09
「本当にもう大丈夫なの?美夜」
「今日も休めば良かっただろ」
心配そうに顔を覗き込んでくる優姫と後ろを歩く零に笑いかける。
「大丈夫だよ。……結局夕方まで零のベッド占領してたし」
「だからそれは気にすんなって」
零を引き止めることに成功して眠ってしまった美夜が目覚めたのは、夕方の六時を過ぎた頃だった。人のベッドで、しかも人前で眠ったことに慌てたのは記憶に新しい。
まだ激しい運動は遠慮したいが、かなり回復している。それに二日連続で欠席するのも気が引けるので、出席することにしたのだ。そして優姫が理事長に用があるらしいので、一講目の始まる前に三人で理事長室へと向かっている。
二人とも大事。だから守ると決めた。私情を挟む事を拒んでいたのは確かだが、結果として守る事に変わりはないと開き直っている。
美夜に合わせてゆっくり歩いてくれる二人に感謝しながら、理事長のドアに手をかけた。
「おはよう!良い所に来たね!」
ガチャリと開くと、途端溢れ出すのは無駄に明るい空気と声。
「錐生くんの夜間部の制服だよ!!」
ハンガーが付いたままの真っ新な白い制服を持つ理事長が、「似合うかな?!」と意見を求めて来る。零が入り口で固まってしまった美夜と優姫をすり抜け、小気味良いビンタを繰り出した。
「出てく!」
涙目で頬をさする理事長を置いて出て行こうとする零を、優姫が理事長を非難しながら慌てて引き止める。
「理事長っ!」
「ちょ、一応言わせてよ!ボク理事長だから立場上さあっ!」
「理事長って地雷踏むの上手ですよね」
「不本意だよ……?」
理事長の言いたいことも分かるが、零の神経を逆撫ですると分かっているならせめてハイテンションは自重するべきだと美夜は苦笑する。
まあ二人とも元気になったみたいで良かったよ、と微笑む理事長は流石である。打たれ慣れているのだろうか。美夜は理事長の首に巻きつく動物にふと気がついて、そのつぶらな瞳を見つめた。
「さて優姫……言いたいことがあるんだろ」
一気に雰囲気を引き締めた理事長に、優姫が遠慮がちに、だがはっきりと口を開く。
「零がもう今までと同じでいられないことは分かってます。……でも、私が零を夜間部には行かせません――――絶対に」
強い優姫の言葉に、美夜は微笑んだ。
「私もです。零が嫌がることはしたくない」
「まあ……二人の力を借りてでも、錐生くんは守護係として必要だし」
理事長は頭をかいて呟き、ポケットから一つのシルバーのブレスレットを取り出した。優姫と零が首を捻る横で、美夜は一瞬顔をしかめる。
「問題は優姫か美夜ちゃんかどっちにしてもらうかなんだけど……」
うーん、とブレスレットを見ながら唸る理事長に、美夜はきっぱりと断った。
模様の入ったひし形の飾りに細いチェーンのついたそれは、何も知らないならばただのシルバーアクセサリーだが、良く知っている美夜はそうもいかない。
「……私、それいいです。優姫に渡して下さい」
「え、これも知ってるのかい?」
「まあ……」
頷き、乾いた笑みを漏らす。しかし美夜がそう言っても、理事長はどちらに持たせるべきか迷っているらしい。優姫に渡そうとしたものの、腕を引っ込めてしまった。
「私、本当にこれ嫌いなんです」
正直に言えば、優姫にも持たせたくはない。このブレスレットによって行う行為が嫌いだから。優姫にさせたくないことは引き受けるのが常だが、他の吸血鬼との関わりがあることを示す事にもなるこのブレスレットの使用は避けたかった。
「確かに、気持ちのいいことではないよね」
「お願いします。本当に嫌なんです」
小さく頭を下げて、半歩後ろに下がる。意地でも受けとってたまるか、そんな心境が伝わったのか、理事長は優姫にブレスレットを差し出した。
戸惑うのは優姫と零だ。美夜の嫌がりようから、それがただのブレスレットで無いと気付いてしまっている。果たして受け取っていいものか、と優姫の険しい表情が語っていた。
「さ、これを付けなさい」
「う……うん」
美夜は内心謝罪しながら、恐々とブレスレットを装着する優姫を見守った。
「あれ、この模様……」
