牢は氷雲城と言う名だった。
一種の霊域で、許可なく誰も入れないずもちろん出れもしない。完全に外界から切り離された空間だ。必要なものは用意されるものの、どこに出かけたいだとか、誰々と話したいだとか、そういった自由は取り上げられる。<牢>なのだから、当然だ。
わたしは、無限とともにある牢を訪れた。
「虚淮(シューファイ)」
床に――霊域の地面に<床>という表現が適しているのかはともかく――座って目を閉じていた虚淮が、ゆるりと瞼を上げる。
「可欣か」
虚淮はわたしの後ろに立つ無限をちらりと確認したものの、そちらには特に言葉をかけなかった。
虚淮は疲れているようだった。元々活発なほうではないので傍目に見るといつも通りとも言えるが、目には鋭さがなくほんの少し猫背で髪も乱れたままだ。この孤独な空間で元気溌剌とするほうが異常なので、予想していた通りではあった。
自分もこうだったのだろうな、と虚淮を見る。立ったままも何なのでその場に座った。
虚淮は気怠そうにしながらも、受け答えははっきりしていた。
「久しぶりだな。生きた年数を考えると短いが、一緒にいたことを思えば」
「ええ、そうね。そうだ、お酒を持ってきたの。飲む?」
「今は……いや、いただこう。ここでひとりで飲んでもな。後ろのは?」
「いらないって言ってたわ」
お猪口と徳利を渡す。手酌で注ぎ、クセで乾杯しかけて顔を見合わせる。互いに少し苦い顔をして、そのまま口を付けた。
「よくここに来ることが許されたな。洛竹(ロジュ)たちとはもう会ったのか」
「さっき、風息に会いに行ったんだけど……気になることがあって、それを無限に聞いたら『虚淮に聞くといい』と言われたの。館長には、無限同席で面会の許可をもらったわ。……許可されると思っていなかったけれど、無限が言い出したことだからね。許可せざるを得なかったんじゃないかしら。だから、会えるのは虚淮だけよ」
虚淮はまたわたしの後ろを確認する。
「わたしに聞くこと?」
「どうして『可欣(わたし)を牢から出してやってくれ』と?」
「ああ……そのことか」
わたしは一時期、執行人として館に所属していた。従って、顔見知りの妖精も多く仕組みも理解している。元執行人がこれだけの騒ぎを起こして、数日で牢から出るなどあるわけがない。むしろ一番長く罰せられてもおかしくない。
館長は理由を教えてくれなかった。他に知っていそうな妖精と言えば、わたしの外出を監視する無限くらいしか思い当たらない。そこで問い詰めたところ、虚淮の名前が出た。
何か取引でもしたのかと慌てたが、そういった訳でもなさそうだったので、こうして酒を持ち込んで話を聞くことにしたのだ。
「余計な世話だったか?」
虚淮は、空になったわたしのお猪口に酒を注いだ。
「そうじゃないわ。けど、何故と思うでしょう。虚淮が一番、風息との付き合いが長いわ。会いたいはずでしょう。わたしなんかじゃなく、あなた自身が」
「可欣は風息に会いたくなかった?」
「そういうことを言っているんじゃなくて」
「冗談だ」
虚淮が視線を落とした。手元を見ているようで、どこにも焦点があっていない。あの長かった夜を見ているのかもしれない。
わたしは急かすことはせず、静かに待った。
虚淮が口を閉じている時間は、思っていたより短かった。
「わたしも、もちろん会いに行きたいとは思っている。みんなそうだろう」
「ええ」
「しかし、可欣には早く会いに行ってやってほしかった」
「あなたが、じゃなくて?」
「風息のために、会いに行ってやってほしかったんだ」
思い当たることがない。虚淮の言わんとしていることが察せられない。
困惑しているわたしを見て、虚淮はつらつらと独り言のように続けた。
「作戦の実行にあたって、後ろのと可欣の衝突が避けられないことは分かっていた。避けられないどころか、ぶつける必要があった。風息も後ろのと対峙するための準備はしていたが、可欣の立ち位置は動かせない。属性の問題もあるし、お前は強いし……友であるお前が出れば後ろのも躊躇いが出るだろうと、そういう思惑もあった」
