08


 美夜を咬み吸血鬼として目覚めた零は、理事長に寮の部屋まで送られたものの、眠れないまま朝を迎えた。否、眠る気すら無かったのだ。制服のままベッドに仰向けになった体勢で、じっと天井を睨んでいるだけ。

「……」

 身体に、美夜の感触が残っている。牙には、柔らかい皮膚を突き破った感触が。舌には、夢中で啜った血の味が。頭には、彼女の香りが。そして再生される、「咬んで」と言った美夜の声と表情。

「……ばかだ」

 優姫を傷付けたくないのは、確かに美夜の言う通りだ。四年前に支えてくれた優姫は、家族のような、零自身の一部であるかのような存在なのだから。
 しかしだからと言って、美夜を傷付けて良いことになる訳がない。優姫と同じくらい、傷付けたくないのだ。

「ばかだ……」

 初めて美夜と会って食事をした時、放っておけない奴だと思った。迷子だったから、というだけではなく、どこか危なっかしいのだ。
 非常に分かりにくいが貼り付けたような笑顔に、彼女がどれだけ警戒心が強いのかを感じた。彼女が人見知りであると気付いている者は多いが、敵と味方を判別しているかの様な一歩引いた姿勢に気付いている者は、己だけではないだろうか。
 それでも最近は、自然な表情を見せるようになった。本人も言っていたように最初は零の前でだけだったが、優姫ともそう接せられるようになっている。
 見守ってやりたいと思ったんだ。自分に似た、何かを抱え背負っている彼女を。なのに、美夜を咬んで好きなだけ血を貪った自分が許せない。吸血鬼に堕ちた自分が憎い。
 堕ちた自分は、もうここに居られない。"大丈夫"だと繰り返していた美夜は、一体何を思っていたのだろう。
 零はゆっくりと体を起こし、窓の外に目をやった。まだ普通科の授業が始まるには早い時間だ。

「……っ」

 制服に染み込んだ美夜の血を見て苦し気に眉を寄せ、私的居住区のバスルームに向かった。





「……んん」

 瞼に白い光を感じて、美夜は寝転んだまま伸びをした。意味を成さない声を漏らしつつ、重い瞼を押し上げる。目を軽く擦って体を起こし、乱れた髪をかきあげた。

「朝……?」

 空がいつも起きる時間より明るい。しかし昼ではないようだ。どうしてこんなおかしな時間に起きているのかと疑問がよぎったが、首筋の痛みと体のだるさで思い出す。

「あー……お風呂」

 寝起きのために低い声で呟き、首の絆創膏に指をやる。枢に貼られたそれの下には、深い牙の跡があるのだろう。
 皆に話さねばならないことがある。理事長と零と優姫と枢に。その後、夜間部の他の生徒に伝わるのも構わない。その為に、少し頭の整理をしたかった。が、血が足りないせいかどうなのか、どうも上手くいかない。

「お風呂……入ろう」

 ソラを抱えて、そっと足をスリッパに入れて立ってみる。気分が悪くなることはなく、数歩歩いてみても大丈夫。
 よし、と小さく頷いて、ラフな私服を取り出してゆっくりと着替えた。いくら授業中とはいえ誰にも会わないとは限らないし、部屋着で外に出るのは抵抗がある。

「零も今日は欠席だよね……」

 風呂を済ませたら、零の所に行こう。彼のことだから、一人にしておくと変な事を考えそうで心配だ。そう決めて、美夜は荷物を小さい紙袋に入れて部屋を出た。





 入浴を済ませた美夜は一人、陽の寮の男子寮へ歩いていた。起きた時間も思ったより早かったようで、まだ十時前後。
 きっと落ち着かず、ゆっくり眠れなかったのだろう。夜間部の休みの日には――夜間部が休みでも普通科は授業の時が多い――放課後から翌朝まで眠っているのだから。

「……きつ」

 学園が広いと、建物の距離も必然的に広くなる。貧血の身には少々厳しかった。
 いつもより遅いペースで歩を進め、時折木にもたれて休憩をする。数度それを繰り返している内に湿っていた髪も乾いて風に揺れ、目的地に到着した。風紀委員を始めたお陰で、学園内で迷う事は無くなった。

