選んだ未来について

 小黒(シャオヘイ)は大きな樹を見上げた。巨大樹であり、森のようでもある。大都会のど真ん中にある建設途中のビルを覆い隠すそれは、小黒に仲間と居場所を与えてくれた大事な仲間そのものだ。
 森の奥、太い幹の近くに無限と可欣が向かって行った。小黒は待つように言われ、若水(シュイ)とともに森の浅い位置に留まっていた。

「なんで、ぼくは一緒に行っちゃ駄目なんだろう」

 ちぇ。知らないひとに会いに行く訳でもないのに、なぜ自分は<待ち>なのか。小黒はぶすくれて、木にもたれてあぐらをかく。
 若水が隣に座った。人の街に出るにあたって、ボリュームのあるしっぽは隠している。

「多分だけど、ほら、可欣さんが、ね」
「ぼくのこと嫌いなのかなあ」
「そうじゃないわ。可欣さん、泣いちゃうから」
「ぼくもつられちゃうから?」
「うん、きっとそう」
「それは……そうかも」

 小黒は、無限と可欣が飛んでいった方向を見る。森の奥で可欣はまた泣いているのだろうか。ここに来るまでは無限に軽口を叩いていたが、空元気だというのは小黒にも伝わっていた。
 小黒は耳を下げた。先日、館でぼろぼろ泣いていた可欣が頭をよぎって涙ぐむ。乱暴に袖で目をこすると、若水が顔を覗き込んできた。

「小黒、泣いてる?」
「泣いてないよ!」

 即座に否定して、もう一度目元をこすって顔を上げる。
 
「可欣って、どんな妖精?」

 若水が問うてくる。

「どんな……?」

 小黒は腕を組んだ。小黒は彼女ら/彼らのことには詳しくない。なにせ、共に過ごしたのはたった一晩だ。翌朝に無限が乗り込んできて、小黒は彼女ら/彼らとは別行動になった。再会は出来たけれど、すぐに意識を失う羽目になったのでろくに話せてもいない。
 短い時間しか一緒にいなかった。交わした言葉も決して多くない。

「あんまり、分からない」

 小黒は正直だった。若水が首を傾ける。

「そうなの?」
「一緒にいたの、少しだけだから」
「ああ、それは確かに」
「優しいってことは、分かるけど。あとよく笑ってたよ。会話が好きみたいだった」
「そっか。明るい妖精なのね」
「うん」

 優しい、明るい、という評価は間違っていないだろう。可欣は洛竹(ロジュ)と一緒に笑って、天虎(テンフー)と肉を焼き、虚淮(シューファイ)の髪をすき、風息(フーシー)と並んで歩き。念力で空を飛び、小黒に島を見せてくれた。
 「今はここしか住処がないの」その言葉には、少しの憂いがあった。
 島での一夜を思い出していると、若水が「そっか」と相槌を重ねる。

「どうしたの? 若水から見て、可欣は優しくない?」
「こわい、かなあ。わたし、可欣と話したのってこの一件があってからなの。話には聞いてたけど会ったこともなくて。初めて見たのが、無限様や哪吒(ナタ)様と戦っているところだったから。空が炎と稲光とで明るくて……ぞっとしたの」

 それは確かに<優しい>という印象を抱けなさそうだ。無限は言わずもがな、哪吒も相当な腕だと聞いている。
 領界の中でも、可欣は強かった。金属やガラスを溶かすほどの炎を自在に操り、おそらく本気で小黒と無限を排除しようとしていた。
 それでも小黒にとって可欣は優しい妖精だ。本気で向かってきたけれど、あの優しい夜があったから。

「それだけ、やりたかったことなんだと思う」
「そうね。でも、どうしてなのかしら。館の妖精はみんな言っているわ」
「森に帰りたかったんじゃないの?」
「可欣、前は執行人だったこともあるんだって」
「そうなの?!」
「どうしてこんな無謀をしたのかみんな分からないのよ」

 小黒は若水と一緒に首を傾けた。
 執行人の仕事は――無限は「使い走り」という表現をしていたが――妖精と人間がともに暮らせるようにする重要な役目だ。傷ついたり行き場を失った妖精を保護し、ときには拘束して人間を守る、秩序の仕事だ。可欣が執行人だったというなら、人間の暮らしにも理解があるのだろう。なぜ、ここまで大きなことをするほど人間を嫌いになってしまったのだろうか。
 そうだ、と小黒は手を叩いた。同時に若水も手を叩いていた。

「姿を隠して暮らすのが嫌だったのかな」
「それだけ風息のことが大好きだったのかな」

 全く別の発言をして、互いに怪訝な顔をする。

「可欣、人間と対等じゃないのに<共存>って言うのが嫌だって言ってたから。執行人として動く中で、共存に疑問を持ったのかなあ」
「わたしは、風息の望みを叶えてあげたかったのかなって。風息と出会って、変わったのかなあ」

 互いの言葉に納得もして、ふたり揃って「ああ」と声をもらす。
 
「どっちだろう」
「両方かも」
「聞いたら教えてくれるかな」
「また泣いてしまうかもしれないわ」
「それは嫌だなあ」

 泣かせてしまうのは嫌だ。笑顔の印象が強い可欣が泣いているのは、とても悲しい。
 可欣の涙を思い出すと小黒もつられそうになり、また目をこすった。
 どうして可欣はあんなにも泣いたのだろうか。
 作戦を小黒と無限が叩き潰して悔しいということはもちろん、風息と言葉を交わせなくなって寂しいのもあるだろう。理由はいくつか思いつくが、それがすべて涙につながるとは思えないのが正直なところだ。いっそ、怒ってくれたほうが分かりやすかった。
 洛竹なら、天虎なら、虚淮なら――風息なら、可欣の涙の理由が分かるだろうか。

「風息……」

 ねえ、風息。可欣が泣いてるんだ。目が溶けそうなほど泣いてたんだ。今も、泣いているかもしれない。どうしたら泣き止んでくれるかな。あの夜みたいに、楽しそうに話してくれるかな。
 小黒が膝を抱えてしまうと、若水が呟いた。

「わたしも、可欣の涙の理由は分からないけど」
「うん」
「この木が、森が、ビルからあふれた枝が、風息の願いなのだとしたら。それをずっと間近で感じていたんだとしたら、気持ちのおさまりがつかないのかも」
「うん」
「怒りじゃなくて涙になるのは、感情の矛先が妖精館(わたしたち)じゃなくて風息だからなのかなって。ずっと、風息を想ってるのかなって」
「うん」
「……小黒、泣いてるの?」
「泣いてないよ!」

 ず、と鼻水をすする。まだ泣いていない。

「ぼくは、ずっと泣いてちゃいけないから」

 小黒は選んだのだ。風息ではなく館のやり方を選んだ。風息の強硬手段は間違っていると正面から否定した。
 考える時間が無かったとか、まだ妖精と人間との関係が分かっていないからとか、言い訳は出来ない。後悔もしていない。何度同じ問題に直面しても、同じ答えを出すだろう。
 小黒は選んだから。この選択を間違いではなかったと証明しなければならない。

「風息たちに『人間と妖精の関係は悪くないよ』って、ちゃんと見せないと」

 まだまだ分からないことばかりだけれど、時間は十分ある。最高の師父もついている。若水をはじめ、仲間もできた。
 優しい妖精の慟哭が笑顔に変わるように。
 小黒こそ、笑顔を忘れてはいけないのだ。

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