「それをわたしは了承したわ。風息は気にしていたの?」
「気にしていない訳がない。可欣、お前は作戦に賛同してくれたが、龍游(りゅうゆう)はお前の故郷ではない。けれど、巻き込まれてくれた。……妖精の未来のために、風息の願いを叶えようと必死になって、すべてを賭けてくれた。最初に解放されるなら、可欣であるべきだと思った」
「……」
「風息は、巻き込まれて友と殺し合う羽目になるお前のことを心配していた。それに……わたしが言っていいことか分からないが、風息は、とても可欣を大事に想っていたんだよ。だから、会いに行って……そばにいてやって欲しかったんだ」
木の葉のこすれるしゃらしゃらとした音が聞こえた気がして、急に視界がゆがむ。頬を涙が伝うのを感じ、酒を置いて指先で涙をぬぐう。
可欣、と優しい虚淮の声がして、また涙があふれた。
「わたし、みんなに恨まれているかと思ったの。わたしがもっとうまくやれば……無限と哪吒(ナタ)様を無力化出来ていれば、こんなことにはならなかったのに」
「恨むなど、出来るはずがないだろう。誰のせいでもない」
「風息は静かに叫んで、風になってしまったわ。その瞬間を見て、わたし、どうして力になってあげられなかったんだろうって」
「十分、寄り添っていたよ」
「風息に合わせる顔がなかったけど、近くにいたくて。声が聞こえてる気がしたの」
「会いに行ってくれてありがとう」
「どうしていいか分からなくなって」
「一緒に考えればいいさ」
虚淮の冷たい指先がわたしの涙を拭う。わずかな水は宙を泳ぐ魚になって、牢の中を泳ぎ回る。制限されていてこのくらいしかできないのだと、虚淮は少し笑っていた。
「可欣は優しすぎる。あんまり泣くと、風息が心配してしまうよ」
虚淮がわたしの頭を撫でで、そのまま引き寄せてくる。「汚れちゃうわ」「構わない」虚淮の肩にすり寄ると、虚淮はわたしの背をあやすように叩いた。
一体どうすれば、妖精は妖精として生きられるのだろう。人間に脅かされることなく暮らせるのだろう。
故郷を求めて迷子になる妖精を減らすために、わたしに何ができるのだろう。
*
虚淮は先に可欣を戻らせて、無限と向き合っていた。ふたりになることは不可能かと思ったが、館の限られた範囲で行動を許されている可欣は、館にひとりでいることは問題がないらしい。無限は、今回はあくまで虚淮との面会のために同席しただけのようだった。
可欣は泣きながら虚淮の髪を丁寧にすいて、名残惜しそうに牢を出ていった。
無限は牢に入ってきたときと変わらず、手を後ろに組んで立っている。
「わたしが訴えたとて、そうすぐに可欣が牢を出ることはないと思っていた。お前のおかげだろうか」
「さあ」
「やけに構うのだな。別に、詮索するつもりはないが」
虚淮は、無限とほとんど関わりがない。風息と可欣から話を聞くくらいで、その人となりはつかめていない。ただ、ほとんど分からない状態でも、なにかひとつのことに執着するような人間味のある存在だとは思っていなかった。
友人、と言うものの、果たしてその言葉でおさまるのかどうか。付き合いが長いからかもしれないが、ただの友人のひとりにも思えなかった。
「わたしに話とは?」
「可欣の件の礼だ」
「そうか。なら、わたしももう戻るとする」
「可欣はあんなに泣いているのか」
さっさと牢を出ようとしていた無限が動きを止める。
「……わたしの知る限り、三度目だ。毎回、涙が枯れるのではと思うほど泣いている」
「そんなにか」
「そんなにだ」
無限が頷く。
可欣は泣き虫ではない。それは<根が明るいから>というだけではなく、長く生きている故に、感情の制御に長けているためだ。自分しかり、目の前の無限しかり、自我を持って長いと何事も一歩引きがちになる。プラスの感情はともかくマイナスなものに関しては、こころを守ることにも慣れていく。
「……お前にとっての逆鱗が小黒(シャオヘイ)で。可欣にとってのそれが風息だったのかもしれないな」
小さな魚が無限のほうへ泳いでいく。
無限は魚を目で追いながら、どこか驚いたように言った。