「三階だったっけかなあ……」

 いつか優姫に聞いた事を思い出し、寮を見上げて一人ごちる。
 きょろ、と辺りに人の気配が無いか確認して、美夜は寮へ足を踏み入れた。女子が男子寮にいるのは問題だという自覚は十分にある。でも優姫は度々入っているらしいし、同じ風紀委員だから、と美夜は自己正当化を行った。
 緩慢ながらも三階まで上がった美夜は、息を整えてから廊下を歩き出した。
 部屋の場所はあまり自信がないので、一つ一つの部屋の気配を気にしつつ進む。すると、ドアが開いている一つの部屋を発見した。ちらりと部屋を覗いて、美夜は目を瞠った。
 持っていた紙袋を落とし、床を蹴って部屋に飛び込む。
 部屋にいたのは紛れもなく零その人だった。彼はベッドに腰掛け、[血薔薇の銃]を自らのこめかみに突き付けていたのだ。

「何してるの……っ」

 美夜は銃を握っている腕を押さえて銃口を下ろさせ、零を見下ろした。美夜が現れた事やその行動に表情を変えない零は、別に、と呟いて腕を下ろす。

「別にって……」

 腕を離した美夜は、ベッドに置かれた銃を見る。
 安全装置(セーフティ)外してるくせに。一人にしておくとおかしな事を考えるという美夜の予想は当たっていたらしい。
 <純血種>を除く吸血鬼は、頭か心臓を潰されれば滅ぶ。対吸血鬼用武器で頭か心臓を傷付ければ、<純血種>でさえ死に至る。その<純血種>すら滅ぼせる武器を構えておいて、何もない訳が無い。

「……死ぬつもりなの?」
「……」
「それから、これも」

 美夜はふらりと倒れそうなのを堪えながら、零の隣に横たわる荷物を指差した。

「出て行くつもりなの?」
「……ああ」

 右手を頭に当てて、奥歯をかみ締める。急に動いたからか、急速に気分が悪くなっていた。

「行かせない、からね……」

 何も言わずにいなくなるなんて冗談じゃない。優姫のことはどうするつもりなのだろう。彼女が深く悲しむことくらい、零ならば分かるはずだ。それすら考えられないほど、彼は吸血鬼であることに絶望しているのだろうか。

「……無理するな、美夜」

 零は美夜の言葉には答えず、軽く手を引いてベッドに腰掛けさせる。美夜は大人しく腰を下ろし、見上げる位置になった零の顔を見た。

「聞こえていただろう、お前にも。自分の血が俺に啜られる音が」

 零の手が、美夜の首筋に伸びる。下ろした髪で隠れた絆創膏に触れて、眉を寄せていた。美夜の頭に、夢中で血を貪っていた零の姿がよぎる。

「あんな身の毛のよだつ経験の後で、平気でいられるはずがない」

 だから無理するな、と零は僅かに口の端を上げた。絆創膏に触れたまま、口元だけが笑っている。自らを嘲るそれに、美夜は苦しさを覚えた。
 四年前に家族を殺され、純血種の牙を受けた彼にとって吸血鬼は憎しみの対象でしかない。零は、それに堕ちた自分と、美夜に牙を穿った自分が許せないのだろう。
 分かってる。零が、どんなに苦しんできたか。

「だったら、平気でいられる私は壊れてるのかな」
「……は?」
「私は吸血鬼が恐くないし、零が吸血鬼だって知ってたよ」

 零を恐れることはない。そもそも、優姫を守る為に自分を咬ませるように仕向けたのは美夜自身なのだ。零が自分を許せないのは仕方がないのかもしれない。だが、周りが許さないということではない。少なくとも、美夜は。
 夜の美夜の言動を思い出したらしく、零は驚きと疑問を露にした。

「私の話は後でするけど」

 今問われて話が逸れると困るので一応釘を刺しつつ、美夜は言葉を続ける。

「……だから、零が出て行こうとするなら私は全力で止める」
「……なぜだ」
「悲しむ人がいるからね」

 思い出して、優姫を。
 微笑んだ美夜は、優姫との絆が零をここに留める理由になると思って口にする。彼女は零を支え続けた、強くて優しい子だから。優姫を傷つけることを零は望んではいないのだ。優姫のために、ここにいてくれればいい。

