燭台切光忠

 とある本丸で顕現した燭台切光忠が見たのは、はらはらと散る桜。霊力が可視化しているだけのそれは、地面に落ちると同時に消えていく。花びらの向こう側では、表情なく佇(たたず)む男。自分と同じ刀剣であることを感知して、もうひとつの存在へ視線を向けた。
 和室の一面がガラス張りになっており、中は水で満ちている。奥行きはそうないが、部屋の一面の水槽は、中々の迫力だった。その水槽のなかに、彼女はいた。
 簡単に折れてしまいそうな細い腰から下、なだらかな曲線を描いている。女性らしい曲線は色気がある以上に、神秘的で見惚れるほどだ。下肢は青い鱗が覆い、その一枚一枚が、動きにあわせて光を受ける。
 上半身は女人だが、下半身は魚のそれだ。およそ耳の位置にあるヒレがふわりと動き、作り物ではないと主張する。全身すっぽり水に浸る彼女は、もちろん苦しそうなどではなく、燭台切を見て満足そうに笑っている。
 燭台切は、己を編み上げた霊力が彼女のものだと理解した。
「僕は燭台切光忠。青銅の燭台だって切れるんだよ。……うーん、やっぱり格好つかないな」
 口上を述べると、彼女はくしゃりと笑う。無邪気なそれは活発そうで、水槽の中という環境は不釣り合いに見えた。
狭い水槽の中で、彼女は器用に踊る。ほとんど泡も立てずに、すいすいと体勢をかえる。彼女は燭台切と同じ目の高さで漂うと、その名を呼んだ。
大声を出したわけではない。彼女の声は、水を伝い、水槽を抜けて、屋内の空気を揺らしていた。言霊とはまた違う、何か力の籠った声だった。ぞわぞわと肌が粟立つ。
「燭台切、わたしがここの審神者だ。それは近侍にあたる刀、江雪左文字。今日くらいは、ゆっくりすればいい」
さっぱりとした物言いには拍子抜けした。今日くらいはな、と重ねて言われ首をひねるが、問いかけるよりも前に、新たな刃物(じんぶつ)が現れた。


部屋にやってきたのは、山姥切国広という刀だった。新しく顕現した刀に、本丸の案内をするために呼ばれていた、という。山姥切はさっさと燭台切を連れ出して、本丸の構造と役割を大まかに説明する。審神者の初期刀だという彼は、随分と説明に慣れていた。
てるてる坊主に続いて、本丸をすいすいと移動する。
「部屋は一部屋ずつ与えられる。あんたの部屋にはあとで案内する。厨(くりや)がこっち、風呂がそっち、手入れはあっちだ。馬小屋と畑は……まだいいだろう。食事は一日二回、二・三人でまわしているが、あんたはしばらく関係ない。そこの広間で食事をする。朝会や夕会で諸連絡があるから、食べなくても広間には来ておけ。あと……聞いたと思うが、近侍は江雪。これは基本固定だ。総隊長は俺が勤めている。質問は?」
「内番と部隊編成については? 僕はどこに入るんだい?」
「内番はあんたに関係ない。部隊は第三」
「……関係ないっていうのは?」
「あんたが折れなければ、その内説明する」
「折れなければって、随分と物騒だね」
「ただの事実だ。……ここにいる短刀は、初鍛刀で降りた五虎退以外、全員一度折れている。あんたも気を付けるんだな」
ちょうど、五虎退が庭で洗濯物を取り込んでいるところだった。燭台切と山姥切に気付いて、笑顔で頭を下げる。足元の子虎は、燭台切を見てふんすと鼻を鳴らしたように見えた。
「……山姥切くん、この本丸は」
「先に言っておくが」
「……」
「主は俺たちのことを、ただの刀として見ている。だから、練度が低ければ希少に関係なく、折れても良しとする。強くなれば、相応に大事にしてくれる。そういうひとだ」
山姥切が、フードの中から燭台切を見上げる。澄んだ空の目は、彼女とは違った青だ。温かみが見えない冷たい目、芯のある鋭利な眼差しだ。
山姥切国広という刀は、こんな目をする刀なのだろうか。薄汚れた布で全身を隠すような、内気な性質とは正反対だった。
「『名前に<切る>とあったから』――それが、俺が選ばれた理由だ。俺はただ主の刀としてここにいる」

