挨拶代わりにジャブ

 景光は、理屈は不明だが変装効果の高すぎる眼鏡を装備して、夜の繁華街にやって来た。
 友人との待ち合わせ場所に指定されたのは、雑居ビルにある事務所だった。難しい立場である友人の安全地帯であり、連絡係との接触にも用いることがある場所だという。
 景光は眼鏡をとり、架空の名前がかかった事務所のドアを開ける。と、同時にしゃがむ。しゃがみこんだのは反射ではなく、予測からのことだった。予想通り、頭があった位置に拳が振りぬかれている。
 見上げると、全く目の笑っていない友人が悪役のように笑っていた。

「よおヒロォ、まあ入れよ」

 幼馴染で共に警察を志し、国を守るため凶悪犯罪組織に潜入し、協力して情報を集めてきた、何にも代えがたい友人兼同僚に向ける声音ではなかった。
 景光は無言で何度も頷き、踵を返した友人・降谷零に続く。中は長机と、パイプ椅子、ホワイトボード程度しか目につくものはない。薄暗く、寒々としている。降谷は、上着をかけたパイプ椅子に座り、対面に用意されているパイプ椅子を顎で示した。
 友人との感動の再会のはずだが、降谷の態度のせいでタイマンを張りにきたかのようだ。初手で拳が来ると予想し、それが的中した時点で分かっていたことではあったが、彼は相当怒っている。

「ようやく会えたな、ゼロ」
「……最初に聞いたときは驚いて、次に喜びが来て、今は一周回って怒りになっている」
「見たら分かる」
「胸に銃創は?」
「無いよ。脱ごうか?」
「やめろ。自殺現場のタネは?」
「それは協力者との協定関係で黙秘する。いくらゼロでもそれは駄目だ」

 錦について明かすつもりはない。絶対に特定出来ないだろうと思って"お母さん"とだけ漏らしたことはあるが、それ以上のことは話さない。風見が血眼になって"お母さん"を探していると知っているが、正体を話すつもりはない。たとえ話したとしても、信じてはもらえないだろう。
 降谷はため息を吐いて項垂れる。体中の空気を全て抜くかのような、長いため息だった。

「……俺の立場としては、なんとしてでも問いたださないといけないんだ。でも、ヒロが協力者との信頼を崩すようなことはしないと思っているし……何より、ただ、生きていてくれただけで、俺は十分だ」
「顔を出すのが遅くなって悪かったな。一人で大変だったろ。俺の死は、上手いこと利用できたか?」

 降谷が渋面で頷く。仕事上仕方が無かったとはいえ、友人の死を利用してのし上がるというのは精神的負担を強いるだろう。悲しむ暇もなく、涙を流すことも許されず、むしろ嗤って踏みつけなければならない。それをやってのけるからこそ、降谷は降谷たるのだ。
 景光は降谷の手を取ると、自らの胸に当てた。「生きてるな」「だろ? すげぇだろ」そしてそのままアッパーを喰らう。
 脳震盪を起こすほどではなかったので手加減されたのは確かだが、それでも痛いものは痛い。景光はパイプ椅子に縋りつきながら、清々しい笑顔を浮かべる降谷を見上げる。

「感動の再会なのに!」
「っはー! スッキリした! 絶対に一発入れてやろうと決めていた!」
「舌を噛むところだったぞ!」
「諸々の事情を総合して考えると、正直一発では足りないんだが」
「冗談だろ、もうやめろよ、娘に『暴漢に襲われた』って言う訳にもいかないだろ」
「それだぞ! 娘!」

 指先からビームでも出そうな勢いで指される。
 生存を明かした際に娘の存在も伝えているので、降谷が錦の名前やら素性を知っていることは想定内だ。それが暴力に繋がる理由が分からない。
 もしや、潜入捜査官をしながらも結婚願望が強くなっているのだろうか。一足先に子持ち――後見人ではあるが――になった景光に嫉妬しているのだろうか。
 結婚とは無縁そうだったのになあ、と両手を上げて無抵抗でいると、降谷の口から出たのは思いもよらないことだった。

「安室の友人なんだよ、錦ちゃんは。ヒロの生存が判明する前から何度が会ってるし、今じゃ安室のバイト先の喫茶店の常連だ。おまけに、運悪くベルモットとも顔を合わせている」
「……はあ?」
「風見からの報告で、錦ちゃんの名前が出てきたときの気持ちがお前に分かるか。びっくりどころじゃ済まないぞ。ヒロと明美の生存ってだけで大事なのに、以前から交流のある小学一年生が渦中にいるとは思わないだろ」
「それは……びっくりするな」

