肺呼吸

 錦は入浴を終えた彼女に景光のシャツを貸し、ノンカフェインのはちみつ紅茶を淹れる。彼女は生乾きの髪をそのままにして、マグカップに口をつけていた。
 錦は外着から部屋着に着替えて、彼女の対面に座る。

「病院に行ったほうがいいと思うの」

 彼女が動きを止めた。

「記憶障害について少しだけ調べたわ。認知症、外傷、ストレス……色々原因があるそうよ。わたくしは医者ではないから、見えない傷は分からない。明らかに頭から出血していたら、塞いであげることも出来なくはないけれど……闇雲にするのも、あなたにとって良くないでしょうから。わたくしも疲れるもの」
「……頭を打ったのだとは思う。髪を洗ったとき、痛かったから」
「頭は大変よ」
「でも、嫌よ、行きたくない」
「わがままね……」

 嘆息して、いっそ無理矢理病院に連れて行ってしまおうかとも思う。洗脳じみた真似は景光に止められているので気は進まないが、当人の命がかかっているとなれば話は別だ。<そのときの傷>ならばなんとか出来るかもしれないが<見えない後遺症>にまで今の状態では対処できない。錦は万能ではない。
 光のときは分かりやすい外傷だったので「塞げばいいかしら」と大雑把に考えていたが、頭。しかも見えない障害だ。
 彼女はマグカップを持って不安気だ。怪我を放置するより、警察や病院のほうが不安要素らしい。

「……わかったわ、連れて行かないし通報もしない」
「本当?」
「ただし、わたくしの目の届くところにいること。運動をしないこと。異変を感じたらすぐに伝えること。具合が悪くなったら、病院に行くわよ」
「……分かった」

 見た目こどもの錦の言葉に頷いてくれるだけ良いのかもしれない。

「ひとを拾うのは初めてではないから、まあいいわ。何とかなるでしょう」
「人間ってそんなに落ちてるもの?」
「そうみたい」

 彼女は目を瞬いて小さく笑う。錦もつられて少し笑った。
 そして、早速恒例行事へ移る。

「あなたの名前だけれど」
「名前?」
「呼び名がないと不便でしょう。名前を憶えているのならばそれがいいのだけれど」
「分からない……」

 錦は顎に人差し指を当てた。
 どんな名前がいいだろうか。彼女に似合う言葉を探す。

「潮(うしお)はどうかしら。海の潮よ」
「潮……その、おかしくはない?」
「なにが?」
「わたし、そういった漢字の名前って似合わないと思うの。日本人っぽくないし……髪の色とか」
「そうなの? わたくしの住んでいたところでは、銀髪でも金髪でもそういう名前だったものだから。おかしくはないと思うけれど」

 ふとクリスのことを思い出す。彼女は金髪だ。続いて安室のことを思い出す。彼も金髪だ。やはりなんらおかしなことではない気がする。しかし彼女の気が進まないのであれば考え直そう、と腕を組んだところで、対面から噴き出す声がした。

「ふふ、その名前をいただくわ。せっかく恩人がくれたものだもの」
「リーでなくてもいいかしら?」
「どこからとってきたの?」
「リー・バンよ。名前がある人魚は少ないの」
「人魚? わたし、そんなに大層な存在じゃないと思う」
「わからないわ、どこかの王女様なのかも。今頃、家臣はてんてこ舞いね」

 今度こそ、彼女は声を上げて笑った。マグカップをこぼさないようにテーブルに置いてから、口元を手で隠しつつ腹を抱えている。
 錦はあっけにとられた。何が彼女の、潮のツボだったのか分からない。「あなた、見かけによらず冗談が好きなのね」一体どんな印象を持たれているのか気になるところだ。
 潮はひとしきり笑って、涙を拭きながら問いかけてきた。
 
「それで、命の恩人さんのお名前は?」


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