12
「あー疲れたー……」
首筋の零の咬み跡が消えた頃、いつものように風紀委員業務を終え寮の部屋に戻ってきた美夜は、ふらふらとベッドに倒れこみそうなのを堪えて部屋着を取り出していた。
理事長の私的居住区で入浴を済ませるので、部屋着に着替えるのはその後にしている。あまりにもラフな格好で学内を歩きたくないからだ。
しかし美夜は着替える前に、自分に届いた一通の封筒に手を伸ばす。寮に着いたとき、自分の郵便受けに入っているのを見つけたのだ。
「どうせハンター協会からだし……」
自分に何か送ってくる所など、二つしか心当たりが無いし、今の状況では二つのうち一つの方からの接触は――余程の事がなければ――無い。
先日送った報告書に関するものだろうと検討を付け、美夜は立ったまま封を切った。
中から数枚の書類を取り出して封筒は机に無造作に置く。書類に書かれていることは予想通りの内容だった。送った報告書に関するものと、うろついている危険な吸血鬼に関する情報。
「……は?」
ぺら、と四枚目の資料を見た途端、美夜は動きを止めて表情をしかめた。眠気が一気に覚め、目に鋭い色をもって無言で書かれた文字を追う。五枚目の資料には、地理に疎い美夜に向けられた非常に変わりやすい町の地図が描かれていた。
「いくらなんでもリスク大きすぎるでしょ……誰か送って、先に着いてる彼と組ませたら――――間に合わない、ね」
口元を引きつらせて、ハンター協会の意図を理解する。
「……次の夜間部の休みは……四日後」
普段の睡眠不足を補うための貴重な休みを割くことは避けたいが、そうも言ってられない。美夜は四枚目と五枚目の資料を交互に見ながらその日の予定を立て直していく。
「前の日にケーキ焼いておいて、学校終わったらすぐにこれ済ませて、夜は月の寮……」
夜間部は休みでも普通科は授業がある場合が多く、自由になるのは放課後だ。
あれ、眠る時間が無い。
苦い顔をしながらもこの資料に書かれている内容を拒否する訳にもいかないし、拒否するつもりもない。
美夜はどうにもならない事態に深くため息をついて、出した資料を封筒に戻す。そしてそれを本棚に立っている、似たような資料が束ねられている一つの黒いファイルにそのまま挟んだ。
*
黒主学園は有名私立校だけあって、カリキュラムに乗馬という授業がある。生徒はその時その時の授業で乗る馬を決めて、交代で馬場を使うことになっている。
「ありがとうね」
美夜は自分を乗せてくれた栗毛の馬の首を叩いて愛撫をし、鼻先を撫でた。この馬は次の生徒も乗せるようなので、美夜は洗い場へ行かずに次の生徒に手綱を渡す。
ヘルメットと短鞭を持って辺りを見回すと、溜め息を吐く沙頼を見つけた。先程馬場にいるのを見たので、沙頼はもう今日は乗らないはずだ。
「沙頼、どうかしたの?」
「あら、美夜」
声を掛けながら近付くと、沙頼の近くに繋がれた白馬が目に入る。
「優姫の乗る馬が、白(ホワイト)リリィ号になっちゃったのよ」
「え」
沙頼と言葉を交わしている今も鋭い視線を向けて息を荒げる白馬、白リリィ号は学内では有名な暴れ馬なのだ。
幼い頃から面倒を見ていたらしい零には懐いているようだが、言い換えれば零以外には懐いていない。美夜も乗ることを避けていたし、不運な目に遭った生徒を何人も見てきている。
「あそこでサボってる呑気な優姫に知らせてくるわね」
「うん……」
沙頼の指差す方向には、柵に凭れて目を瞑る優姫の姿があった。
零のことや美夜のことが少し落ち着いたからか、優姫は優姫なりに考え始めていることは知っていた。優姫が乗馬の授業をサボることは無いに等しいのだ、この状態が彼女の心境を表しているようにも思える。