「今気づいたような口ぶりだが……そんな様子はなかったのか?」
「可欣は、誰かを特別扱いはしないだろう」
「……。そうだな」
「自分がそれに値するとでも?」
「言いがかりだ、違うよ」
虚淮は指先で魚を呼んだ。詮索しないと言ったのは本心だ、追及する気はなかった。
「風息と仲が良かったのは、もちろんだ。風息が気にかけていたのも知っている。わたしにとっても大事な仲間だ。……ただ、可欣があそこまで取り乱すとは思わなかった。少し寂しそうに、酒を飲むかと思ったんだ」
「……」
「お前が可欣を妙に気遣っているのは、あまりにも泣くからか」
「それもある」
含みのある返答だが流した。
「ありがたい、と思う。お前にとっては、可欣は館を裏切ったようなものだろう。……都合の良いことを言っている自覚はあるが、責め立てないでくれて良かった」
「可欣は浅慮ではない。きっと風息も、みんながそうだろう。決して正しい手段だとは思わないが、そこまで追い詰められていたということに、我々は気づくべきだったんだ」
「……」
「わたしは、守れなかったんだよ。小黒の能力も、可欣のこころも、風息の願いも……守ってやらなければいけなかったのに」
無限は視線を落としている。本心からの言葉だということはなんとなく分かった。
虚淮は、指先をすいと動かした。肩を濡らした可欣の涙が水滴になって宙に浮かぶ。それを小さな魚のかたちにして、一匹と一緒に牢の中を泳がせた。
「無限、余計なものまで背負うな。妖精の未来はお前ひとりで背負えるものではない。それに、風息の願いはわたしたちのものだ」
「余計なものでは」
「長く生きた分、ただでさえ背負うものが多くなるんだ。降ろせるものは降ろせ。背負えるだけにしておけ。人間も妖精も、背中は案外小さくて、手は届かないものだ」
「……わたしを気遣っているのか?」
「わたしが気にしているのはお前じゃなくて可欣だ」
可欣が頼れる存在として真っ先に無限が浮かんでしまうことが、あまり癪だと思わないのは、可欣が無限を信用していると既に知っているからだ。戦いになる前から、知っているからだ。
無限が可欣をまだ仲間だと考えていることに安心することが、どれだけ勝手か分かっている。
「可欣を頼む」
直球で伝えると、無限が澄まし顔に驚きをにじませた。すぐに微笑を浮かべて頷く。
「ああ、もちろん」
「ならいい。もう行け」
「……冷静だな、お前は」
「馬鹿を言うな」
即答すると、無限は一瞬何か言いたげにしたものの口を閉じた。
長くともにいたかけがえのない仲間を失って、心穏やかな訳がない。二百年一緒にいたのだ。小さな頃から、ずっと一緒だったのだ。木になり風になった風息の思いを考え続けている。これからどうすればいいのか、虚淮にも分からない。
冷静を装えるのは、自分が年長であり、まだ仲間がいるからだ。ここで自分が挫けては、風息の成したかったことが完全に消えてしまう。それだけは御免だ。これほどの強行は出来ないにしても、考え続けなければならない。あの夜に意味があったことを証明しなければならない。
可欣も同じ側だと思っていた分、彼女の様子には驚いたのだ。
共存に疑問を持っていることは知っているが、執行人として館に所属出来る程度には割り切れるはずだ。それでいて強引な作戦に乗ったのは、風息の追い詰められ方を間近で見たからに他ならない。妖精の未来を考えているのはもちろんだが、風息というたったひとりの郷愁を尊重していた。
可欣は、風息の願いを不本意な形で叶えたことを、こころが壊れかねないほどに悔いている。ともに戦った自分たちが手を握ってやりたいところだが、残念ながら、自由に会える状態ではない。
風息を止めれば良かっただろうか、と思ったこともある。けれど、止めろと言って立ち止まれる余裕は風息にはもうなかったのだ。可欣も気付いていた。
長く生きたくせに、可欣は優しすぎるのだ。風息も優しすぎたのだ。そうして追い詰められていく。
「無限。お前も優しいな」
「虚淮も」
虚淮は、仲間を思い浮かべて口角を上げた。洛竹たちも、泣いていないといいのだが。