若水(シュイ)は、突如明るくなった空に顔を上げた。空で炎が上がっていて、その後すぐに激しい雷鳴がする。炎と雷が深夜の街を照らし、異様な夜に拍車をかけていた。
雷鳴は、バリバリ、という表現ではとても足りなかった。雷が怖いわけでもないのに身がすくむほどの迫力で、落雷したわけでもないのに体の芯が揺れる。衝撃波という言葉がぴったりだ。
雷のほうが可欣だとはすぐに分かった。会ったことは無いが、風息側についている元執行人の話は聞いたことがある。雷を操る妖精だ。現最強執行人の無限と馴染みであるからなのか、別の理由からか、実力はかなりのものと聞いている。
相手をしている火属性は誰だろうかと考え、何か輪が光ったことに気付いて思わず固まった。哪吒だ。応援を受けて総本部から駆け付けたのだろう。
哪吒の登場に声を上げたくなったがこらえる。人間の避難誘導の最中に「哪吒様―!」と手を振ることがどれだけ空気を読んでいない行動かくらい分かる。
若水は避難誘導に意識を戻しながら、ほっと胸をなでおろした。焦りや不安は幾らか和らいでいた。
無限の叫びを聞いたときには思わず両手を握ったが、哪吒がいるのだからこれ以上状況が悪くなることはないだろう。彼の敗北はとても想像出来ない。
風息たちは勝てると思っているのだろうか。領界の発動は出来たとしても、その後は。風息の一味はどんどん捕らえられていると聞いている。無限は領界の中に入ったらしい。無限が他人の霊域にいることは心配だが、領界の拡大は止まっているので確実に風息の邪魔が出来ているのだろう。そこへ哪吒も駆けつけた。
雷鳴は止まない。空を引き裂き続けている。
*
右の額にだけ角のある妖精が館を歩いていた。
若水は声を掛けようとしたものの、口を半開きにして固まった。無限や小黒と風息のところへ行ったときとは雰囲気が明らかに違う。足取りは少しだけ軽く、視線は前を向いている。無限の立ち合いで仲間に会いに行ったらしいので、そこで何か前向きになれるやりとりがあったのだろうか。何にせよ、きっと良い変化だ。
若水は、先ほどより肩の力を抜いて息を吸った。
「可欣!」
呼びかけるにしては、大きな声になってしまった。可欣も同じことを思ったのだろう、目を瞬いて若水を見る。
「若水?」
まず要件を問うのではなく、名前を呼んでくれた。風息に会いに行ったときには一度も言葉を交わさなかったので、ただ一妖精としての認識しかされていないものと思っていたが。
驚きがそのまま声に出る。
「わたしのこと知ってるの?」
「一緒に風息のところに行ったじゃない」
「わたしを認識していると思わなくって」
「周りを見ていなかったことは認めるけれど、そこまでじゃないわよ」
可欣が軽く笑う。若水は、可欣が笑ったところを初めて見た。
若水にとって可欣はどちらかというと<こわい妖精>だ。あの夜の可欣しか知らないのだ、朗らかな印象を持てと言うほうが無理な話である。
小黒の言う「よく笑う」という評価は可欣と全く結びついていなかったが、こうして対面して自然な笑顔を見ると、こちらが本質なのだろうとはなんとなく分かった。
身長の低い若水に合わせて少しだけかがんだり、「何か用?」と促してきたりと、本来の優しさが垣間見える。
「渡したいものがあって。ちょっと迷っていたんだけど、今の可欣なら大丈夫そう」
可欣に画巻(がかん)をひとつ渡す。可欣は首を傾げながらそれを開いて、表情が凍った。
若水はしまったと遅れて気が付いた。画巻には、風息に襲われた画虎(ガコ)が<犯人>として彼を思い描いた姿がある。不要になったので風息の仲間に渡したほうが良いだろうかと思ったのだが、仲間が妖精を襲っている姿など見たいものではないだろう。
若水が画巻をひったくる前に、可欣が声を絞り出した。
「……これは?」
「画虎(ガコ)さんっていう画霊(がれい)の能力を持った妖精に事情を聞いたときに、犯に……襲げ……襲われ……その……」
「画霊のことは聞いているわ。画虎さんって妖精は、自分を襲った妖精として風息をここに描いたのね」
「思い描いたものがここに浮き出てくるの。今はもう必要ないから渡そうと思ったんだけど……こんなときの表情を渡すのもどうかと今気づいたわ、無神経だった」
可欣が画巻を握りしめたままなので、若水は中途半端な高さまで上げた手をゆっくりと降ろす。渡した手前、返してとも言いづらい。
