明石国行2

      *

 明石は自室の縁側から、水に足をつけていた。
 思考はひとを駄目にするのかもしれない。考え続けることは素晴らしいのだろうけれど、余計なことまで考えている気がする。考える間も、疑問を膨らませる間もない連続出陣は、案外理にかなっている可能性がある。
 何故誰も通報しないのだろう。逃げないのだろう。折れてもいいと言う審神者を慕うのだろう。
「この本丸、多分おかしいんやろな……」
 足を動かす。刀なので泳いだことはないし、錆びそうなのであまり泳ぎたくもない。元気の有り余っている刀はたまに泳いでいるけれど。
 本丸を巡る水は冷たい。冬はどうなってしまうのだろうとちらりと思ったが、寒さが厳しくない現世地域と環境を同期するか、そもそも季節を現世と同期させなければいい話だ。
 足で水をかき混ぜていると、ひたりと足首を掴まれた。とっさに足を引っ込める。青くなりながら水面を見つめると大きな黒目が現れた。
 明石は悲鳴を飲み込んだ。審神者だった。
「落とそうかと思ったのに」
「いややめてくれはります? 真面目におばけかと思いましたわ」
「おばけ怖いのか?」
「斬れへんもんは無理です。あと自分泳げへんし」
「そこはちゃんとわたしが支えて呼吸を確保させるつもりだったよ」
「気遣うとこおかしいで。まず落とさんといて」
「明石はボケに見せかけてツッコミだな」
 彼女は短く笑うと水に潜った。けらけらと笑う声が聞こえているので、水中ではしゃいでいるのだろう。明石もつられて少し笑う。
彼女は人間とは発声方法が異なり、喉で発声しているのではく間(あいだ)にあるものを震わせて声を届けているので、水中にいても水槽のガラスを挟んでも鮮明に声が届くのだという。おまけに聞いている個々によって聞こえている声質が違うらしい。
――あはは、はは、明石は会話のテンポがいいなあ。
 お気に召したのならばなによりである。
 明石は、引っ張り込まれないよう縁側の柱につかまりながら水面を足先で叩いた。何度か叩くと、呼ばれていることに気づいた彼女が顔を出す。明石が足を水につけたままでも、掴まれはしなかった。
「なに?」
 明石は固まった。何を聞くのか決めないまま呼んでしまっていた。
 気になっている事柄は明らかだが、それを本人に聞くというのは少々ハードルが高い。基本的に刀に対してドライな考え方をする彼女のことだ、一蹴されて終わりそうである。
 明石は頭をかいて視線を遠くに投げた。
「あー……この本丸って、元は普通やったんですか? 土的な意味で」
「普通だったよ。池は大きくしてもらってたけどね。本丸の中はボードで移動してた。大きいスケートボードみたいな」
「大改築ですやん」
「うち、刀集めは熱心じゃないから少ないほうだけど、戦績は結構良いんだよね。お金も溜まってたし、まだ一回も改築……増築? してなかったのもあって、思い切ったんだよ。あとは、そうだな、本丸いじりって霊力の問題もあるから」
「主はん、霊力貧乏とちゃうもんな。ちゃんと給料出てますけど、それでもこんな改築出来るほど貯蓄あるもんなん?」
「わたしがお金使わないから。あと、刀剣への給料も多分少ないほう。他本丸の刀と額の話をすることがたまにあるっぽいけど、誰も文句言わないから上げてない」
 明石は適当に相槌を打った。強制連続出陣は最初のみだが、この本丸は基本的に出陣が多い。刀剣男士が金を使わないのではなく、使う暇がほぼないのだ。あとは単純に物欲が少ない、ような気がする。明石はまだ他本丸刀剣との関わりが少ないのできちんと比較は出来ないが、明石自身も何かを欲しいとは思わないし、初めて給料が出た際に他の刀剣男士に使い道を聞いてみても「貯金」か「主への贈り物」くらいしか返答の種類が無かった。
「改築の話したら、貯金を渡してきた刀とかいたよ。ちょっと笑った」
 なるほど、そういうときのための貯金らしい。
「明石は給料どうすんの?」
「鯉でも買って本丸に……ここ淡水やんな?」
「うん。わたしは海水でも淡水でもどっちでも大丈夫だから。でも魚放すのはやめたほうがいいよ」
「なんで?」
「お腹空いたらわたしが食べるから。前の本丸では池に鯉がいたんだけどさ、何度か食べながら泳いでたらすっごい不評で」
「そらまあ……そやろな……。主はん、夢のある外見やから」
「だから、改築してからはわたししか泳いでないんだよ。水草もナシ。ちょっと殺風景だけど、水もあんまり汚れないから不満はないかな」
 明石は透き通った水を見下ろす。プレゼントに魚は喜ばれないらしい。死んだ魚を食卓に並べるならばともかく。
 見下ろす明石の視界に彼女が入った。明石の足の下に入り込んできたので慌てて水から上がる。いくらなんでも主人を足蹴には出来ない。彼女は明石の行動に気付いているのかいないのか、くるくると同じ場所で回っている。それでも水面はほとんど揺れない。この池は深く、彼女は静かに泳ぐのだ。
「……雑談には付き合ってくれるんやな」
 小さな発見だった。