余計な悩み事はして欲しくないが、優姫が考えを纏めたいならそれでいい――そう思いながら、美夜は白リリィ号と対峙する。他の生徒が乗るならいざ知らず、優姫を落馬させる訳にはいかない。
「……優姫を、落とさないでもらえるかな」
ゆっくりと歩み寄って、鼻先に手を伸ばしてみる。そうすると驚いたことに、白リリィ号は荒かった息を僅かに落ち着けていた。手ごたえを感じた美夜は、ヘルメットと短鞭を脇に置いてそっと顔を撫でてみた。
「なんだ、良い子ねぇ」
周囲の生徒のざわめきを気にせずに触れていると、白リリィ号は鼻を鳴らしてじっと美夜を見つめてくる。
もしかして、零と近い匂いがするのかな。
「あ、美夜!」
すっかり大人しくなった白リリィ号と戯れていると、沙頼と優姫が駆け寄ってくる。この調子なら優姫を乗せても大丈夫そうだ、と美夜は思いながら笑顔を向けた。
「白リリィ号って可愛いね」
「……それ言えるの、美夜か零だけだと思う」
「流石ね、白リリィ号も手なずけるなんて」
美夜は白リリィ号ににこりと笑いかけてから、沙頼と少し離れたところに移動した。今から白リリィ号に乗るのはあくまでも優姫なのだ。
美夜のお陰か大人しくなった白リリィ号に、じりじりと近付く優姫に美夜は苦笑を零す。しかし、優姫が白リリィ号の手綱を持って移動しようとした時、穏やかだった白リリィ号の目つきが突然鋭く光った。
「優姫ッ」
いち早く気付いた美夜が陸上部選手並みの瞬発力をもって蹴られそうだった優姫を庇うと当時、腰辺りに、ゴス、と重い一撃を食らった。
「大丈夫?!美夜!」
「んー……優姫が大丈夫なら大丈夫」
「わ、訳分かんないから!」
腰を押さえて顔を引きつらせていると、優姫が青い顔をして様子を窺ってくる。あは、と乾いた笑みを浮かべて走り去った白リリィ号へ視線をやると、いつの間にか背に乗った、木陰でサボっていた零によって落ち着きを取り戻していた。
白リリィ号に蹴られたのか、うずくまる教員が目に入る。
「大丈夫?……美夜って、優姫のことになると素早いわよね」
「まあね」
冷静に容態を心配してくれる沙頼に苦笑して、美夜は腰をさすりながら優姫と沙頼と一緒に零の元へ移動する。
周りの男子が「錐生は普通科の期待の星」とか「流石玖蘭枢に唯一真っ向からガンたれることの出来る男」などと呟いて羨望と期待の眼差しを向けていた。
「大人しかったのに……」
「何か嫌な気配でも感じたんだろ」
美夜が首をかしげながら呟くと、馬上の零が溜め息混じりに言った。その彼の視線は、何故か月の寮へと向いていた。
零が視線を向けた月の寮で、パタン、と拓麻が窓を閉める。
「あの馬敏感すぎるよ……窓開けた途端、優姫ちゃんを蹴り飛ばす勢いで暴走するなんて」
月の寮内で最も広い枢の部屋の窓際に立ち、「僕らって草食動物に嫌われる匂いがするんだろうか」と呟きながら自分の腕の匂いを嗅いでみるが、自分で分かるわけもない。
部屋の主は反応を示さず、デスクについてひたすら手を動かしていた。
「じい様方か……大変だね、君は」
「……元老院が一々報告書を寄越せと煩いんだ」
「漫画の読みすぎで昼夜逆転気味な僕とは訳が違うか」
自分達吸血鬼を統率する最高機関である元老院からの催促ならば枢も無視する訳にいかず、睡眠時間を削ってデスクに向かう羽目になる。
頬杖を付いて気怠げにペンを滑らせている枢に、拓麻はカーテンを閉めながら軽い口調で言った。
「あ、優姫ちゃんは美夜ちゃんが庇ったから無事みたいだよ。美夜ちゃんがちょっと蹴られたみたいだけど」