可欣は案外冷静だった。こらえるような表情ではあるものの、涙になることはなかった。
「これ、わたしがもらうわ」
「えっ……その、あまり良いものではないでしょう」
「風息の葛藤を覚えておきたいのよ」
可欣が画巻を巻いて紐で留める。突き返されなかっただけでも困惑するのに、礼まで言われてさらに混乱した。
「ありがとう」
「ど、どういたしまして……」
「若水にとっても、風息ってこういうイメージなの?」
問いかけてくる可欣は、決して悲しそうではなかった。なんなら少し可笑しそうなくらいだ。
若水は答えに迷ったものの、風息を心から想っている風息の仲間の前でいい加減なことを言うことも出来なかった。
妖精会館では要注意とされていた妖精だ。鉄道では大勢の人間を危険にさらし、小黒の能力を奪って街で領界を発動させた。人間に追いやられたという気持ちはなんとなく分かるが、手段は決して好きになれない。実際に会って話したことがあれば違うのだろうが、若水はあの木しか知らない。
「あまり、良い印象はないわ」
「そうよね」
「でも、あの木を見たときに、すごく追い込まれていたのかなって。あれだけの想いを抱えていたのかなって思ったの。きっと、自然を愛する妖精だったのね」
「……ええ。そうよ」
「風息のこと、本当に大好きなのね」
「ええ」
可欣の表情は微笑んでいる。
風息は妖精会館にとって危険な妖精だが、面倒見が良く心優しい妖精だったのだろう。命を奪われるところだった小黒ですら、風息を悪くは言わない。執行人だった可欣がそれを辞めるくらいだ、頭も良く冷静だったに違いない。良く知らないながらも可欣に対する評価が高いのは、無限が可欣を信用しているからだ。
可欣は、何故風息の側についたのだろう。仲間になるだけならともかく、あれだけの暴挙を許したのだろう。黙って思案している若水の言葉をじっと待っている様子と、あの雷はとても結びつかなかった。
ビルを飲み込んだ木々を見ると、風息の想いの大きさが分かる。間近でそれを感じてきた故に、止められなかったのだろうか。止められていたら、彼の仲間たちは牢に入ることはなく、可欣は涙することもなかったのに。無茶をしていることは、きっと分かっていただろう。
「どうして止まらなかったの」
可欣はすぐに答えた。
「わたしたちには、ああするしかなかったの」
言葉に迷いはなかった。聞かれ慣れているのだろう。同時に、反省の色は微塵もなかった。
突発的な暴挙ではなく、考え抜いた先の結論があれだったのだ。今若水が考えているような疑問について風息たちが考えていないとは思えない。既に彼らの中で整理され、妖精会館という秩序を保つ組織も諦めてしまったのだ。
若水は、一連の騒ぎを妖精会館のせいとは思っていない。人間との共存に折り合いをつけられなかった妖精たちによるものだ。ただ、妖精を守るための組織が届かなかった存在は確かにあるのだろうと実感していた。
誰が悪いわけでもない、答えの出ない問題だ。可欣もこうした思いを抱えて執行人として仕事をしていたのかもしれない。――そうか、と得心する。疑問を持って仕事をする中で<届かなかった>妖精の声が直接響いたなら、手を伸ばしたいと思うのも理解出来た。救いたいと願った妖精が悲しい最期を迎えてしまう虚しさも、なんとなく分かった気がした。
ならば尚のこと、可欣の記憶に刻まれるのが襲撃者としての風息であってはならない。
若水は新しい画巻を一つ取り出して、可欣に押し付けた。
「二つ目?」
「これは真っ白だから、可欣が描いて。思い浮かべるだけでいいの。優しい妖精として覚えていないと駄目よ。さっきのは、やっぱり渡せないわ」
「でも」
若水は、怪力を生かして無理くり画巻を返してもらう。困惑している可欣に、早く風息を描くように急かした。
可欣の握った画巻が淡い光を放ち、おさまる。若水は可欣に許可を得て一緒に中を確認した。
風息が、森の中で目を細めて笑っていた。それだけで、森をどれほど好きなのかが分かる。ここにいたいという願いが伝わってくる。画虎を襲った妖精と同一だとは思えないほど、可欣の思い描いた風息は柔らかだった。
「素敵な妖精ね」
「でしょう? とっても美しい妖精なの」
可欣が自慢気に頷く。
「若水、ありがとう。いつか風息の声を忘れても、笑顔は覚えていられるわ」
可欣が嬉しそうに悲しいことを言って、指先で風息を撫でる。
若水は「どういたしまして」と首を横に振りながら、後ろで組んだ手を握り締めた。