      *

 この本丸で怠惰は許されない。だらだらしたいが許されない。
それでも明石国行は気怠い刀なので、許される範囲で怠けた。怠け続けないのは、刀剣破壊をちらつかせる物騒な審神者にとって、<刀解>という選択肢がさして重くないだろうと思われるからだ。明石は怠けたいだけであって、まだ刀を辞めたくはない。怠けられるだけ怠けて、働かなければならないときは最低限働いた。泳いでいる審神者を見かければ雑談もした。彼女は「魚が机仕事っておかしいだろ?」とたまにぼやく。親近感を抱いたりもした。
 そんな日々を過ごしながらも、なぜ誰も通報しないのかという疑問は解決しなかった。もしかしてこの本丸は本当はホワイト、とまではいかなくともグレー程度なのでは、と思ったりもした。
――いやそんなワケないよな。
明石は休養日に万屋街へ出かけ、ベンチに座る同位体にジャッジを委ねた。ふんわりと本丸運営方針を伝えると、「真っ黒やん」と返答された。
――せやな。
 明石は頷きながら本丸に戻った。
 ゲートをくぐると、何やら楽し気で賑やかな声が聞こえた。愛染の声が混じっていることに気づき、なんとなく足を向ける。政府施設行ゲートとは別の、時空間移動するためのゲートと本丸の建物をつなぐ橋の下(、、、)で、短刀と脇差合わせて六振が着衣水泳状態だった。審神者も混ざっている。
 面子を見て、夜戦部隊かと判断する。夜戦、と言いつつも本丸から時間移動して出陣するので、本丸時間/現世時間では昼夜問わず出陣している。逆に、夜戦ではない戦場に夜間出陣することもある。
軽傷の刀もいるので、帰還後そのまま遊んでいるのだろう。橋には鎧が放られていた。
 明石は欄干にもたれて苦笑する。愛染が手を振ってきたので振り返した。
「明石殿」
 文字を撫でるように、丁寧な声で呼ばれる。近侍の江雪左文字だ。
「どうも、近侍殿。いやあ、楽しそうやなあ」
「主の休憩時間は過ぎています」
「それで呼び戻しに? 仕事熱心やな」
「……何か愁(うれ)い事でも?」
「なんでです?」
「先ほどからため息を」
「いつから見てはったんですか」
「ついさっきですよ」
 江雪が控えめな声で審神者に呼び掛けるも、彼女は聞こえないふりで水に潜る。短刀と脇差の間を泳ぎ、毛利藤四郎を背に乗せてそのまま母屋のほうへと離れていく。
 明石は初めて見る光景に顔をひきつらせた。主の背に乗る刀がいるとは。ちらりと隣の江雪をうかがうと「ああ、審神者部屋のほうに向かったのですね」と彼女を見送っているだけで憤る様子はなかったので、珍しくないのかもしれない。
 橋の下では、何振かが彼女のあとをクロールで追いかけ、何振りかはそのまま残っていた。愛染は残った組だった。水に慣れている刀は、立ち泳ぎがやたら上手い。水深が深いので必須スキルなのだろう。
「……悩み事があるなら」
 江雪が言う。
「主はあれでいて、この本丸の責任者としての自覚はありますから、主に相談するのもいいと思います。人情味あふれる答えは期待出来ませんけれども」
「……いやあ、止めとこかなあ」
 疑問をぶつけて解決するのならば、明石が顕現するよりも前にこの本丸運営方針は変わっているだろう。今更、明石が問いかけたところで一体何の問題があるのかと首をかしげられる未来しか見えない。うまく言語化出来る気もしなかった。
