07


 零を追って校舎内へ入った美夜は、辺りを見回しながら廊下を歩いていた。それほど間を置かずに追いかけたし、今の彼の体調では速い移動は出来ないはずだ。

「ーーーー?」

 耳に届いたのは、何故か優姫の声。明らかに戸惑いを含んだそれに美夜は酷く焦った。たまたま校舎内を見回っていた優姫が、零を見つけてしまったのだ。
 美夜は声のする方へ駆け出し、すぐに二人を見つけた。暗い校舎の中で、優姫を後ろから抱きしめている零。訳が分からず抵抗する優姫の手を拘束し、その首筋に顔を埋めていた。まだ牙が立てられていないことが分かり、美夜は険しい表情で叫んだ。

「零ッ!!」

 美夜の登場に驚いた優姫がこちらを見るが、零は顔を上げない。
 零から目を離すんじゃなかった。数分前の自らの行動を悔やみながらも二人に走り寄り、零を突き飛ばす形で優姫を解放した。

「美夜!?」

 必死の形相の美夜に優姫が名を呼ぶ。美夜は優姫の無事を確認して、突き飛ばした零を視線で窺った。壁に背を預けて座り込んだ零は、我に返ったようで、荒い息をしながらも優姫を襲う様子はない。だが油断は禁物だ。優姫を逃がさなければ。
 呆然と立つ優姫に、美夜はきつい口調で言った。

「優姫は早く寮に戻って。零は私が見てるから」
「でも、零の様子が……」
「いいから早く!走って!」

 廊下を指差して怒鳴ると、優姫は美夜の只事でない様子を察したのか、何とか頷いて走り出す。
 優姫が廊下を曲がり、姿が見えなくなったのを確認してほっと胸を撫で下ろした。そして座り込む零の横に正座して、顔を背ける零の頬に手を伸ばす。だが、その手は触れる直前に乾いた音と共に払われた。

「お前も、早く……俺から離れろ……!」

 零はこちらを見もせずに、絞り出すような声で言う。

「悪いけど、離れないよ」

 美夜は行き場の無くなった手を気にした風もなく引っ込め、姿勢正しく正座したまま、息を乱す零を見つめる。
 今、零がどれだけ苦しんでいるか美夜は分かるつもりだ。しかし吸血鬼としての本能に抗うことは、下手をすれば自分を壊してしまう。

「私を咬んで、零」
「は、お前何を――――」
「知ってるから、零のこと」

 弾かれたように顔を上げた零が、美夜を凝視する。

「詳しいことは後で。私は大丈夫だから、私を咬んで」

 こちらを半ば睨む零の目が、血色に染まった。必死で吸血衝動を抑えようとしているのだろうが、彼の手は今にも美夜に掴みかかりそうなほど震えている。
 零は、吸血鬼になる運命から、逃れることは出来ない。
 それなのに尚抗おうとする零に、美夜は静かに言葉を続ける。

「私はね、優姫を傷付けたくないの。零だって、大切な優姫を傷付けたくないでしょう」
「っお前……」

 美夜はブラウスのボタンを外し、首元を零に晒す。

「咬んで――――わっ」

 零に強く手を引かれて前のめりになり、転ぶかと思ったが、身体は零に抱きすくめられていた。零の片足を跨ぐ様な格好で、零の片腕が腰に回り、もう片方は後ろから制服の首元を掴んでいた。
 理性が飛んでしまった――正確には美夜が飛ばした――零の吐息が首にかかり、すぐに舌が這う。美夜は零の肩口に顔をうずめて、くすぐったさに息を吐いた。

「ん、大丈夫だよ」

 声が届いていないとは分かっているが、呟いて零の背中に手を回す。
 優姫は、傷付けさせない。でも、零にも傷付いて欲しくはない。なぜなら、零が傷付くと、優姫も心を痛めるから。それだけだったはずなのに。多分今は、少し違う。違ってしまっている。
 首筋に、肌を突き破る鋭い痛みが走り、次いで零の口が触れる。