優姫がブレスレットの飾りへの違和感に首を傾げた。行儀悪くもデスクの上に正座した理事長が零にナイフを渡すのを視界の隅で捉えながら、美夜は優姫に話し掛ける。
「そ。零の首にある刺青と一緒だよ」
「なんなの?これ」
「"飼い慣らし"……って呼ばれてるみたいだね」
ピンとこないそれに、優姫はさらに首を捻る。
美夜はもう少し説明しようかと言葉を発しかけたが、見た方が理解し易いだろう、と笑って濁した。
眼鏡の奥を光らせた理事長が、ブレスレットをした優姫の腕と、ナイフで指に傷の付いた零の腕を掴んで引き寄せ、そのブレスレットの飾りに零の血を数滴落とす。
「……何を」
「した……?」
優姫の言葉を零が引き継ぎ、怪訝な目で理事長を見る。落とされた血はブレスレットに吸収され、もう残ってはいなかった。零の指先の傷も塞がっている。
理事長は答えず、今度は優姫の腕を零の首へと持っていった。彼の襟元を引いて刺青を露にし、そこへブレスレットをあてがう。
刺青が僅かに発光し、ジリ、と電気が走ったような音がした。途端、ブレスレットから黒い影の様なものが溢れる。それは空中で四本の短剣を形成し、重い音を立てて零を床に張り付けてしまう。
「ぜ、零っ?!」
「大丈夫だよ、優姫。動けないだけだから」
零は体を床に叩きつけられた衝撃と起こった事の理解に苦しんで顔を顰めているだけで、影の短剣が突き刺さって痛い、という訳ではない。ほんの数秒の出来事に呆気に取られる優姫と零に、何時の間にかデスクから下りた理事長が口を開いた。
「ハンターに受け継がれてきた、吸血鬼を"飼い慣らす"為の秘密の術式なんだ……」
吸血鬼に施された刺青とブレスレットで対を成す。刺青はそれ自体で吸血鬼化を抑える効果もあるが、吸血鬼として目覚めてしまった今はこのような使い方をするのだと、そう理事長は説明した。
美夜はどこか苦い表情をしながら零の傍で正座した。眉を寄せる顔に手を伸ばして、その髪を弄ぶ。
「零のことを、夜間部・普通科両生徒にばれないようにすること……これが、零を普通科におく条件だ」
本当はこんな事したくなかったけど、と理事長が眼鏡の位置を直しながら呟く。美夜にされるがまま髪を遊ばれている零は、どこか遠くを見てそれに返した。
「いいですよ、これで……」
美夜は手を引っ込めて、神妙な面持ちで立つ優姫を見上げた。彼女はブレスレットに反対の手を添えて、零を拘束する短剣を見つめている。
「じっとしてると、すぐに動けるようになるよ」
「あ、うん」
するとおもむろに屈んだ理事長が、何を思ったか自身の首元を寛げる。顔が赤く見えるのは、美夜の錯覚だろうか。重い空気に耐えられなくなったのだろうか、思いも寄らない事を口走った。
「錐生くん、どーしても血がガブ飲みしたくなったら僕のを――――」
しかし理事長が言い終わるより先に、短剣は空気に溶けるように消滅し、自由を取り戻した零が理事長を殴って伏せさせる。
「セクハラ受けてる気分だ!」
また理事長に殴りかかりそうな零を優姫が押さえ、何とか宥める。理事長はわざと零を怒らせているのかと思える行為に、美夜は床に伏せた理事長を見た。
「あ、理事長」
美夜は、自分も理事長に用があったのだと、あたかも今思い出したかのような声を出す。正座したまま理事長へ向き直り、至って変わらない口調で言った。
「私のこと、ちゃんと話したいんですけど……理事長と優姫と零と、枢さんに」
急に真剣な表情に戻った理事長は、そうだね、と倒れたまま微かに笑う。美夜が切り出すのを待っていたのだろうか。
「じゃあ今夜……風紀委員の夜の見回りは早目に終わっいいよ。枢くんにサボってもらうね」
寮長でもありクラス委員長でもある枢を理事長がサボらせることに若干の疑問はあるが、まあいいとしよう。
「ありがとうございます」
小さく頭を下げて立ち上がると、落ち着いた零に軽く頭を撫でられた。
理事長に用がある――あまり聞かれたくない類らしい――零を残し、優姫と美夜は月の寮へ向かっていた。朝の今、起きている人がいるのか美夜には分からないのだが、優姫の護衛としてついて行くことにした。
優姫は枢に、零の事について黙っておいて欲しいと伝えるつもりのようだ。どの道今夜会うのに、と言っても優姫は聞いてくれなかった。それほど、零を心配しているのだろう。
