誰も彼には届かなかった

 お茶が、蓋碗(がいわん)から茶海(ちゃかい)へ移される様子を眺める。丁寧で手早い。今時、茶器一式を用意してお茶を淹れることは少ないが、ここでは珍しくないのだろう。
 ふわりと香った花の香りに頬を緩める。

「蘭の香りがする」
「茶器の柄は木蓮ですけどね」

 お茶を淹れている冠萱(カンセン)が笑った。
 虚淮(シューファイ)との面会後、無限と分かれ、定位置になった会館の屋根の上でじっとしていると声をかけられたのだ。お茶にしませんか、という柔らかい声にはわたしへの気遣いがあった。お茶会と名の尋問というわけでもなく、ただ、喉が渇きませんか、と。
 そして、妖精会館の一室で冠萱がお茶を淹れるのを眺めている。
 わたしたちのせいで忙しでしょうと皮肉を言う気にもなれず、茶杯(ちゃはい)が渡されるまで黙って蘭の香りをかいでいた。

「ありがとう」
「いいえ。彼とは、ゆっくり話せましたか」
「虚淮?」
「ええ」

 また余計なことを企んでいないのか。そう遠回しに聞かれているのかと思ったが、冠萱は穏やかだ。特に含ませた意味はないらしい。
 わたしは一口飲んでから頷いた。

「……感謝するわ、許可をくれて。無限にもね」
「他の方々ともお会いしたいとは思いますが、あまり融通が利かせられずに申し訳ありません」
「十分だと思うけれど。わたしの限定的な自由も、虚淮との面会も。風息のところにも行かせてもらえたから。虚淮が言ったから、だけではないわよね。無限?」
「わたしからは、何とも」
「そう……追及するのも野暮かしらね」

 冠萱も対面でお茶を飲む。

「この調子でしたら、あなたが自由に動ける日もそう遠くないと思います。妖精会館から出たらどうするんですか?」

 決めかねていることを問われて、茶器の木蓮を見つめる。
 風息の近くにはいたい。公園になるという話なので、その管理に名乗り出るのもいい。都会の中の巨大樹とともに、人間の街の移り変わりを傍観するのも悪くない。わたしの所在がはっきりしているほうが妖精会館的にもいいだろう。
 わたしたちは負けたのだ。

「風息のそばにいたいと思っているのは本当よ」
「はい」
「ただ、それだけでいいのかとも思ってしまうの」

 風息は力を持っていた。持てる者としてやるべきことがあると、妖精のために行動を起こした。
 もうあんな無茶はしないし出来ないとしても、風息の起こした波をなかったことにしていいのだろうか。ただ敗北を認めて人間社会に混じり静かに暮らして、果たしてわたしは前を向けるだろうか。
 
「わたしは風息と同じで、持てる側の妖精よ。戦う力も守る力もあるわ。でも、わたしに一体何が出来るのかって……考えても分からないの」
「……」
「風息が木にかえってしまう瞬間がね、頭から離れないのよ」

 戦い続けることではなく自分の願いを叶えることを選んだという一点に対してだけ、安堵した。風息がやっと自分自身を優先してくれたあの瞬間、ようやく彼は休めるのだと。
 だからといって、ただ「良かったね」と到底言えない。当たり前だ。風息の叶えたかった帰郷は、あんな形ではない。これ以上誰ひとりとして、あんな願いの叶え方をさせるわけにはいかない。

「そんなに、彼を想って辛いなら。忘れてしまうことも出来ますよ」

 ひゅ、と息を吸いながら顔を上げる。怒鳴り声にならなかったのは、冠萱が眉を寄せて泣き笑うような表情を浮かべていたからだ。

「執行人だった頃に戻れば、このような葛藤をせずに済むでしょう。以前から館のやり方に疑問を持っていたことは聞いていますが、それでも、可欣さんは執行人として均衡を保つために働いてくれていました。あなたに助けられた妖精も大勢います。妖精会館の執行人として、今の共存を守ってはくれませんか。今のあなたでは無理でも、あの頃のあなたなら出来るでしょう」