「っ……ん……」

 美夜は自分の血が吸い上げられ、飲み下される感覚と音を聞きながら、零の背中にまわした手を握り締める。
 じゅる、ごくん、と言う音が数度繰り返された時、朦朧とし始めた意識の中で、追い返したはずの優姫の声が聞こえた。背を向けている美夜から優姫は伺えないが、状況の把握に苦しんでいるだろう。

「美夜?ぜ、ろ……?」

 その声で理性を取り戻したのか、零が牙を抜いて身体を起こした。美夜は力の入らなくなっている手で何とか傷口を押さえて、零に凭れ掛かったまま口を開く。

「優姫……なんで、戻って」
「だって心配で……どういうことっ?」

 優姫に吸血の場面を見られたくはなかったが、優姫が襲われる危険がないのでよしとしよう。美夜はそう納得して何とか顔を上げる。血を持っていかれすぎたのは明らかだ。顔は上げられても自分で姿勢が保てず、呆然とする零が無意識に力を入れている腕によって支えられていた。

「……大丈夫?零」
「俺、は……!!」

 血の色の引いた浅紫の目が、苦しみに歪んでいた。当然だ、自分が最も憎む存在へと変わってしまったのだから。彼の口の周りには美夜の血が付着していて、拭ってやりたいのに腕が持ち上がらなかった。
 優姫が駆け寄ってきてしゃがみ、零と美夜を交互に見る。美夜は何とか笑みを作って、まるで泣きそうな優姫に口を開いた。

「大丈夫だからね、優姫」
「だ、大丈夫って……!」
「零も、ね。大丈夫だから」

 息が上がる。少しの動作で頭がくらくらする。気分が悪い。早く立ち上がってこの場から離れたいが、足に力が入らない。沈みそうになる意識を何とか保って移動を提案しようとしていると、あまり会いたくない人物が登場してしまった。

「……血に飢えた獣に成り下がったか……錐生零」
「か、枢センパイ!」

 現れた枢は苛立ちを露わにこちらへ歩み寄り、零を見下ろした。隠すことのない殺気を美夜は肌で感じつつ、慌てて立ち上がる優姫から視線を外した。枢を見上げることが出来ず、しかし何とか首を回して枢の足元を見た。

「枢さん、咬まれたのは私だから、大丈夫です」
「ったく、君は……」

 痛いほどの殺気を放っていた枢だが、美夜と優姫を見てそれを収めた。枢に溜息を吐かれたと思うとすぐに、ふわりと体が揺れる。零の制服を掴んでいた力の入らない手が、抵抗なく離れる。

「枢さ……」
「医務室に行くよ。優姫もおいで」

 美夜の抗議は聞いてももらえず、枢は零に背を向ける。僅かに視界に入った慌てた人影は理事長だろう。零から離れたくなかったが、この有様ではどうしようも無い。
 優姫の前で抱っこなんてしないでください、と言いたいが言う気力も無く、美夜はただ身を硬くして気持ち悪さに耐えていた。




 枢によって医務室のベッドに横たえられた美夜は、仰向けの体勢で枢から手当を受けていた。柔らかい枕に頭が沈み、自然睡魔が囁くが一蹴した。

「……思い切り咬まれたね。血を持っていかれすぎだ」
「返す言葉もありません……」

 傷口を見ながら、枢が顔をしかめる。美夜は力無く笑って、大人しく――動こうにも動けないし――首を触らせていた。少しの間、呆と天井を見つめていると、ぺたりと何かが首に貼り付けられる。大きな絆創膏かそこらだろう。

「ありがとうございます、枢さん」

 まだ近くにある顔に微笑むと、彼も微笑みを返してくれた。枢は近くにあった椅子を引き寄せて優姫を座らせ、それから自分も椅子に座る。彼の白い制服に血は付いておらず、少し安心した。