「一講目までには戻るからね」
「うん!」
月の寮の門番である、不穏な雰囲気を持つ高齢の男性の前を通過した時点で確認すると、元気な返事が返ってくる。
枢さんなら、零の事は黙ってると思うけどなあ。正直美夜はそう思うのだが、一度決めた優姫には通じないだろうと黙っている。
「よし、行くよ美夜」
「うん」
月の寮に入るのが初めてらしい優姫は――美夜も初めてだが想像はつく――緊張した面持ちでわざわざ断ってから寮のドアを開いた。
ギイ、と音をさせて開くと、輝かしい豪華な家具と陽の寮との格差を感じる内装が目に入る。想像通りのそれに美夜は大した反応を示さなかったが、優姫は「げ」と声を漏らして目を見張った。
「あ、美夜と優姫ちゃん」
そんな豪華なロビーのソファでふんぞり返る英がいた。磨かれたテーブルに片足を乗っけて違和感を感じさせない姿は、なんともお坊っちゃまである。
「アイドル……じゃなくて藍堂センパイ」
「お邪魔します、英さん」
本来彼は眠っているはずの時間だが、対面のソファに座る二人の男性は英への客らしい。優姫と美夜が英に声を掛けるのもお構いなしに、自分達の研究に協力して欲しいと語っていた。
英は無理矢理二人の男性を引っ張り、美夜と優姫の横をすり抜けて外へと追いやる。もしかして邪魔をしてしまったかと思ったが、英の態度からしてそうでもないようだ。
美夜は英が日光を目にしないように、二人が寮から出た途端に素早くドアを閉める。本来眠っている時間に来客があったからか、彼はどこか苛立ち気だった。
「大丈夫?英さん」
「あ、ああ……ありがと」
隣で優姫が「藍堂センパイがお礼を」と驚いていた。普段敵意を向けられている相手だから、意外だったのだろう。英は欠伸を一つ零して、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「で、何しに来たの?二人とも。……美夜だけだったら歓迎したけどさ」
一緒に来て良かった。美夜は心底そう思った。優姫が一人で来て、何か嫌な事があってはならない。この発言をしたのが普通科の生徒なら冷たく笑って済ますが、夜間部相手に下手にそういうことをすれば、優姫への風当たりが酷くなりかねない。
美夜は、優姫より僅かに前に出て苦笑を零した。
「ありがとう英さん。ちょっと枢さんに用事が……起きてるかなあ」
「多分ね。枢様、結構不規則な生活だから……こっちだよ」
頭の後ろで手を組んだ英が階段を登り始めたので、美夜は続いたが優姫はまたしても驚いていた。
「案内してくれるんですか……?」
数段階段を登った英が、足を止めて肩越しに振り返る。一段目に足をかけていた美夜も自然と動きを止めた。
「僕は……美夜のこと友人だと思ってるし。優姫ちゃんには、枢様が特別優しいからそれに倣ってるだけだよ」
英は言い終わると体を反転させ、腕を組んで手摺りにもたれた。
「美夜……その首の絆創膏だけど。一昨日の夜、誰かに咬まれたでしょ?」
彼らしい、ストレートな聞き方だ。嘘のつけない優姫はさておき、美夜は動じず微笑むだけだった。
あれだけ血が流れたのだ、美夜の血を飲んだ事のある英ならば、それが誰かすぐに気付いただろう。そして首に絆創膏を貼っていれば――吸血鬼の存在を知らない者は別だが――"咬まれた"と思うのが普通である。
「驚いたよ、本当。……まあ、枢様が忘れろって言うから、皆騒ぐのを止めたんだけどね」
やはり。枢にとって零は、ある意味において大事な存在のはずなのだ。みすみすこの学園から追い出すようなことはしないと思っていた。
「……そうですか」
そう分かっていても美夜は少し嬉しくなって微笑み、半歩後ろの優姫もと安心した様子だった。
ここで、英の苛立ちの矛先が優姫を捉えた。美夜は夜間部と仲が良いから、枢と多少親しくても攻撃されないが、優姫は美夜に比べて夜間部と関わりが少ない。その上明らかに枢の庇護下にある存在なので、零とは違った意味で夜間部に睨まれやすくなるのだ。
「ムカつく……」
風も無いのに、燭台に立てられた蝋燭の火が揺れ、簡単に消える。室温が急に下がり、肌寒さを覚えた。緊張感が一気に増して、美夜は笑顔を消して英を窺う。
