記憶探し

 景光は、とんでもなくスリリングな職についている。
 最大の危機を感じたのはまぎれもなく、潜入先の組織で自分の正体がバレたときだ。冷静な判断を失うようなヘマはしなかったが、寿命が縮むどころかそこで命が終わるところだった。
 それ以上の窮地はないだろうと思っていたが、あっさりと更新された。 
 自分の命の恩人の隣に、巨大犯罪組織の幹部が座っていた。安全圏であるはずの自宅で。
 事前に連絡はあったので覚悟はしていた。錦が嘘をつくはずがないし、組織幹部の外見特徴を知っているわけがないので、嫌な予感どころか逃げられない現実だと覚悟していた。自宅へ向かう途中には同僚に「顔色が死人」と言われた。
 景光は錦に拾われた。錦が命を救ったのは己だけではない。そして、錦は命を救った人間を完全に自分のテリトリーに入れている。その最たるが自分だ。組織幹部だろうが関係がない。錦にとっては、ただの"拾った人間"だ。
 家に幹部がいて、その隣に錦がいて、そもそも幹部を拾って連れてきたのは錦で、おまけに彼女への厳しい対応は不可能になったのだから、顔色が死にもする。
 
「"潮"ってのは?」

 景光は、病院で一晩を過ごした彼女と共に車に乗っていた。
 記憶喪失の人間を記憶を失った場所に連れて行こうと言うのはあまり珍しくない発想で、景光らもそのために移動をしている最中だった。目指しているのは、大事故の遭った現場だ。事故車両の撤去も済み、すでに通行は再開されている。
 彼女は手錠をした状態で後部座席の真ん中に座り、景光は左隣に座っていた。雑談を振ったのは、緊張し通しの彼女を気遣ってのことではなく、おそらく一番信用しているであろう錦を話題にすることで口が軽くならないかという下心だった。
 錦の認識はどうあれ、景光にとって彼女は犯罪者だ。

「錦ちゃんがつけてくれたの」

 硬い表情でうつむき気味だった彼女が、少しだけ笑ったのが分かった。

「出会ったのが海の近くで、わたしは泳いでいたようだから」
「センスいいだろ」
「あとお料理も上手ね」
「危ないから刃物と火は使わないで欲しいんだけどな。そういうところは俺の言うこと聞きやしない」
「ふふ」

 錦の話をして言葉を口にしやすい状況を作りつつ、事故現場を通過する。「ここで事故があったんだ」彼女は興味深そうに周囲を見回すものの、何かを思い出している様子はなかった。

「わたしは、ここから落ちたのかしら」
「そうだろうな。そんで、泳いであっちまで行ったと。次は錦と出会ったあたりに行ってみるか」

 錦が彼女と出会った場所と、錦の友達の子どもたちが彼女の携帯を広った場所は少し離れているので、彼女は一帯を徘徊していたと思われる。東都水族館の近くで陸に上がり、徘徊し、錦に声をかけられて我に返った。錦は彼女の叫びを聞いたと話していたので、記憶喪失直後で錯乱していたのかもしれない。
 
「そもそも、わたしはどうして事故に?」
「……」
「わたしのスマホにかかってきた電話と関係がある? あとメールも」
「……」
「やっぱり言えないのね」
「悪いな」

 景光は錦からの連絡を思い出して失笑した。
 電話もメールも、錦の対応で正解だと思う。よくぞそこまで対応出来たなといったところだ。肝が据わっていることは知っていたが、景光の仕事や組織の関係についてよく知らないのに。"ノック"という言葉の意味を調べてくれたことに拍手を送りたい。「メールは訂正しておいたわ」「電話もかかってきたのよ」と淡々と報告されたときには頭を抱えたが。
 今度は車から降りて、まず発見場所に立つ。
 景光らが注意深く様子を見る中で、彼女はその場にしゃがんだり曇り空を見上げたりと自由に動く。しかし表情に変化は無い。

「多分、この辺りに座り込んでいたの。錦ちゃんに声をかけられたことは覚えているけれど……」
「それより前は?」
「ごめんなさい、思い出せないわ」

 そうすんなり思い出せるとは思っていなかったとはいえ、落胆はする。景光は他の捜査官らと顔を見合わせてため息をついた。
 水族館の前へ、そのまま歩いて移動する。悪目立ちしている気がするものの、車よりは実際に歩いたほうが思い出しやすいのではないかという希望的観測からだ。思い出したらそれはそれで逃走を阻止せねばならない。車内より難しくなることは予想出来るので、景光らは一層緊張していた。
 水族館の敷地に入らずとも、楽し気なBGMが聞こえてくる。いつになったら錦とここへ来られるだろうか。こんな神妙な顔をしたむさくるしいスーツ集団ではなく、私服で錦と手をつないで。
 水族館へと続く広々とした歩道の入り口に立つ。巨大な二輪式の観覧車は遠目でも確認できた。錦が言っていた通りライトアップもされている。曇っているせいか、昼間にも関わらず五色のビームライトはきれいに見えた。

「錦によると、スマホと上着があったのはここらしいが、見覚えは?」

 水族館のほうを熱心に見ていた彼女が、何の脈絡もなく崩れ落ちた。

ALICE+