「枢さん」
「何?」

 俯いたままの優姫を視線で示し、説明してあげてください、と苦笑する。枢はそれに眉を寄せ、小さく首を傾げた。

「……知っていたの?」

 言わずとも、零が吸血鬼であるということを指している言葉であることは明らかだ。美夜は表情を変えずに、黙り込んでいる優姫に言葉を求めた。

「まあ……ね、優姫」

 ぱっと顔を上げた優姫は、枢からの視線も受けて慌てて口を開いた。心無しか、顔色が悪い。

「あ、はい、あの……咬まれそうになった私を美夜が庇って……」
「……そう」

 何か考え込んでいる様子の枢は、優姫の頭を一撫でして、ちらりと美夜の方を窺った。その彼の視線が、先程から口元を捕らえていることに美夜は気づいている。
 枢が聞きたいことは、何故美夜が零のことを知っているのか、という事だけではない。

「……私のことは、ちゃんと話しますから。優姫に説明するか、血の匂いに騒いでいるであろう夜間部を鎮めに行った方がいいと思います」

 気分が悪いのを抑えて美夜が言い切ったと同時、理事長が医務室へ入ってきた。零を寮へと返し、枢に夜間部の方へ向かうよう要請しに来たらしい。
 枢は仕方ないというように立ち上がって、そのまま医務室を後にした。入れ替わりに理事長が枢の使っていた椅子に座り、優姫と美夜に声をかける。

「驚かせたね、二人とも……美夜ちゃん、怖かったろう」

 美夜は寝転んだまま理事長を見上げ、枢に言ったばかりの事を告げる。かなり気分が優れないので、それだけのことなのに疲労が伴う。

「……理事長、私は知ってたので、零のこと」
「……え、どうして」
「後で、ちゃんと説明しますから、先に優姫に」

 ずっと悲痛な面持ちの優姫と目が合ったので、大丈夫だよと伝えたくて笑う。しかしやはり、それで優姫の表情が晴れることはない。
 理事長も、一人だけ零のことを知らない優姫の心情を察したのか、美夜の様子にため息をついて視線をはずした。そのため息がどういった類の物かは生憎分からないが、起きられないくせに優姫を気にする自身の様子に呆れたのだと美夜は推測した。

「うん、そうするよ……」
「……あと。今からの私の行動への追及も、後にしてくださいね」

 枢が口元を見ていたということは、理事長にも話が伝わっている可能性が高い。そう美夜は判断し、言葉の意味を探る理事長と優姫の前で、スカートのポケットに血の付いていない方の手を入れた。
 出してきたのはピルケース。だるい腕でそれを枕元に置いて、体を二人の方へ向けた。

「美夜、それって……」
「ん、血液錠剤」

 さらりと答えてそれを開け、口元まで持っていってひっくり返す。ザラザラ、と錠剤が口に流れ込んだ。音をさせて噛み砕き、美味しいとは言えないそれを飲み込む。
 ピルケースを閉めてポケットに戻し、凝視してくる二人に苦笑した。

「ちょっと、血が無くなり過ぎたから」

 血液錠剤で気分が治る訳ではなく、ただの気休め。万が一の為の保険だ。
 理事長は、今美夜が何も話す気が無いと分かっているらしい。美夜の言った通り追及しようとはせず――不満そうだが――優姫に向き直った。

「今まで言えなくてごめんね」

 理事長は優姫に、四年前の零に起こった出来事とその影響について丁寧にゆっくりと話した。伏せられていることも多少あったが、今の優姫には酷だと理事長が判断したのだろう。

「……優姫」

 理事長が話すべき事を話し終えると、美夜は優姫の名を呼んだ。
 血液錠剤を飲んで――食べて――じっとしているからか、少し楽になった気がするが、"気がする"だけで、実際はあまり影響はない。血液錠剤はあくまで吸血衝動を抑え、血液が不足している場合は血液の生成を促す"吸血鬼向け"の薬であり、物理的に血液を増やす効果は望めない。まして、人間への効果は低いだろう。
 だから気休め。あくまでも気休め。万が一の為。

「な、何?」

 心の整理がすぐについていない優姫は、どこか慌てて美夜を見た。美夜は手招きをして優姫をベッドの傍に呼び、わざわざ跪いてくれた彼女の頭に手を乗せる。もちろん、血で汚れていない方の。