 冠萱の言葉を聞きながら、静かにぼろぼろ涙が流れた。
 震える言葉は、おそらく今までで一番ひどかった。

「ひどいことを言わないで。悲しいことを、言わないで」
「可欣さん、あなたは快活に笑うひとでしょう。このままでは心を駄目にしてしまいます」
「それでも、無かったことになんてできない。忘れて生きるなんて出来るはずないわ。みんなと過ごした時間も、覚悟も、その結末も。かけがえのないものなのよ。風息を二度も失うなんて、耐えられない」
「忘れてしまえば、すべてゼロです」
「街中の大きな樹を見上げて、首を傾げろと言うの?」
「きっと、あなたは別の地で任務にあたっていたのでしょう」
「いいえ、いいえ。それだけは駄目よ。風息の、最後を見たのは、わたしだけなの。彼の願いを、わたしだけは忘れてはいけないわ」

 首を横に振る。わたしだけは、あの瞬間を覚えていなければ。
 涙をぬぐって鼻をすする。今日だけで三度目だ。頭が痛い。いっそ、涙が枯れるほど泣けば、すべてに答えが出たらいいのに。妖精と人間の在り方について、誰もが納得できる最善が導き出せたらどれほど良いか。
 濡れた袖を見て、小黒が頭をよぎった。小黒はわたしと一緒になって泣いてくれた。
 わたしたちが騙し、取りこぼすことを黙認した小黒は。

「……小黒は、どうしているの」
「え、ああ、無限様とご一緒です」
「無限の任務は?」
「通常通りです」

 わたしは両手で自分の頬を叩いた。ぱん、と小気味いい音がする。冠萱が呆気に取られているのが分かった。
 わたしたちは、小黒から大切なものを奪った。生まれてたった数年の幼い妖精に、妖精の未来を賭けた選択を迫った。信頼する妖精を目の前で失わせた。ただ辛い思いだけをさせた。
 わたしは小黒に謝らない。だが、償えるなら償いたい。最後に小黒に謝罪した風息の分まで、与えられるなら与えたい。
 そう出来るのが無限だけだとすれば、わたしは全力で助けよう。

「わたし、執行人に戻れるかしら。何も忘れない、このままのわたしで」

 身を乗り出して冠萱に問う。冠萱は困惑しながらも「わたしでは、なんとも」と律儀に返答した。

「無限の任務、全部わたしに頂戴。小黒との時間を作ってあげて。妖精会館のやり方に賛同は出来ないけれど、今のぐずぐずしたわたしの葛藤より、小黒の成長のほうがよっぽど大事だわ。風息が守りたくても守れなかった小黒が今生きているんだもの。何よりそれが大事よ」
「可欣さんは」
「分からない。考え続けるわ。少なくとも、あのやり方では駄目だと分かった。でも納得は出来ないから、考えるのは止めない。答えがすぐに出ないと分かっていても」
「いいんですか、それで」
「ええ」

 答えを後回しにするのは褒められたことではないが、風息が長い間考えて出した答えでは通用せず振り出しに戻ったのだ。あまり時間がないとはいえ、そうすぐに考えがまとめられる問題でもない。ならば、今まさに成長している幼い妖精の時間のほうが大切だろう。
 茶杯の残りを飲み干して、冠萱に向き直る。

「元執行人がこれだけの騒動を起こした後でまた執行人に戻ろうなんて、そう簡単だとは思っていないわ。なんとか出来るかしら」
「相談します。その決意を聞いたら、助けてくれる妖精も多いと思います。人質をとっているようなものですし」
「館のやり方に納得していないのに?」
「それは前からなのでしょう? 馬車馬のごとく働くことは覚悟してくださいね」

 さらりとした冠萱の返しに、今度はわたしが呆気にとられる番だった。
 冠萱はどこか清々しそうな表情で、ハンカチを差し出してきた。

「ティッシュいります?」
「いる」
 

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