 そういえば江雪左文字は強制出陣に対して苦言を呈したのだったな、と。愛染の言葉を思い出し、仕事に戻ろうとする江雪を引き留めた。
「この本丸は変やなあとか思わへんのですか?」
「思いますよ」
「主はんに言う?」
「言いました、最初に。そうしたら、主は『なら折れておいで』と」
「こっわ……。でも自分は折れんかったんやな」
「他の、中傷撤退が認められている刀に庇われたのが大きかったのでしょう。主はああでも、刀は進んで仲間を折ろうとはしませんから」
 明石も身に覚えがあったので相槌を打った。
「じゃあ、主はんへの好感度はマイナススタートやったんやろ。なんで近侍に?」
「出陣はあまり好きではないと言ったら、この役目を。元々、総隊長は初期刀の山姥切国広殿が固定で傍仕えは交代制でした。近侍も固定に、という話があったそうですよ。わたしで固定することに反対した刀もいましたが、主としては出陣嫌いのわたしを据えるのがちょうど良かったようです」
「でも自分、練度高ないです?」
「主は斬れない刀を傍には置きませんし、刀として認めもしませんから。わたしは連続出陣を延々続け、練度を上げてから近侍を賜りました。今は他の刀に比べて、各段に出陣は減っています」
「出陣嫌いやのに、出陣続けたんです?」
「ええ。そうです」
 本末転倒な気がしたが、江雪はきょとんとしていた。今、出陣が少ないから気にしていないのかもしれない。そういうものなのだろうか。
「憂慮の内容は近侍のことですか? 明石殿は近侍希望ということ……」
「ちゃいますちゃいます、頼まれたってやりたないです」
「ではなぜ、ああ、『この本丸は変』だとおっしゃってましたね」
「まあ、そういうことです。おかしいでしょ。なんで、強制連続出陣とか刀剣破壊とか起こっても、誰も主はんを非難せえへんのかなあって」
「何も思わないわけではありませんよ。わたしもそうですし」
「それでも、今もこんなんやん?」
「おかしいと分かっていても、それが主の方針だと納得してしまって……斬れない刀に意味はなく、武器である我々に人間的営みは不要で、主は斬れる刀を気にかけ愛刀と呼ぶ。これのどこに非難すべきところがあるのでしょうか」
 明石は頷きかけ、踏みとどまった。
「でも、『おかしい』とは思っとるんでしょう?」
「人間的基準に当てはめれば、そう思います。ですが、わたしは刀ですので」
「刀の付喪神に人権は不要やってことか」
「少なくとも、この本丸ではそうです」
「そやなあ……でも、みんなこんなに綺麗に染まってまうもん?」
「刀剣男士は少なからず、主の影響を受けているものです。顕現したときからどんどん主の霊力が溶け込み、主の考えも馴染みます。あなたもそうでしょう」
「影響されてたら、こんなこと気になったりせえへんのちゃいます?」
 半分笑って茶化しながら言うも、江雪はにこりともしない。明石は江雪が笑っているところをまだ見たことが無い。同派の前では笑うのだろうか。
 江雪は表情を変えないまま、首を横に振った。
「いいえ、明石殿。あなたも間違いなくこの本丸の刀ですよ」
「そらそうですけど」
「顕現した当初、本丸を案内しに来た山姥切殿が告げたでしょう。『今いる愛染国俊は二振目だが、そこそこ長いから分からないことは愛染にでも聞いたらいい』と」
「ああ、そんなこと言うてましたね」
「あなた、こう答えたでしょう。『そうします』と、ただ、それだけ」

ALICE+