10
月の寮のロビーの階段を上った所に立っていた暁は、髪をかき上げながら歩いてくる枢に向かって口を開いた。
ロビーからは死角になるので、優姫と美夜は暁がいることに気づかなかっただろう。
「玖蘭寮長がそこまで彼女に執着する理由が分かりません」
正直、あまりまともな返答は期待していない。枢はいつも肝心なことは話さないし、何を考えているのか分からないのはいつものことだからだ。
美夜のことは暁にも多少理解は出来る。彼女のことを友人だと自分も思っているし、恐らく他の夜間部もそうだろうと思う。"人間"という妙な先入観が、彼女には不思議と働かないのだ。
しかし優姫はまた別だ。理事長の娘というだけでただの人間であるし、風紀委員だから枢以外の夜間部と関わっていると言ってもいいだろう。夜間部から歩み寄ったとは言えない。
暁は腕を組んで、自分の前を通り過ぎようとする枢に続ける。
「……そもそも"玖蘭家"の最後の一人ともあろう方が、錐生家なんていう吸血鬼ハンターの家の人間と一緒にいること自体、皆納得してないのに」
答えは期待していない。それでも一応聞いておきたくて言ったのだが、枢は暁の前で一度歩を止めた。
「あなたは"夜"の世界の……」
「優姫はね……」
再び歩きだした枢は、肩越しに暁を振り返り、僅かに微笑んだ。
「世界でただ一人の……大切なこだよ……」
意味深なその言葉は、やはり暁には腑に落ちない。だがこれ以上枢が何か手がかりを残してくれるとは到底思えないので、暁はその背を見送ってから、恐らく落ち込んでいるであろう従兄弟のいる私室へ戻った。
月の寮を出た美夜ら三人は、妙な沈黙を保ったまま校舎へと向かっていた。優姫がそれに耐え切れそうになくソワソワしているので美夜は何か話そうとするが、適切な話題が出てこない。結局、黙っていた方が無難だと判断して口を閉ざしていた。
さっさと歩く優姫の背を眺めながら美夜が歩き、その美夜の斜め後ろに零が続いていた。
「零はあのっ……割と平気なんだね、陽の光」
何とか話題を掘り当てた優姫が、振り返りながらやや早口に言う。零がどう返答するのか、美夜は彼を見上げた。
零はそっぽを向いたまま、素っ気なく答える。優姫が特に気になって言っているわけでは無いと零も分かっているようだ。
「……生まれつきじゃないからな」
「あっ……あ、そう……!」
乾いた笑いをこぼして頭をかく優姫は、どこか挙動不審。そんな優姫を見兼ねてか、零はあえてそれに触れた。
「あの玖蘭枢に、はっきり"大切"だと言ってもらえて……良かったな」
「ひっ」
心底嫌そうに言う零に、優姫が肩を跳ねさせた。やっぱり聞こえてたんだ、と蚊の鳴くような声で呟いている。枢のことは嬉しいのだろうが、指摘されると照れ臭いのだろうか。
照れてる優姫、可愛いな。
しかし零に聞こえるように言うなんて、と改めて呆れていた美夜は、零がこちらを向いていることに気が付いて首を傾げる。
「……お前もな」
「私が、どうかした?」
「……"大切"宣言されて、良かったな、お前も」
「あー……まあ、"友人"だと認識されてたことには、驚き半分嬉しさ半分って感じかなあ」
苦笑してそう返すと、零は眉をピクリとはねさせた。日頃から夜間部熱に上げている女子を見慣れている零は、夜間部と仲の良い美夜も同じだと思ったのだろうか。
「優姫は嬉しそうだけど」
「い、いやっ……嬉しいけどっ」
熱を冷まそうと両手で顔を仰ぐ優姫に歩み寄り、その頭をわしわしと撫でる。非難の声は聞き流し、むくれて髪を整える優姫を見て笑った。
「……でも、分かってる」
その優姫が、不意に髪を整える手を止めて呟いた。表情に真剣さが増したので美夜も笑みを引っ込めて、どうしたのかと様子を窺う。
「枢センパイから見て、私は犬猫と同じレベルなんだよ」
「そんなこと……っ」
「あの人と私じゃ、釣り合わないの見れば分かるでしょ」
くるりと美夜と零に背を向けて言う優姫は、自分自身に言い聞かせているように見えた。私にとっては物凄い憧れの人だけど、と寂しそうに言う。
美夜は眉を寄せて、拳を握っていた。優姫の言っている事を否定したいのに、今の自分の立場ではそれが出来ないことがもどかしかった。今の自分は、家族を吸血鬼に殺されても吸血鬼を憎まない一人の女子生徒。特に吸血鬼と関わりの無い"はず"の自分が、吸血鬼について語ることは出来ないのだ。
零のことはあるが、吸血鬼であることを望んでいない彼のことを引き合いには出せない。
「分かってるから……」
分かってないよ、優姫。吸血鬼にも心があって、様々なことを感じている。種族の違いは確かにあるけれど、吸血鬼と人間だってお互いを理解して支えあうことは出来る。しかしそれを伝えることが、今の美夜には出来ない。
優姫は遠くを見るように顔を上げた。
「吸血鬼と人間は、どうしても相容れない部分があるんだよ」
言い終わってしまってから、優姫は我に返ったらしい。弾かれたように、望まずして吸血鬼に身を堕とした零を振り返った。
「零っごめん私……」
「……それでいい」
淡々と返す零の反応は予想外のものだった。それが逆に痛々しくも感じられた。
無意識に力んでいた美夜は一度きつく瞼を閉じて力を抜き、心情の読み取れない零を見上げる。零は両手にそれぞれ何かを取り出して、美夜と優姫に差し出してきた。優姫と視線を交えて首を傾げつつ手を出すと、冷たい重みが乗せられる。
