凌も潮もいないひとりの家で、錦は特に変わらない朝を迎えていた。窓から空を見ると、雲が太陽を遮っていた。お天気キャスターいわく、本日は曇りのち晴れ。午後には晴れてくるらしいが、朝日が遮られているだけで十分である。
良い朝だ。お出かけ日和だ。潮の様子も気になるが、今日は記憶喪失になったと思われる現場に行くと聞いている。病院に行っても会えないだろう。
錦はテレビを見ながらシリアルを食べて、歯磨きをして着替えて、携帯電話を持った。しかし、携帯電話の画面が黒く沈黙したままだ。そういえば潮の検査に付き合うにあたって電源を落としていたのだったと思い出し、電源ボタンを長押しした。
起動が完了すると、着信の通知がずらりと並ぶ。
全て<江戸川コナン>からだった。
錦はソファに座って、コナンに電話をかけた。一コール目で応答があった。
『橙茉さん!?』
「おはよう、江戸川くん」
『あ、おはよう』
「すさまじい着信履歴だわ。昨日、病院にいたから電源を落としていたの」
『実は橙茉さんに渡した上着とスマホについて心当たりがあるというか知っているらしい人に会えたというかすごく重要なものだって分かったから悪いんだけど返してほしいし橙茉さんが保護したっていう知り合いの人にも詳しい話を聞きたいんだけどいい?』
「すごい、一息ね」
『昨日からずっと聞きたかったから。ん、さっき病院って言った? そのひと入院してるのか?』
「ええ、昨日ね」
『そうか……お見舞いには行ける?』
「今日は、朝から事故現場に行く予定だと聞いているわ。すぐは会えないんじゃないかしら」
『所持品は?』
コナンがなにを知っているのか分からない以上、どういう返答が正解なのか不明だ。景光に関わることである、あんまり適当な返事も出来ない。
「潮のこと、警察に報告していて。だから所持品も警察よ」
『うしお?』
「彼女のこと。名前も思い出せないから、そう呼んでいるの」
『……ちなみに彼女の外見特徴は?』
「背が高くて、きれいな銀髪で、あとはヘテロクロミアってことかしら。すこし目を引く外見よ」
コナンが息をのんだ。『ジェームズさんに連絡しねぇと』焦った呟きが聞こえる。
「ジェームズさん? が、彼女を知っているかもしれないというひと?」
『ああ、うん。実はあの事故に重要なひとが巻き込まれてて、それが潮さんなんじゃないかって思ってるんだ。だから話をしたくて』
「ジェームズさんは何者?」
『……隠しても仕方ないか、FBIさ』
事故時に赤井を見かけているので、FBIの関与については驚かなかった。
「潮は日本の警察が保護しているわ。アメリカの警察が潮に会いたいなら、わたくしじゃなく、日本の警察に話をするべきじゃないかしら?」
『それが、その、すごく大きな事件で……今すぐにでも情報が欲しいんだ。あと、なんつーか、潮さんを保護してる日本の警察が潮さんの立場に気付いていない可能性もあって』
「そんなに急いでいるの?」
『ああ』
「ああ……ああ、なるほど」
『何に納得したの!?』
潮の携帯に残っていた送信履歴には、スパイたちの名前があった。潮は誰かに、自分の組織に潜入している捜査官たちを報告していた。つまり、事故の直前にどこかしらに潜入したか情報屋に接触したかで、その重大な情報を得たのだ。そして逃走中に事故に遭った。
FBIは潮の行方と、潮が何の情報を得たのかを知りたいのだろう。
しかし、潮は警察が保護をした。もっと詳細に表現するならば、ある組織について調べている公安警察が件の組織の一員を確保した。
景光たちが対応している以上、FBIの出る幕ではない気はするが、ひどく焦っているコナンを放置するのも気にかかる。彼は首を突っ込みがちだ、それで危ない目に遭えば後味が悪いし景光の仕事に支障が出るようなことになればもっと悪い。コナンは現時点で、一体どこまで首を突っ込んでいるのだろうか。
錦はうなった。
「ううん……潮を保護したのは、潮のことを知っているひとたちよ」
『どうして分かるんだ?』
「けが人の保護にしては、人数が多くて、警察官の制服ではなくてスーツだったから」
『……』
「あと、あなたが気にしている所持品。わたくしが知っているのは、着信があったことと、送信履歴にメールが一通。着信は出ていないわ。履歴のメールには、お酒の名前が羅列されていたわ」
『名前、覚えてる?』
「スタウト、アクアビット、リースリング、バーボン、キール」
『なんだって!?』
耳から携帯を離す。
『クソッ』
「そのメールだけれど、」
『急いで連絡しねぇと二人が!』
「返信を……切れてる」
錦は嘆息して携帯をポケットに入れた。会話途中で切られてしまったが、返信内容についての意図を問われても返答に困るので、ちょうど良かったのかもしれない。
錦は気を取り直して玄関に向かった。
靴を履いて日傘を持ったところで、再び携帯が震える。今度は景光だった。
『潮が水族館の前で倒れた』