息の仕方を忘れたの

 大都会の中に突如出現した巨大樹は、将来的には観光地になる、らしい。
 複数のビルを木々が飲み込んでいる光景は、例えば数千年後、人間がいなくなった都市が自然に還っていくような。非現実的で神秘的だと、非常に評判が良いらしい。コンクリートジャングルに住む人間にも、緑を素敵だと感じる心が残っているのなら、開発の際にも配慮をしてほしいものだ。

「薪にするって言われたら、もうひと暴れするところだったわ」

 生い茂る緑の中、枝に座って幹にもたれる。
 風が葉を揺らし、さらさらと心地の良い音がする。それが彼の呼吸のようで、まるで会話をしてくれていように感じて、わたしは少しだけ笑った。

「この街を丸ごと、燃やすのか」

 近くの枝に立つ無限が言う。

「そうね、大規模な停電を起こしてもいいわ。全部溶かしてしまってもいいわ」
「あのとき、それをしなかったのは」
「そうしたらわたしたちは負けなかった? 馬鹿言わないで。人間の大量虐殺がしたいんじゃないのよ。ああもう、また涙が出てきた」
「泣くな……困るだろう」
「どうしてあなたが困るのよ」
「……お前が泣いているイメージがない」
「長い付き合いでの新しい発見よ、良かったわね」

 わたしだって、泣きたくて泣いているのではない。同情を誘う気もない。勝手に涙が出てくるのだ。
 しゃくりあげるほどの号泣はしないまでも、涙は止まらない。無限との戦いに負けてから、ずっとそうなのだ。気を抜くと泣いてしまう。今回もしばらくは止まらないだろうなと、涙を拭うことはしなかった。妖精だからすぐに治るとはいえ、目がひりひりするだけなのだ。 

「何故、そんなにも泣くんだ」
「負けたのが悔しいのかって?」
「ここは、可欣の故郷ではないだろう」
「……ふがいなくて、やりきれないだけ」
「わたしを倒せなかったことが?」
「風息(フーシー)の期待に応えられなかったことが」

 作戦の軸は風息だった。そこは誰も代われない。風息の能力が鍵で、それがなければ始まらない。だからわたしたちは風息を信じて、作戦のために必要な行動をとった。それは無限と小黒の居場所特定であり、小黒の誘拐であり、館の攪乱であり、出来得る限りのことをした。
 わたしたちが信じた、風息は。

「風息は、わたしを信じてくれたのに」

 無限との対決が避けられないことは分かっていた。風息はそのために準備をし、なによりわたしを頼りにしてくれた。
 無限の属性は金で、わたしは火。五行相克でわたしに利がある上、生きた年数相応の強さもある。それでも同世代で化け物級の無限の強さの前では、おそらく上手くやっても五分だろうけれど、領界の中でなら話は変わってくる。風息が展開した領界の中で、霊属性火のわたしが、霊属性金の無限に負けるなどあり得ない――はずだったのだ。
 予想外は三つあった。無限が領界へ突入するのが早かったこと、わたしが哪吒(ナタ)様に足止めを食らったこと、小黒が意識を取り戻したこと。

「風息は、無限を倒すにあたって、わたしを大きな戦力と考えていたわ。わたしはその役目を受けたの。たとえ、旧友(あなた)を殺すことになっても」
「……わたしを殺したかったか」
「わたしは、」

 一度言葉を切る。
 そりゃそうだ、倒したかった。戦闘不能に追い込めればそれでいいとしても、無限相手に手加減など出来るわけがない。やるなら、殺す気で、本気でやらねばいけなかったし、実際そうした。
 けれど、わたしにとっての重点はそこではないのだ。無限に負けたことでも、小黒を深く傷つけたことでも、しばらくはこうして執行人の監視がないと出歩けないことでも、牢にいる仲間と面会が禁じられていることでも、風息に会えなくなったことでも、どれでもない。

「わたしは、風息を故郷に帰してあげたかった」

 風息は妖精の中では年若い方だったから、若さゆえの暴走だと考えているものもいるだろう。もっとよく考えろと言うのだろう。
 そうじゃない。違うのだ。
 風息は考えていた。考え続けて、現状に疑問を持って、試行錯誤してそれでも駄目で。好きだった人間たちを傷つけて、同族に危害を加えることを決意するほど、追い詰められていた。
 妖精は自然から生まれ、自然に生かされ、自然を守るものだ。風息は、その意識がとてもとても強かった。
 森の神様として人間に慕われていた時期があったからこそだと思う。自然を守る意識が妖精一倍で、人間への失望感も妖精一倍だった。
 『あの頃は良かった』――そう風息はたびたび口にしていた。
 わたしが出来なかったこと、忘れた想いを、風息は考え続けていた。わたしは出来る限り彼の力になりたくて、わたしが叶えられなかったことを叶えてほしくて。
 彼を故郷/森に返せたら、どんなに良かっただろう。

「本当にひどい。みんなひどいわ。もっと考えるべきなのに。妖精が、どうしてわたしたちが、姿を隠さないといけないの」
「……」
「人間のフリをして人間社会に混ざることは、本当に<共存>なの? ねえ、無限、どうなのよ」
「……時代は変わっていく。人間と生きることは避けられない」
「<共存>しろというのなら、妖精として、向き合うべきでしょう。違うの? 人間のフリをしてどうなるの? 無力な人間のフリをした強大な妖精がいるほうが問題じゃないの。なんなのよ、みんな、目を背けているだけじゃない」
「それでも、やってはいけないことをした」
「それしかなかったって言ってるじゃない! 風息を否定する前に、他の手段を提示しなさいよ!」
「可欣」

 強く名前を呼ばれて、深く呼吸をする。 

「わたしだって考えたわよ。考えてないわけ、ないじゃないの。わたしが館の妖精と交流してたの、あなた知ってるでしょう? 頑なに人間を否定していたわけじゃないと、知ってるでしょう」
「……」
「無限のことも嫌いじゃないわ。嫌いなのは、現状を『<共存>出来ている』と言うことよ」
「……可欣」
「なによ」
「可欣、かえろう」

 呼びかけられて、気づく。わたしはいつの間にか変化術が解けた状態で小さく丸まっていた。妖精としてのわたしだ。さすがに本来のサイズだと大きすぎて枝が折れるので自重したようだが、無意識だった。
 無限が、わたしの隣で腰をかがめ手を伸ばしている。

「かえろう」
「……もう少し風息のそばにいたい」
「少ししたら、一緒にかえってくれるか?」

 しゃがみこんだ無限の声は優しかった。
 わたしも風息のようになることを心配しているのだろうか。そうはならないと伝えたのに、信用されていないらしい。これだけ泣いたら、当然の心配なのかもしれないが。
 無限は優しい。知っている。わたしたち妖精の立場をよく理解してくれている。だからこそわたしたちの所業が許せなくもあり、同時に、ある程度の理解をしてくれている。

「わたし、」
「うん」
「あなたを殺さなくて良かったと思ってることも、本当よ」
「分かってる。わたしもだ」

 顔を背けて丸まると、撫でてこようとするので尻尾で弾く。
 しばらく戸惑う気配がして、衣擦れがする。横に座ったらしかった。

「……無限」
「うん?」
「館まで、遠回りしましょう」
「ああ」
「風息のまちが見たい」
「分かった」

 無限のほうを見ずに、丸まったまま目を閉じる。葉が揺れる音と小鳥のさえずりだけが耳に届く。あの島にいるような心地になって、楽し気で賑やかなみんなの声が甦る。
 暗くなっていく瞼の中で、風息は何を思っていたのだろう。


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