「美夜が大事にしてるのも気に食わないけど……優姫ちゃんって、枢様のなんなのさーーーーねえ?」
美夜は優姫の盾になりながら後退し、英が触れた手摺りに氷が張っていることに気が付いた。物質を操るのは、上級吸血鬼の特殊能力の一つでもある。彼は氷を操るらしい。
階段からふわりと飛ぶように下りてきた英は、美夜に庇われている優姫に問いかける。
美夜は、優姫足が氷で固定されているのを見て、英を睨みつけた。美夜を凍らせないのは、友人という認識があるからだろうか。そうならば美夜も嬉しいが、優姫に力を使うのは、自分が痛めつけられるより気に障る。
「枢センパイは十年前、血に狂った吸血鬼から私を助けてくれた命の恩人よ!」
優姫が強く言い放つと、英は初めて知ったようで「へえ」と声を漏らした。
優姫と英の間に立つ美夜は、英が優姫に伸ばした腕を掴む。氷は優姫の足元から少しずつ増え、パキパキと音をさせて優姫を凍らせていた。
優姫に、なんてことを。
「私が優姫を大事にしてるって知ってるよね。英さん、怒るよ、私」
「……だって気に入らないから」
英はさらりと答え、美夜の手を振り払って優姫の肩にまた手を伸ばす。それを、美夜がまた掴んで阻む。男と女、それ以前に人間と吸血鬼だ。すぐに振り払えると分かっている英が、お構いなしに腕を動かそうとする。
「……怒るって、言ったよね」
夜間部とは仲良くやっていきたいし、優姫への風当たりを気にすることもあって対立したくないとは言っても、こうなっては話は別だ。美夜はあくまでも冷静に、だが僅かに怒気を滲ませた声音で言った。
「……氷解いて、英さん」
腕を掴んだ手に力を込めて、至近距離の英を見上げる。美夜が優姫を庇うことも気に入らないらしい英は、そう簡単には従わない。
そういえば夜間部が零に喧嘩売りに来てた時、英さんいなかったっけ。そんな事を心の隅で思いつつ。
「……うん。ちょっと怒ったよ」
張り詰めた空気が不穏な動きをみせた。ぞくりと鳥肌が立つような不気味さが湧き、氷の角が音を立てる。英が目を剥き、表情に動揺が混じっていた。後ろで優姫が身を固くしているのが分かった。
「英さん、氷解いて」
「……っ」
目を逸らした英の腕を離すと同時に言うと、すぐに氷の砕ける音がした。自由を取り戻した優姫がよろけたのを支え、英に仕舞っていた笑顔を向ける。
「ありがとう、英さん」
もう二度とこんなことしないで、と視線で伝える。
「……わ、悪かった……」
英は美夜の雰囲気の変わり方に拍子抜けしたように、気まずさに頬を僅かに染めて小声で言った。それに満足した美夜は、いいよね、と優姫に確認を取ってから英の謝罪を受け入れる。
丁度その時、どこか笑みを含んだような声が届いた。
「……僕は必要なかったね」
声の主――階段をゆったりとした足取りで下りてくる枢に三人の視線が集まる。美夜は、もう少し早く出てきてくれたら良かったのに、という言葉を飲み込んで笑顔で会釈した。
「おはようございます……あ、こんばんは?枢さん」
「くす、こんばんは、美夜。優姫も」
「あ、こんばんは!枢センパイ」
優姫が慌てて挨拶する様子にも彼は小さく笑って、美夜らがいるところまで階段を下りてくる。
居場所が無いのは英である。分度器で測ったような礼儀正しい礼をしても、先ほど優姫にしたことが無くなるわけでもなく、枢が――いつからいたのかは知らないが――気付いていない訳が無い。
「……藍堂」
「玖蘭寮長……っ」
枢が優姫に向ける柔らかい眼差しとは打って変わって、それだけで射殺せそうな鋭い視線を英へと向けると、彼は改めて自分のした過ちを理解したのか言葉を詰まらせた。自分にそれが向けられているわけではないのに身のすくむ思いのした美夜は、英に申し訳程度の同情を抱く。
「枢さん、優姫は無事ですから」
引きつった笑みを浮かべる美夜とおろおろする優姫を交互に見た枢は、はあ、と聞こえるほどのため息をついてから、英に幾分か和らいだ声音で告げた。
「……学習するんだね、藍堂?」
以前、優姫を咬もうとしたときの事を言っているのだろう。あの時も、似たような構図だったように美夜は思った。