      *

顕現(う)まれたての燭台切に与えられたのは、ただひたすらの出陣だった。ろくに刀を振らない内に、部隊の仲間が止(とど)めを刺してしまうので、全く格好がつかない。燭台切の仕事はといえば、ひたすら石をかわすことだった。
動けるようになれば実際に斬り込んだが、すぐに怪我をしてしまう。重傷でも目標を達成しなければ撤退はない。隊員いわく、内番に組み込まれる練度になっていれば、重傷撤退もあるそうだ。
手入れされ、回復した途端に出陣。燭台切以外の刀剣は時折入れ替わっていたので、顔合わせは十分行われた。休息も食事も許されてはいたが、最小限に留められた。


なんとか一つ出陣を終えた燭台切は、また出陣だろうと、門の近くから動かなかった。が、その日は事情が異なっていた。同じ部隊にいた刀剣によると、彼女が本丸を出るので、少しの間は出陣がないとのことだ。
ところで。
この本丸の池は大きい。燭台切は他の本丸を見たことはないが、この本丸は彼女のために池を大きくしたという話を聞いたことがある。
彼女の執務室兼私室――水槽――は、一部が納涼床のような構造になっている。執務室の出入りは特に制限されておらず、短刀のいい遊び場になっている。床で酒盛りをする刀剣までいるのだ。
燭台切はまだ顕現してから日が浅いので、全て聞いた話になる。燭台切の本丸入りが比較的遅く、本丸は既に賑やかで話題に事欠かないのだった。
その、本丸にある池。大きいとは言っても、海原とは比べるまでもない。彼女は、以前よりも遥かに行動範囲が狭くなっている。それはどうしたってストレスになり、彼女の霊力にも関わってくる。けれど政府に、審神者の任を解くという選択肢は存在しない。
妥協案として、定期的な帰省が認められているとのことだった。妥協案といいつつ、一般に帰省は――申請していくつかの規定をクリアすれば――認められており、政府が彼女を人間以下と認識していることは明らかであった。彼女は流動民で帰るべき故郷というものが存在しないので、とりあえず海で泳ぐ、というのがその内容になる。
刀剣男士は審神者のように、海の深い場所で活動できない。海水で本体が錆びるので、審神者が刀を持っていくこともできない。直前まで近侍が付き添うだけだ。
「じゃ、放流されてくる」
近侍の江雪左文字に抱えられ、彼女はキメ顔で言い放った。
本丸や刀剣、出陣や遠征などルーチンの都合で、二泊三日の帰省だ。本丸を丸々空けるのは一日だけである。皆寂しそうにしながらも見送っている中で、一振、一際苦しそうな顔をする刀がいた。
燭台切は、彼はこんなにもこじらせていたのかと内心驚いていた。出陣で一緒になったときは、刀然としていたのだが。
「主……お帰りをお待ちしておりますから……」
今生の別れかと見まごう悲壮さを浮かべ、へし切長谷部という名の刀が立ちすくむ。いつものことなのだろう、審神者は江雪に抱かれたまま嘆息する。
「はいはい。いつまでも待っててくれるんでしょ」
「ええ……迎えに来てくれるのであれば」
「ここが帰る場所なんだから、迎えにもなにもないでしょ。ちゃんと留守を守ってなさいな」
「はい」
長谷部が顕著だが、他の刀剣を見ていても、一振として彼女を嫌う刀はいないことが分かる。ひたすらの出陣は通過儀礼であり、はじめは戸惑う刀剣も、刀としての本分を存分に発揮するようになるのだ。燭台切もまさにそんな状況である。
それが審神者としてどうなのか、演練に出たことのない燭台切には分からない。この小さな閉ざされた本丸では審神者が全てであり、それに従う刀剣の意志が何よりの証明だ。
やや離れた位置で見守っていた燭台切の耳に「尚、ここまでテンプレである」という呟きが届く。いつのまにやら隣にいた鯰尾藤四郎は、微笑ましいものを見るような目をしていた。
「てんぷれ?」
「いつも通りってことですよ。主はちゃーんと帰ってきてくれるのに。……まあ、主はどこからどう見ても海にいるべき人ですから、そのまま海に帰っちゃいそうっていうのも分かるんですけどね」
鯰尾の言葉に同意する。海が近くになく、緑が多く設定されている本丸で、彼女の姿は浮いている。池で泳いでいるが、人魚といえば海の印象が強い。
燭台切は江雪の背中を眺めつつ、未だ目にしたことのない海を思い描く。本丸の池とは比較もできないほど広大な水溜まりだ。日の光がカーテンのように揺れ、様々な種類の魚が悠々と泳ぐ。
――上手く思い描けない。
想像が及ばない場所こそが彼女のあるべき場所なのだと思うと、心臓が冷えるような心地がした。


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