乾坤圏を砕け

 幼い妖精が絶叫しても、風息(フーシー)は止まらなかった。
 

 小黒(シャオヘイ)を無限から取り戻して、わたしは体勢を立て直すとばかり思っていた。小黒にわたしたちの目的を話していないし、単純に、捕捉されている状態では圧倒的に不利だからだ。無限が近くにいる状態で行動を起こすのは無茶だ。島はもう安全地帯ではなくなったとはいえ、このまま静かに移動をすればまた潜伏出来る。そうすべきだと思っていた。
 だから、風息の行動には驚いた。あそこまで無理矢理に、非道なことをするとは思っていなかった。他の妖精にも使った能力とはいえ、小黒はわけが違う。
 タイミングが悪かったのだ、ということにわたしは散開してから気が付いた。
 安全なはずだった島への無限の襲撃と、この地が龍游(りゅうゆう)だということ。風息は、この故郷で、妖精たちの逃げ場を確保することに必死なのだ。
 無限が島に乗り込んでくるのがあと一日遅かったら、小黒とちゃんと話が出来ただろう。到着したのが龍游ではなかったら、風息はここまで急がなかっただろう。
 たらればを考えてもどうしようもない。
 わたしたちは多数のために幼い妖精を犠牲にした。ただそれが事実だ。
 コンビニの駐車場の隅に立ち、何度か咳ばらいをする。頭を抱える気にもなれず、狭い夜空を見上げた。
 風息は、小黒がどうなってしまうのか分かっていて強行したのだ。優しい森の神様が幼い妖精を手にかけるほど。彼はずっとギリギリのところに立っていて、どうしようもなくなったのだろう。一層自分を追い詰めることになろうとも退くことは出来なかったのだ。
 
「小黒……」

 深く息をして、視線を正面に戻す。
 妖精会館の執行人が険しい顔で立っていた。

「ポイントファイブ、可欣。応援を要請します」

 干渉に浸る間もない。わたしは館をかく乱し、風息が領界を展開する時間を稼がなければならなかった。



 執行人たちを殴り蹴りして気絶させ続けていると、ふと視界が暗くなる。月が雲に隠れたのだろう。それでも、現代の街は街頭や看板やと光源が充実しているので離島の曇り夜空には及ばない。星も満足に見えない夜空を見上げていると、視界の端で不自然に光が消えた。
 まだ明りの点いていたビルが丸ごと一棟消えていた。
 どこからか、黒い幕が迫っているのだ。車もビルもおそらく人間も、静かに街を飲み込んでいる。

「これが領界なの」

 街を飲み込んでいる黒い幕の向こう側が霊域になっているのだろう。これほど速やかに、音もなく広がっていくものだとは知らなかった。大体、こんな街中でこれほど大規模に領界を展開する妖精など前代未聞だろう。
 無事に展開出来たということは風息のところに無限がたどり着かなかったか、風息が上手く無限を躱せたか。ともかく、展開出来たのならばわたしたちは風息のところへ向かわねばならない。領界がどの程度外部から出入りできるのか分からないのだ、早く中に入らねば。館に捕まって人質になってしまうと、風息が動けなくなる。
 空中を猛スピードで進み、領界へ一直線に向かっていると、下から見た黒い幕が半球状になっていることに気付いた。霊域が球状なので、領界もそのような形になっているのだろう。黒い半球は拡大を続け、街を飲み込んでいる。
 半球の上に、無限を見つけた。怒りの形相であることが遠目でもわかる。
 
「風息!!」

 無限の叫びが空気を振るわせる。
 小黒が無限に拾われ/保護され、何を話し何を見たのかは分からない。きっと、小黒が人間の街を悪くないと思えるような、素晴らしい体験だった。無限が小黒を可愛がっていたのは想像に難くない。
 電車の屋根の上で、無限と小黒は並んで座っていたのだ。わたしたちが小黒を連れて逃げるとき、無限は「助けに行く」と言っていた。芝居を土台にしたわたしたちよりもずっと純粋に絆をはぐくんでいたのだろう。
 それを分かっていても、それでも。
 無限が領界へ突入する姿勢を見せ、わたしは加速した。