「辛いと思うけど、お願いだから自分を責めないで。……優姫に、そんな顔して欲しくないの」

 優姫が僅かに目を剥く。その大きな目が急速に潤み始めるのが確認出来た。

「泣いていいから……自分を責めることはしないで」

 乗せた手を動かし緩く撫でると、優姫は敷布団に顔を埋めた。優姫の肩が震えているのを認め、何とも遣る瀬無い気持ちだったが、だからこそ美夜は手の動きを止めなかった。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 力の入らない手の指の間を、優姫の癖の無い髪がすべる。しばしそうしていると、黙って様子を窺っていた理事長が、優姫の肩に手を置いた。

「さ、優姫。もう美夜ちゃんを休ませてあげよう?」

 優しい理事長の声に、優姫が涙を拭いながら顔を上げた。ゴシゴシと目をこする優姫に、美夜は小さく笑う。

「あんまりこすると、せっかく可愛い顔が赤くなるよ」
「……もう、美夜ってば」

 優姫の頭から手をのけて、ぱたりとベッドに落とした。血が足りないというのは、やはりどうにもだるい。普段の寝不足も相まって、僅かに悲痛さの消えた優姫の顔を見ると、緊張が緩みそうになる。

「……ちゃんと、話すから」

 立ち上がった優姫に美夜は念を押した。優姫の不安を増やしたくなくて、必ず話すから、と繰り返す。優姫はそんな美夜の意図を察したのか、どこかぎこちなくも笑顔を浮かべてくれた。




 医務室の片付けは優姫が引き受けてくれ、美夜は理事長に寮まで運ばれた。自力で行こうとしたのだが、数歩歩いて吐き気を覚えて断念。学校を休めとまで言われてしまった。欠席は遠慮したかったが、自分の体調からして、数時間後に控える登校に間に合うように回復するとは思えず、甘えることにした。
 寮の部屋に戻され、なんとか自力で部屋着に着替えた美夜は、ぐったりとベッドに倒れこんだ。手についていた血は理事長が拭き取ってくれて、今は無い。風呂に入らず就寝するのは気が引けるにだが、明日、目が覚めたら私的居住区のバスルームを使わせてもらおうと一人頷いた。

「予想以上に、血、飲まれちゃった。ごめんね」

 もぞもぞと動いて、ソラを抱きしめる。思い起こされるのは泣いていた優姫と、吸血鬼になってしまった零のこと。それから、話すべき自分のことだった。
 美夜に用意された伏せカードは三枚。
 うち一枚を表に返さなければならなくなった。これは自分の過去について話した時に覚悟していた。もう一枚についても同じで、過去を話した時点でめくる用意は出来ている。が、二枚目はまだめくらない。三枚目を何としても最後まで守らなければならないから。だから手札は小出しにする必要があるのだ。まさか"次"があると思われないように。

「こんなに血を抜かれたのって初めてかも……ホント、優姫じゃなくてよかった」

 それは、零がどれほど吸血鬼の本能に抗ってきたのかを表している。

「優姫を傷付けちゃ駄目……だから零も守らなきゃならない」

 誰呟いたのでもない、ただ自分への確認だ。自分にはそれ以上の感情もそれ以下の感情もあってはならない、と。分かっているのに、それが揺らぎそうになるのは、この偽りの箱庭にいるせいなのだろうか。
 そして、守りたいと思っても、結局は。

「きっと……最後に傷付けるのは私だね」

 三枚目のカードをめくる時、皆は一体どんな顔をするのだろう。そう疑問を抱いてみては、無駄なことだと一蹴する。この疑問は決して考え込むようなことではないのだ。周囲の反応がどうであれ、既に決まっていることなのだから。
 美夜は首筋の絆創膏を意識しつつ、ソラを抱きしめたまま、睡魔に身を任せた。

「……おやすみ、ソラ」

 美夜はソラと一緒に掛け布団に潜り、すぐに意識を手放した。


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