 つまり降谷は苛立っているのではなく、行き場のない感情を拳で景光にぶつけようとしたらしい。物騒なことこの上ない。

「というかヒロは知らなかったのか。安室の名前を錦ちゃんから聞いたことは?」
「錦のことを知ってるなら分かると思うけど、下手な大人より大人だろ。だから俺も放任してるんだ。安室透の名前が出たことはないぞ。年上の友達も珍しくないし……」
「あとそう、そうだよ、松田」
「はあ? 松田? 松田陣平か?」
「錦ちゃんの携帯のアドレスに"松田陣平"があるんだよ。あの子の交友関係どうなってるんだ」
「錦って松田とも知り合いなの!?」
「俺が聞いてるんだよ!」

 アッパーを受けたからではなく頭が痛くなってきた。
 降谷には言えないが、錦は景光の自殺未遂現場におり、降谷と赤井の顔を確認している。よって、安室と接触しているのは分からなくもない。景光に一言も報告していないことを考えるに、本当に偶然出会い、景光の心情を考えて伏せたままにしたのかもしれない。
 松田は更に分からない。遊園地で爆弾騒ぎがあったとき、何か手助けをしたのは察しているものの、その後も接触しているとは思わなかった。
 これは、赤井とも会っているのでは――そういえば接触済みだった! 病院での記憶がよみがえる。
 景光は咳払いで動揺を誤魔化した。降谷は赤井と折り合いが悪かったので、名前を出し辛い。正確にはバーボンとライの関係が良くなかったのだが、おそらく降谷も赤井を快くは思っていないだろう。FBIについての情報は渡しているし、景光が言うまでもなく錦と赤井の関わりについては知っているかもしれないが。要確認だ。

「松田とは、爆弾事件のときに遠目で見ただけだ。なんで連絡先を知っているのかは、俺も分からない」
「ああ、シータ降臨とか言われているあの……。現場にいたのか」
「たまたまな」
「……死にかけた友人は、皆錦ちゃんの友達か」
「それもそうだな。俺と、明美と、松田か」
「なんなんだ、勝利の女神か何かか」
「いやどっちかというと死神……」
「死神? あんなに可愛い子が死神? ヒロ、頭大丈夫か?」
「お前にアッパーかまされたから大丈夫ではないが。ゼロもなんだ、前のめりになって。錦のことがそんなにお気に入りか?」
「激務の中の癒しなんだよ」
「分からんでもない。まあ俺の娘なんですけど」
「羨望にかられたのは久しぶりだ」
「……というかさっき流したけど、ベルモットとも会ってるって?」

 安室や松田と接点があったなどよりも重要だ。ベルモットは組織の幹部であり、ボスのお気に入りである。危険性が高すぎる――そこまで考えて、以前組織の下っ端が構える銃の前に現れたことがあったのを思い出す。そもそも、危険度だけでいえば初対面時が最も高い。潜入捜査官だとはいえ、組織幹部が二人いたのだから。
 景光は頭を押さえた。ベルモットに会ったからといって、それがイコール危険にはならない。さほど心配する事態ではないのかもしれない。

「クリス・ビンヤードとして通してくれたがな。俺も安室で通したから、組織と関わったわけじゃないが……」
「そうか……うん、俺も気を付けはするけど」

 多分大丈夫だわ、と続けたかったが、あまり能天気にしていると二撃目を喰らいそうなので飲み込んだ。

「錦ちゃんは構成員の子どもというだけで、組織に関してはほぼ無知だと聞いているが」
「ドリンクバーって呼んでるくらいには、組織の恐ろしさとは無縁だよ。他のネームドも錦のことは知らないだろう」
「錦ちゃんに万が一があったら、今度こそ胴体に穴が空くと思え」
「友達に殺害予告すんなよ……」

 錦に危険が及ぶのは景光としても避けたい。体に穴が空くのはもっと避けたい。
 見えない敵に向かってジャブを繰り出していた降谷が、その拳を景光に突き出した。失言していないよなと焦りつつ顔を見ると、降谷は口角を上げていた。好戦的ながら理知的な笑顔は相変わらずだ。

「また、頼むぞ。ヒロ」
「精一杯努めるよ、ゼロ」
「……ところで、錦は赤井とも面識があるんだけど」
「知っているが?」
「うわ地を這うような声……」

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