「無限!」
「っ可欣!」

 無限を念力の対象として捉え、領界から引き離す。不意をついたと思ったが、無限は吹っ飛んでバランスを崩すようなヘマはせず、すぐにこちらへ向かってきた。
 風息の邪魔をさせまいとしたのだが、無限が本気で領界に入るというのならば中で戦うのが得策だ。この領界は風息のものであり、いくら無限といえど他人の霊域内でも最強であり続けるのは不可能である。外で無限を妨害するより、風息との合流を優先したほうが良さそうだ。
 無限とにらみ合ったまま領界へ向かって自分の体を動かすが、飛んできた金属片のいくつかの内ひとつがわたしの右足首を捉えた。強制的に動きを止められ、その間に無限との距離が詰まる。

「なぜ風息を止めなかった! 可欣なら無理矢理にでも出来たはずだろう!」

 わたしの右足首に巻き付く金属片の力は強い。無限が操っているのだから当然だ。コントロールも強度も、舌打ちが出るほど洗練されている。

「小黒の命より風息のこころを取った、それだけよ」

 金属片の主導権を奪う。わたしが使うのは念力だ、対象物が何であるかはあまり関係がない。
 バキン、という音とともに右足が自由になる。今度は無限が舌打ちをしていた。
 
「続きは中で闘(や)りましょう」

 黒い幕に体が触れる寸前、視界が炎に呑まれた。


 間一髪で起動を捻じ曲げた拘束具が地面に落ちていく。わたしが火の属性ではなかったら、炎の中で自由に動くことも出来なかっただろう。念力を扱えていなければ、向かってくる拘束具をさばききれなかっただろう。
 わたしの前には、無限に代わって小柄な少年の姿をした執行人が対峙していた。哪吒(ナタ)様だ。

「残念でしたね」
「無限は中に入れた、それで十分だろ」

 哪吒様は何一つ焦らず余裕そうだ。ポケットに手を突っ込んで宙に立っている。
 彼は総本部の所属のはずだ。龍游に常駐している執行人ではない。領界の展開で龍游の妖精会館から応援要請があったにしても、到着が早すぎる。
 わたしの考えていることが分かったのか、哪吒様は呆れ顔で言う。

「急いでくれって言われたから。無限(あいつ)だけでもどうにかなるだろうと思ったけど、お前がいるから仕方なく」
「光栄ですよ」
「領界(これ)と可欣を相手にするのは分が悪いからな。俺は別だけど」
「わたしとあなたに、霊属性の利はありませんよ」
「それだけで俺と対等になったつもりか?」
「負けても言い訳しないでくださいねってことです」
「へえ?」

 哪吒様と言葉を交わしたのはそこまでだった。
 夜の街を照らす猛炎(もうえん)は、酸素を消費している音が聞こえそうなくらいだった。それだけで実力を示すには十分で盾突く気など無くなるが、今は怖気づいてもいられない。こちらも負けじと雷をまとって応戦する。空気を切り裂く電気の音は耳を劈(つんざく)くほどで、それだけでわたしは奮い立つ。
 哪吒様に勝てるとは思っていない。ただ領界に入れさえすればいい。
 それでも、哪吒様を相手にする厳しさを思い知った頃、わたしと哪吒様との間に黒い小さな玉が現れた。
 何だ、誰だ。
 第三者の介入に悩んだのは一瞬だ。黒い玉がはじけて氷の龍が咆哮する。腕で顔をかばっていたわたしは、冷気に押されて領界へ背中から落ちる。辛うじて、消えていく氷の龍と哪吒様に拘束される虚淮を確認した。
 わたしは、風息とともに戦うことを虚淮に託されたのだ。
 視界が夜空から白に変わった瞬間、腹の底から叫んだ。

「風息、閉じて!」

 この広い領界で声が届くのか不安だったが、哪吒様が突入してこないところをみるに、領界への侵入は出来ない状態になったらしい。
 領界の中は静かだった。外界との境目は真っ白で、深夜だと言うのに早朝のような明るさだった。飲み込んだ街はそのまま残っており、ただ人の営みだけがない。時折轟音がするのは、風息と無限が戦っているからだろう。
 神から逃れた次は、友を倒さねばならない。


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