「じゃあね、錦ちゃん」
いつものバス停の前で、いつもの言葉を歩美からかけられる。
「まだなの。実は、お引越しして。別の路線のバスに乗るわ」
「お引越し！？ どこ！？」
「マンションよ」
「歩美とおんなじね！」
きゃあ、と何故か喜ばれたので分からないながらも笑みを深める。場所は、以前同様出来るだけ伏せる方針だ。身を隠していないとはいえ、景光の立場が特殊なことに変わりはなく、拠点を言いふらすことは出来ない。
「戸建ての家を持ってたのに、マンションに引っ越すのか？ 買ったのか？」
子どもらしからぬ鋭いツッコミをしてくれるのはコナンである。普通の子どもはおそらく疑問に感じない点だろう。十分想定内の質問に、錦は「賃貸だったの。今度も賃貸よ」と自然に返した。子どもらしからぬ返答である。
コナンと哀の表情は硬かった。会ったばかりのころを彷彿とさせる緊張感だ。彼らが何を警戒し、何に緊張しているのかは知らない。知らないが、伝えておかねばならないことがあるので、錦は観察する目をしているコナンの隣に並んで声を潜めた。
「江戸川君は、パパと会ったことがあったわよね」
「ん、ああ。お母さんともな」
「パパね、代わったの。別の人だから、会っても驚かないでね」
「は……？」
「あとママも、前に出て行ったわ。平和的にね、喧嘩じゃないわよ」
「うん？」
「そういうことだから」
「どういうこと？」
首を深くひねっているコナンを置き去りにして、錦は歩美と元太と光彦の話す輪に入る。背中から「橙茉さん、待って」と苦し気な声が聞こえたが、これ以上は答えられないので聞こえない振りをした。
＊
錦とバス停で分かれ、改めて帰路につきながら、コナンは哀に話しかけた。
「どう思う？」
「頭が痛いわね……」
「俺も」
子どもたちは錦の引っ越しをおめでたいイベントとして盛り上げていたが、コナンにとっては、追加情報がなくとも十分衝撃的だった。
「突き止めてしまったから、かしら」
哀の言葉に頷く。
先日、コナンらは錦の自宅を突き止めた。それまで住所や決定的な目印を明かさなかった錦の自宅だ。引っ越しのタイミング的に"住居がバレてしまったから移動した"と考えることは難しくない。子どもたちを迎え入れていた錦の反応から、可能性としては低いけれどあり得ることだ。コナンの行動も、もしかしたら一因かもしれない。
安室の言葉もあり、敵だとは思っていない。が、立場が不明な以上味方だと断言も出来ない。
「ご両親が『代わった』というのも、その関係かしら。知られたから交代した？」
「タイミングが妙だ。知られるのがまずいなら、俺と接触した後に交代するはず……そもそも、呑気に家族揃ってレストランにも来ねぇだろ」
「なら何故かしら。離婚ならそう言うと思うわ、彼女のことだから」
「俺もそう思う。……自宅を突き止められて、引っ越しは分かる。親が代わる理由はなんだ」
錦は悲しんでいなかった。赤井の殉職を知らせたときも深く悲しんでいる様子はみられなかったが、今回は両親だ。仲も良さそうに見えた。両親がいなくなって、感情が動かないはずがない。新たな父親との生活に、ストレスを感じないはずがない。
錦にとって、珍しいことではないのだろうか。
引っ越しも両親の交代も慣れているのではないだろうか。コナンが会った両親も血の繋がった関係ではなく、何番目かの両親役なのだとしたら。
まるで逃亡者だ。徹底的に情報を伏せはしないけれど、決定的な開示は避ける。周囲に不自然を感じさせないまま、正体を掴ませない。
何番目かの両親は顔が割れていないから外も出歩けたが、拠点の暴露は出来なかったのだ。本人の言葉を信用すると、引っ越しと母親がいなくなった時期は異なる。つまり、両親は"拠点の暴露"がなくとも定期的に交代する。今回たまたま、拠点の移動が父親の交代時期と被ってしまったのだ。
「『渦中にいるのかもしれない』と、安室さんは言っていた。橙茉さんは、組織から逃げているのか？」
「わたしみたいに親が構成員で……組織にとっての不都合を知ってしまった、とか」
「灰原と同じような境遇で、幼児化して逃げている可能性は？」
「安室さんが橙茉さんと出会ったのは小学校入学前なんでしょう？ まだ薬は試作も試作……でも、そうね。試作段階の薬もジンは使っていたから、その生き残りという線はあるわ」
「ここにきてギフテッド説が崩れ始めてるな」
幼児化は一度否定されているが、錦は犯人に銃を向けられても怯まないどころか煽る肝っ玉の持ち主なので、涼しい顔で嘘をつかれても驚かない。コナンや哀のことを知っているのかは分からないが、自身が幼児化しているのだとしたら、思い至っていても不思議ではない。
いや、と一度頭を振る。全て推測だ。組織など無関係で、親戚をたらい回しにされているという悲しい背景があるのかもしれない。コナンと哀が過敏になっているだけかもしれない。
彼女は一体、何なんだ。