ドレスを脱ぎ捨てて

 ゴンドラが半周目前となる。今のところ潮には何の変化も見られず、風見は焦っているようだった。
 錦は、隣で地上を見下ろす潮をうかがう。物珍しそうに施設を眺めているだけで、何か手がかりを見つけたわけでもなさそうだ。風見らのアテは外れたのだろうか。本当にただ観覧車を楽しむだけとなってしまいそうだ。
 すると、何の脈絡もなくゴンドラの電気が落ちて動きが止まった。
 停止の反動を、手すりにつかまって耐える。何事かと問いかけようとしたのだが、その前に大きな物音がしてさらにゴンドラが揺れる。錦は手すりにつかまったまま、暗闇でこそ明瞭な視界で現状を確認した。
 風見が床に倒れている。潮が錦に背を向けて姿勢よく立ち、景光と対峙していた。

「潮?」

 返答は景光からあった。潮を睨んだままで、口調は厳しい。

「錦、もうこいつは潮じゃない。キュラソーだ」

 馴染みのない言葉に理解が遅れるが、その言葉が潮を指しているのなら、それが組織でのコードネームなのだろう。記憶喪失の潮ではなく、犯罪組織のキュラソーだと。
 ゴンドラの揺れが収まり、錦は悠々と座席に座りなおした。潮が景光へ危害を加えるのなら話は別だが、まだにらみ合いの段階だ。風見も死んでいるわけではない。

「記憶が戻って良かったわ」
「……」
「ここで風見さんと景光を無力化したとして、どうやって逃げるつもり?」
「……」
「もしかして、観覧車に乗る前から思い出していたのかしら。目的があったから、自分からも観覧車を提案したの?」

 景光が引き継ぐ。

「そうだとすれば、観覧車に乗ったのは記憶を戻すためではなく逃亡のため……。ゴンドラが観覧車の一番高い位置にある今しかとれない逃亡手段は――空か」

 錦はガラス越しの空を見上げる。そこで、あ、と声がもれた。
 夜空に紛れる黒い塊がある。元の大きさが分からない上に背景が夜空なので距離感はつかみづらいが、何かが迫っているのは確かだった。ゴンドラの分厚いガラスが、飛行音を遮っている。

「景光」
「どうした」
「よく知っているヘリコプターではないけれど、何か来ているわ」
「当たりだな」
「ねえキュラソー、あなたの仲間ってあれで合ってる?」
 
 景光と対峙している背中に問いかける。返事はなかったが、構わず続けた。

「他の乗り物が見えないから、風見さんたちは空からの逃亡を予期していなかったのね」
「……」
「景光をどうにか出来たなら、逃げおおせることもできるかもしれないわ」

 ひとりでぺらぺらと続けると、ようやく返答があった。

「……よく喋るわね。錦ちゃんなら、この状況をちゃんと把握できているのでしょう?」
「その上で、話しているわ。真っ先にわたくしを人質にとらなかった時点で、あなたに戻るつもりがないことくらい分かるもの」
「この二人くらい、人質がいなくてもどうとでもなるわ」
「なっていないじゃない。風見さんは不意打ちでなんとかなったようだけれど、今は景光も暗闇に目が慣れているし」
「錦ちゃんってそんなに意地悪だったかしら」
「わたくしね、わたくし自身が助けた人間に対してはとぉっても優しいのよ。ねえキュラソー、組織って、そんなに良いところなの?」

 景光に対して構えていたキュラソーが、少し力を抜いたのが分かった。景光を警戒しながらも、錦のほうへ苦笑をにじませた顔を向ける。

「それでも、わたしにはあそこしかないのよ」
「そこしか知らないのではなくて?」
 
 間髪入れずにそう言うと、キュラソーが返事につまる。「わたしは……」その先は言葉にならなかった。
 錦は再びキュラソーの迎えを確認し、椅子から降りる。
 
「潮、一緒に逃げるわよ」

 潮は瞠目し、斜め下に視線を落とす。一度深呼吸をして、意を決したように顔を上げた。
 記憶喪失だったときとは違う、おそらくキュラソーとも違う、確固たる自分の意思を持った眼差しだった。
 潮は座席を足場にしてゴンドラ内で跳びあげると、ほとんど凹凸のない壁と天井に指をかけ、天井部分を蹴り開けた。
 人間の予想以上の脚力に驚く錦と、突然の行動に呆気にとられる景光に対して、潮が笑顔を浮かべる。

「さあ、行きましょう。時間がないわ」

 タイトスカートを手で引き裂く潮の表情は、怯えて焦るどころか挑戦的で生き生きとしていた。

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