「……お前は?」

 零の予想外の返し方に、美夜はきょとんと表情を無くした。零は探るような目をしながら、もう一度同じ言葉を投げかけてくる。

「お前は?」
「……私?」
「その悲しむ人の中に、お前はいるのか?」

 優姫を中心に考えている美夜にとって、思っても無い質問だった。予想された質問や出来事への対応は、どれだけ嘘であってもこなせるが、予想外の物への対応は、本心でなければ不自然さをなくすことは難しい。
 深く考えずに「いる」と答えれば丸く収まるかもしれないが、零はすぐに、それが本心か即席の答えかに気付くだろう。

「私、は……」

 美夜は何より大切な人の為に、優姫を守っている。そしてその優姫は零を大事にしている。だから優姫の為に美夜も零を大事にする。
 それだけじゃ、なかったっけ。
 優姫と一緒に過ごして楽しかったのは事実。零に「作り笑いをするな」と言われて、どこか嬉しく感じたのも事実。どうして、楽しさや嬉しさを感じたのだろう。ただ"対象"としてしか見ていなかったなら、そんな風には思わない。

「優姫も……零も。私にとって、大事な人になってたの」

 零がいなくなったら、きっととても悲しい。優姫が悲しむから、というだけでなく、ちゃんと本当の笑顔を見分けてくれた人がいなくなることが。自身の理解者を失うことは、とても悲しいから。

「……私、零のこと大事だよ。だから、いなくなるのは、辛い」

 話していて、じわりと目頭が熱くなるのを感じた。涙が零れることはないように堪えるが、そのせいで声が震える。まっすぐに見つめる零の目が、どこか柔らかい物になった。
 失うことが辛いなんて、かぞくになってくれたあの人に対してだけだと思ったのに。

「ね……行かないでよ、零。ここにいてよ。……私、もう失いたくないよ」

 家族は、ずっと前に殺された。かぞくは、動けなくなった。失ったわけではないけれど、傍にはいられなくなった。大切な存在との別離がどれ程辛く、苦しいものであるかを、美夜はよく知っている。

「もう、何も失いたくないの……お願いだから、ここにいて」

 たとえ、ここが偽りの箱庭でも。
 俯いて涙を堪えていると、身体が温かいものに包まれる。体調の優れない美夜を気遣ってか、柔らかい抱擁だった。美夜は驚きながらも、今はそれが離れていくのがただ恐くて、広い背中に手を回した。
 この温かさが無くなることが恐かった。ただその一心で、美夜はうわ言の様に口にする。

「お願い、お願いだから……いなくならないで。優姫も、零も、私がちゃんと守るから……」
「分かった……分かったから。俺は行かないから」
「ちゃんと守るから。私、もう、失うのは嫌なの……」

 幼い子供にするように、零が抱きしめたまま頭を撫でてくれた。零は、ここにいるから、と繰り返して泣きそうな美夜を落ち着かせる。
 彼も、多くを失っているのだ。美夜の思うことが伝わるのだろう。

「……俺は、お前の傍にいるから」

 零が耳元で静かに言った。その言葉が嘘では無いと思えた美夜は、緊張が一気に緩むのを感じた。
 守るのは、優姫だけじゃなくて零も。それは紛れも無い、美夜自身の意思だった。大切なカゾクの為でもあるが、確かに、美夜の意思も存在しているのだ。

「ほんとう……?」
「ああ、本当だ。だから、安心しろ」

 ただでさえ寝不足で、その上貧血。零の言葉と温かさに安堵した美夜は、零の腕の中で眠りに落ちた。




「えーっと……?」
「……なんだ」

 学校に来ない零を心配して授業をすっぽかした優姫は、零の部屋に入ったところで固まった。
 大きな荷物が目に入って、零が出て行くのではと焦ったが、当の零の様子を見て首をかしげる。