英は深々と頭を下げて、自身の主へ謝罪した。
「出過ぎた真似を致しました。申し訳ございません、枢様……」
「下がれ」
枢の短い言葉に従い、そのまま英は階上へと消えた。
「……ごめんね、二人とも」
英が去ると、枢はそう謝罪してきた。美夜はいえいえと首を振り、優姫は両手を左右に振って「あっはい!いえあの」と肯定だか否定だか分かりにくい言葉を返す。英の枢に対する態度に、呆気にとられていたらしい。
枢が優姫へ歩み寄ったので美夜は一歩下がって様子を見た。傷の無い、女から見ても羨ましいほど綺麗な手を優姫の頬に添えた彼は、穏やかな笑みを浮かべていた。
美夜は、頬を朱に染める優姫から視線を外し、意味もなく二人の足元を眺め、静かに背に回した手を握り締めた。
「いいんだよ、優姫だけはそのままの優姫で」
耳に入る優しい声。優姫だけに向けられた、優姫だけが得ることの出来る台詞。彼女がそれを嬉しく思うのは分かっている。優姫が喜ぶのならそれで良い、でもそう思わないで欲しい、と裏腹なことを願ってしまうのも事実だった。
「僕にかしずいてくる夜間部の連中とは違う……優姫には温かみがある。それで十分だよ……」
「っ」
美夜は思わず顔を上げていた。視界に入った枢は柔らかな笑みを浮かべてはいたが、恐らく優姫も気付いた程の影が瞬時姿を見せた。
彼も、沢山のものを失った。そんなこと、十分知っているのに。とっくに、知っていたのに。
「……さあ、もう時間だ」
枢が名残惜しげに優姫から手を離して呟いた。つい感傷に浸りそうになっていた美夜は我に返り、溢れてきそうだった考えを急いで仕舞い込んだ。
「今度からは、こんな恐い所に女の子二人で来ちゃ駄目だよ」
「はい……」
「気をつけます」
「錐生くんでもいいから一緒に来てもらいなさい」
それはそれでよろしくないのでは、と美夜は零を連れて来た時を想像して苦笑する。夜間部が零に絡みそうだし、零もそれにのりそうだし、まず、枢がなにかしそうで恐い。直接私闘とはならないまでも、吸血鬼の特殊能力の多用で寮が崩壊しそうだ。
そんなずれたことを考えていた美夜だったが、次の枢の言葉に、ドアへ向かおうと動かしていた足を止めてしまった。
「美夜から奪ったものがある以上、彼はそれくらい役に立つべきだ」
体を反転させていた優姫も、眉を寄せて枢を振り返る。美夜は拳を握って、すまし顔の彼を見上げた。強くとはいかないまでも、はっきりと口を開く。
「……枢さん、私は零に見返りを求めているわけでも、償って欲しいわけでもありません。そんな言い方、しないでください」
貴方が、優姫の近くにいる零を嫌うのは当然かもしれないけれど。優姫が無事だったのだから、それで良しとはしてくれないのか。
それとも、計画の狂いを懸念している?
「……平気では、いられないんだよ」
枢は、一度視線を落としてぽつりと言った。またちらりと見えた影に、美夜は奥歯を噛む。そんな顔をしないでほしかった。まるで自分が酷い仕打ちを彼にしてしまったような錯覚に陥るのだ。
枢は片手を優姫の頬に、片手を美夜の頭に乗せる。そして不意に寮のドアの方へ顔を向けた。
「僕の大切な娘(こ)が他の奴に咬まれそうになって……大切な友人は、咬まれてしまったんだから」
優姫は頬の赤みを増して枢を見、美夜はいくらか驚きながら枢の手の重みを感じていた。まさか、"大切な友人"宣言されるとは思っていなかった。夜間部と仲が良い自覚はあったが、そんな風に言われるとは。
呆けていたせいで、美夜は寮のドアが開いていたことに気付くのが遅れてしまった。はっとしてそちらを見ると、片手でドアを開ける零が、こちらを睨むようにして立っている。優姫も気付いてなかったらしく、勢い良く振り返っていた。
「零……」
先ほどの枢の視線の意味が分かった美夜は、悪趣味、と内心呆れ半分で毒づく。
「お迎えが来たか……そろそろ昼の世界にお帰り。優姫も美夜も」
枢は両腕を下ろし、そう言って美夜らに背を向けた。予想通り、枢は零とは一言も交わさなかった。
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