか、爆発炎上している。

「あら大事故ね……」

 さすがに見て見ぬふりをして帰宅するわけにも行かず、冷静にひとの動きを観察する。ガソリンのにおいが強いので、この距離だと血のにおいの有無は当てにならないが、悲鳴は聞こえない。車がおかしな転げかたをしている割には、炎上している中に向かおうとしているような人間もいない。
 注意深く観察していると安室と赤井の姿を発見して二度見した。自然と景光を探したが、現場にはいないらしい。

「最近の多忙の原因関係かしら」

 赤井までいるというのだから、件の組織関係には違いないだろう。
 それにしても大事故だ。どういう経緯でここまでの事故になってしまったのかは分からないが、秘密裏に処理できる規模なのだろうか。死人が出なければ大抵はどうとでもなるのだろうか。――なるのだろうな、と。錦が用意した凌と光の戸籍を片付けてくれたことを思い出す。
 帰宅はもうしばらく様子を見てからにしよう、とその場にしゃがみこむ。遊園地のBGMではなく事故現場の音に意識を向けていると、思いのほか近いところから慟哭が聞こえた。

「今夜は事件が多いわね」

 ビルから地上を見下ろすと、暗い路地裏で輝くものを見つける。かすかな月の光だけでも美しくつややかなそれが髪であると、気づくのは少し遅れた。珍しい髪色だ。
 彼女は倒れ込んで荒い呼吸を繰り返している。過呼吸でそのまま失神してしまうのではないかと不安になるほどだ。周囲に他に人はいない。もちろん、彼女の連れらしき人もいない。
 錦は事故現場を一瞥して地面に降りた。

「あなた、大丈夫? ……濡れているわね、まさか泳いだの?」

 ガソリンと海のにおいが濃かった。すんすんにおいを嗅いでみるが、血の匂いはしない。見たところ、大きな怪我もない。
 放心状態の彼女は、座りこんだまま錦に顔を向けている。左右色違いの目は、焦点が合っていない。

「あの事故と関係がある?」

 彼女は無反応だ。

「この言葉、分かるかしら。他の国の言語が良い? Anything wrong?」
「……No. I know nothing」
「それは困ったわね」
「あ、分かるわ、日本語」
「でも、自分の身に何があったか分からない?」
「ええ、ええ……何が、わたしは一体どうして」

 自分に拳銃を突き付けている男を持ち帰ったり、血まみれで虫の息の女を持ち帰ったことはあるが、記憶喪失は初めてだ。生死をさまよう怪我をしていないだけ気が楽ではあるが、帰る場所が分からないというのは中々難しい。

「あなた、携帯は持っているかしら」
「携帯……」

 彼女が自分の服を見下ろす。錦は首を横に振った。どこにもポケットがない。見たところブラウスとタイトスカートなので、おそらく身に着けていたであろう上着のほうに何かしら入っていたのかもしれない。

「持っていたとしても、水没して駄目になっていたかもしれないわね」
「ごめんなさい」
「事情は分からないけれど、意識がはっきりしているなら、警察か病院に行くべきだと思うのだけれど」
「待って、それはやめて」
「なぜ?」
「分からないけど……行きたくない。とても嫌な感じがするの」

 錦は腕を組んだ。記憶が無いという割には、警察と病院を拒否するとは。なにかよほどトラウマでもあるのだろうか。何か後ろめたいことでもあるのだろうか。
 彼女をじっくり観察し始めたところで、気づく。錦は警察という存在が身近なので緊張はしないが、警察や病院が好きで進んで行きたいと思う人は少数派なのではないか。予防接種の時期には、警視庁へ軽やかに入っていく子どもたちも憂鬱そうである。
 判断に困っていると、彼女がくしゃみをひとつ。

「……歩けるなら、うちに来る?」

 どうとでも対処は出来るだろう。とりあえず、彼女が風邪をひかないことが第一だ。

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