「出て行きはしないって思っていい?」

 ラフな格好をした零は、ベッドに腰掛けて嘆息し、短く肯定する。とても、今から外出するようには見えなかった。まあ、出て行くつもりなら上着くらい着るだろうし、引き止めるであろう優姫を見て多少気まずい顔をしてもよさそうなものだ。
 ほっと胸を撫で下ろした優姫は、部屋のテーブルに置かれた紙袋――薄いピンクで水玉模様――に目を奪われた。
 あれは零の私物?
 零自身の趣味なら――四年一緒にいて気付かなかったということか――無闇に指摘するわけにはいかない。優姫が腕を組んで真剣に考え込んでいると、疑問を察したらしい零が

「俺のじゃないからな」

 と呆れ声で呟いた。そうだよね、と優姫は内心安心しつつ、では誰のものかと再び首をかしげる。そしてふと、零の腰掛けるベッドが膨らんでいることに気が付いた。

「誰……?」

 零が止めないので、そうっとベッドに近付いてみる。目に入ったのは、ベッドに散らばる柔らかそうな茶色の髪。その髪で顔が半ば隠れているが、眠っているのはよく知った顔だった。

「え、美夜……?」

 起こさないように小声で名を呼んだ。確認するまでも無く、美夜本人だった。
 優姫は、昨夜零に咬まれそうになったとか、零が吸血鬼だったとか、美夜がそれを知っていたとか、心底驚いたことを頭の片隅に置いて、今の状況の整理を始める。
 置かれた零の荷物。「出て行かないのか」と確認したときの零の様子。そして今日欠席している美夜が眠っていること。すぐにそれが繋がった優姫は、ああ、と小さく笑って零を見た。

「美夜が引き止めたんだね、零」
「……ああ」
「良かった……」

 零は笑う優姫から視線を逸らし、寝息を立てる美夜を見つめた。
 彼女を見つめる優しいそれに、優姫は安堵する。吸血鬼であっても、零は零だ。ちょっと口が悪くて、眉間に皺を刻んで、でもちゃんと優しい。それが嬉しかった。

「……寝不足と貧血なのに俺のとこに来るから、こいつは」
「零を引き止めてくれたんだね。私の出番は無かったかぁ」

 零にいなくなってほしくないもの、と呟いて、優姫もベッドに腰を下ろす。授業中はもちろん、人前で眠ることの無い美夜が折角眠っているのを起こさないように、静かに座る。

「……こいつが、言ってたんだが」
「美夜が?」
「自分が、俺やお前を守るから、いなくならないで欲しいって」
「え?」

 いまいち意味が掴めずに首をかしげる。しかし言われてみれば、確かに美夜には守られているように思った。咬まれそうになったのを二度も助けられたし、補習の時にはノートを見せてくれるし、出待ち中に転びそうになったら駆けつけて支えてくれるのだ。

「あと……俺も優姫も大事だって言ってた。大事だから、守るから、失いたくないって……泣くかと思った」

 ぽつりと言う零の言葉に、優姫は少々驚いた。優姫の知っている美夜は、多少抜けているところはあるが、誰にでも優しい頼れる存在で、涙のイメージはあまりないのだ。
 もしかして美夜は、全てを抱え込んで、人に頼ることを知らないのか。彼女の境遇からすれば、納得できないことではない。

「そっか」

 そんな彼女が零に本音を漏らしたのだとすれば、それはとても嬉しい。零を信頼してのことだから。優姫は、自分でないのが残念ではあったが、大事だと思ってくれるならその内頼ってくれるだろうと微笑んだ。

「……可愛いよね、美夜は」

 無防備に眠る美夜は、一体どんな夢を見ているのだろうか。
 泣きそうだったらしい彼女は、零が出て行かないと分かって、本当に安心したのだろう。そうでなければ、そのまま眠るようなことはしない。美夜の警戒心が決して薄っぺらい物ではないと、優姫はちゃんと知っていた。

「……そうだな」
「あ、認めるんだ」
「うるせ」

 悪戯に笑うと、零は顔を背ける。彼が照れているのか拗ねているのかの判断は難しいが、美夜を大切に思っているのは確かなようだ。

「じゃ、私は授業に戻るね」
「ああ」

 優姫は軽い足取りで、零の部屋を後にした。



 先生から説教を頂いたのは、言うまでも無いが。

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