コン、コン、コン

 玄関を開けると、テレビの音がした。電気は点けて出たのでともかく、テレビは消していたはずだ。手洗いをしてリビングに入ると、潮がマグカップ片手にニュース観賞しているところだった。香りがしないので、白湯でも飲んでいるのだろう。ポットの使い方は分かったようだ。
 潮の顔色は良い。

「おはよう、錦ちゃん。朝ごはんもありがとう、お皿は洗って戻したわ」
「おはよう。体調は?」
「変化はないわ。良い意味でも、悪い意味でも」
「悩ましいわね。これを見て、なにか思い出さない?」

 テーブルに、汚れた上着と、割れた携帯と、カラーフィルムの束を並べる。

「わたしの?」
「そうだと良いのだけれど」
「もしかして、これを探しに出かけていたの?」
「そうよ」
「決して近い距離ではないでしょう。昨晩も電車を使って……そういえばお金も」
「記憶喪失で、身元も分からないあなたから、そう積極的にお金を取り立てるつもりはないわ。後でお風呂掃除でもしてくれたら十分よ」
「この家の方は? まさか錦ちゃんの一人暮らしではないでしょう」
「パパがいるわ。仕事で最近は帰ってきていないの。挨拶が必要なら後でいいわよ」
「後じゃ駄目でしょ、上がり込んでいるのに」
「いいのよ、初めてじゃないから」
「そんなことも言っていたわね……」
「ともかく、何か思い出さないかしら?」

 真っ先に手に取ったのは、やはり携帯だった。画面が割れていても使用できる場合はあるが、水没となると望みは薄い。潮がボタンを押してみたり画面を指で叩いてみたりと試しているのを横目に、錦はカラーフィルムをめくる。文字情報が一切なかった。何に使うものなのか不明だ。

「使えそうかしら」
「うんともすんと、も、点いたわ!」
「良かったわ」
「でもロックが、あ、解除……指紋かしら」
「それは何より」
「とりあえずアドレス帳と、着信履歴に送信履歴……」

 潮がすいすいと操作をする。首が徐々に傾いているので、使い方を完全に覚えているとは言えなさそうだが、基本的なスマートフォンの使用方法は分かっているらしい。
 見守っていると、段々と潮の表情が怪訝なものに変わっていく。

「眉間のシワが深いわね」
「アドレス帳が空なの。真っ白よ」
「毎回、手で入力していたの?」
「わたし、お友達いなかったのかしら……」
「履歴は?」
「メールが一通だけ、送信履歴に残っていたわ。あとは何も」
「あなた、意図的に削除したの? それとも、そういうシステムなの?」
「わたしは一体何者だったの……。送信履歴のメールも、意味が分からなくて」

 潮が携帯をテーブルに置く。錦が身を乗り出して確認すると、確かに不可解な文章があった。

【ノックはスタウト、アクアビット、リースリング、あなたが気にしていたバーボンとキール】

 三回黙読し、二回音読した。
 確証はない。詳しい事情を知らない錦には確証が持てないが、酒の名前の羅列に良い予感はしない。
 最近、景光は多忙だ。コナン曰く、昨夜の事故はあまり情報が無い。加えて、潮は事故に巻き込まれたとみていい。
 静かに【ノック】という言葉について検索をかける。文脈的にドアを叩くそれではないはずだ――合図、自動車用語、野球、スパイ。
 スパイ? 
 酒の名前プラス<スパイ>。なんということだ、これは景光案件だ。
 錦は口元に手を当てて、首を横に振った。景光といい明美といい潮といい、ここまでくると己の吸引力が怖くなってくる。

「錦ちゃん?」
「あなたの素性に心当たりがあるわ」
「え?! 今のメールで?!」
「ええ。わたくしよりパパのほうが事情に詳しいから、連絡をしようと思うのだけれど、いいかしら」
「もちろん」
「警察なの」

 潮の表情が凍る。

「パパは優しいから、ひどいことはしないはずよ。事情はわたくしから話して、配慮してもらうよう、約束を取り付けるわ」
「待って。それってひどい扱いを受ける可能性のある素性ってこと?」
「わたくしは詳しくないから、なんとも言えないのよ」
「……気が進まないけれど、そうするしかないのね?」
「それが一番だと思うわ」

 潮が固い表情で頷く。「分かったわ」不承不承を隠せていなかった。
 ひとまず頷いてくれたことに安心して、錦はメールの文面を眺める。メールは送信履歴にあったものだ。スパイを暴く内容だということは、潮は景光とは敵対関係にあるのだろう。
 しばし無言で携帯を眺める。衝撃を受け、水没もした携帯だ。いつ電源が落ちてしまってもおかしくはない。

「潮、ひとまず、メールを送ってくれないかしら」
「誰に?」
「このメールと同じ宛先に。【違ったわ】という内容を、不自然ではないように」
「よく分からないけれど……そうするのが良いのね?」
「携帯がまだ使える内に」

 困惑気味に潮が携帯を操作する。最低でも、錦の友人/バーボンに関してはノックを否定してもらわねばならない。
 錦は、訂正メールの送信を見届けてから、景光に電話をかけた。
 残念なことに、二回電話をかけても景光は応答しなかった。


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