「なに……?これ」
「理事長に借りた銃だ。対吸血鬼用の」
動揺を隠さずに問う優姫に、零がさらりと言ってのける。手のひらに乗る小銃はカバーに覆われていたが、それには小さく対吸血鬼用武器であることを示すマークが入っていた。
「いつか俺が"人"の部分を失くして狂った吸血鬼になったら……その銃で撃ってくれ」
「……っ」
真っ直ぐに見つめてくる零の視線が真剣そのもので、美夜は息を詰まらせた。片手で軽々と持つ事の出来る小銃が、急にとてつもなく重く感じられる。
「今すぐじゃない。けれど必ず"その日"が来る。お前らの手で、俺を殺してくれ」
「……分かった。私は撃つ、絶対に」
顔を上げた美夜は、半ば睨むように零を見つめ返した。美夜の言葉に、零は満足したように僅かに口の端を上げていた。
大事な存在だと確認できたばかりの彼を殺す約束など本当はしたくない。だが彼がそれを望むなら、形だけでも約束を結ぼうと思った。これは果たされない約束なのだ。零が狂うことは、美夜が阻止するのだから。
零は絶対に死なせない。零が自分の命を安売りさえしなければ、この銃を彼に使う日も零が狂う日も永遠に来ない。そうなる自信が美夜にはある。
「ただし、約束して。私たち以外に殺されないって」
美夜にとってこれは形だけの約束であるが優姫にとっては確かな約束で、酷く重いものになってしまうだろうとは想像に難くない。
優姫にこんな重荷を背負わせたくは無いが、零が優姫にも銃を渡した以上は、こう言うしかないと思った。
「……分かった」
零は驚いたように美夜を見ていたが、すぐに小さく頷いた。
三講目が終わった休み時間、美夜は机に突っ伏して睡魔と空腹に抗う。優姫と沙頼はお手洗いへ立ち、美夜は一人、机に右頬をつけてぼうっとしていた。そういえば、朝に月の寮に行った時に枢さんに夜のこと言うべきだったな、と今更ながら思う。
「あの、晃咲さん、良かったらこれ食べる?」
クラスの男子に声を掛けられ、美夜は眠気を振り払いつつ体を起こした。三人の男子が近くにおり、一人が市販のクッキーの箱を持っている。
「あっ貰う!ありがと、笹山くん」
「い、いやっ」
一つ摘まんで口に放り込み、自席へ戻る三人へ笑顔を向けた。いつも何かお菓子を恵んでくれる彼のことを、美夜は"餌やりの人"と認識している。自分も何か持っているときはあげることもあるが。
「……いつもあいつからなんか貰ってるよな、お前」
「ん、おはよう零」
頬杖をつく零を振り返り何か言いたそうな目を見て、美夜は椅子に反対向きに正座した。前後の机の高さに差があるので、そうしても後ろの机はまだ少し高い。
零は優姫の真後ろに座っているので、美夜が後ろを向いても斜めの位置になる。
「……美夜には断わられるか、怒るかと思ってた」
「ああ……怒りはするよ、一応」
言っているのは、今朝、小銃を受け取ったこと。憤るのは、零に対してではなく――何も言えない自分に。
首をすくめて苦笑すると、零が頬杖を付いていないほうの手を美夜の頭に乗せてきた。頭の上で数度手を弾ませて、ふと動きを止めた。
「……さんきゅ。銃、受け取ってくれて」
頭の上に乗った大きな手から、寂しさが流れ込んできているような気がした。頬杖をついて微笑する零は、全てを受け入れて――いや、受け入れようとしているのだろうか。
<純血種>の牙にかかった人間は、吸血鬼に変異する。これは紛れも無い事実。そして元人間の吸血鬼は、いずれ<レベル:E>と呼ばれる存在へ堕ち、理性と自我を失って血に狂った獣になってしまう。
このことは、零はともかく恐らく優姫は知らないだろう。その<レベル:E>化を止める方法は無いとされている。だが、牙の主である<純血種>の血を飲めば真の夜の一族になり、<レベル:E>に堕ちることはなくなるのだ。
零本人さえ知らない事を、伝えることは出来ないけれど。
「零が笑ったの今日二回目だ。今日は良い日だね」
「……お前の基準はよく分からん」
「零が笑うこと自体レアだもん」
零の微笑は"微笑"すぎて、彼にあまり関わりのない人は気付かない。美夜は気付けるようになったが、彼が皮肉などではないただの微笑みを浮かべることは少ないのだ。
牙の主の血を飲まない元人間の吸血鬼が<レベル:E>へ堕ちるのは必須。しかし零はそうならないという自信が美夜にはあった。
零は死なせない。私が守るのだから。今朝から数時間で、何度この言葉を心の中で繰り返したことだろう。
「……ねえ零」
「何だ」
「約束、忘れないでね」
私の傍を勝手に離れないって約束も、と口にはしないが視線で訴えてみる。零は小さく息を吐いて、美夜の額を指で弾いた。反射的に目を瞑り、与えられた軽い衝撃に美夜は額を押さえる。
「……当たり前だろ」
「ん、よし」
美夜の脳裏によぎるのは、零に牙を立てた純血の吸血鬼の姿。直接会った事は無いが、生憎美夜は情報を豊富に持っていて、その<純血種>の彼女の名前も姿も目的も把握しているのだ。
早く学園に来るといい。
美夜は戻ってきた優姫と沙頼に声をかけながら、そんなことを考えていた。
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