「そうか……」
枢は視線も上げずに答える。予想外の素っ気ない返事に、拓麻は首を傾げた。優姫を気に掛ける彼なら、もう少し反応してもよさそうなものだ。
からかうように笑みを浮かべていると、枢が無言で睨んでくる。黒いものを漂わせたそれに、拓麻は身の危険を感じた。
結構短気だよなあ。
優姫のことでからかうことは命取りになると改めて認識する。
「……漫画の続き読もーっと」
長居しない方が賢明だと判断し、枢の視線から逃れるようにさっさとドアへ歩き出す。ドアノブに手を掛けたと同時、枢が不意に名を呼んできた。
「一条」
「……」
☆
振り返ると、枢がペンを持ったままじっとこちらを見つめている。拓麻はドアを開けようとしていた手で、溜め息を吐きながら頭をかいた。
「……何だい?枢」
高い立場ゆえにあまり自由に動けない枢の変わりに動いて彼を助けるのは、自分の役目でもあると拓麻はちゃんと自覚している。枢から短く告げられた要件に、快く頷いた。
普通科の授業を終えて陽の寮に戻った美夜は、荷物を置いて制服の上着をハンガーに掛けてクローゼットに仕舞う。
「徹夜はきついなあ……」
昨日、風紀委員業務の後にお菓子を焼いていたせいでほとんど眠れていない。今日は夜間部が休みなので、いつもならば放課後から翌朝まで睡眠をとるのだが。
「今日はちょっとあったかいから……上着はいいか」
クローゼットから制服とは違ったアイボリーのブラウスを出してベッドに放る。続いて、長ズボンとベストとブーティー、クローゼットの奥に立てられた革製のケースを出した。
縦は三十センチ、横は百十センチ、二十センチの厚みのあるケースをゴトリとベッドの横に置いた。普通の鞄とは言い難いそれは、学園に来た当初、首を傾げる理事長に"家族の形見"だと言って納得させたものだ。
着ていた制服を次々脱ぎ、今出した物に手早く着替える。ブラウスは第一ボタンだけ留めず、黒いタイを締めてベストを着用する。
「こっちは手入れ済んでるし、大丈夫……」
ケースを一瞥して呟き、洗面台の前に立つ。一つに結っていた髪をやや高めの位置で結い直し、慣れた動作で編みながら団子のように纏めた。軽く頭を振って留まっていることを確認する。
「よし」
鏡でも少し確認して、洗面台を離れる。
今度はケースをベッドの上に上げ、ガチャンと音をさせて二つある金の留め具を外した。中にはネックウォーマーとベルト、先日零から受け取った小銃、そして――黒光りする鞘と赤い柄の刀が横たわっていた。ベルトは刀用のもので、美夜は腰に固定されるようにしっかりと締める。
「後で差さないと窓に引っかかるよね……」
刀へ伸ばした手をネックウォーマーへ変更し、頭からすっぽり被って目の下で止める。
本棚に立てられた一つのファイルから封筒を取り出し、中にある地図だけを畳んでベルトに付いたポーチに入れた。常備しているピルケースもポーチに入れながら、部屋のドアに鍵が掛かっているかを確認する。
「……早く済ませないと」
カーテンも閉めてしまってから、美夜は刀を片手で持ち上げた。ケースは布団で隠しておく。
「行って来ます」
微笑んでソラを一撫でしてから、美夜はカーテンの閉まった窓へ歩み寄る。刀を握った左手に力を込めて、自分の中の吸血鬼の部分の力に語りかけた。
目を伏せて周囲の人の気配を確認し、行ける、と確信出来てから瞼を上げた。
自分の気配を完全に消し、周囲の気配には鋭敏になる。普段はできない芸当だが、今美夜の持っている刀のお陰で――触れなくてもいいが――それが可能になっているのだ。吸血鬼に近くなるので、身体能力や治癒能力も上がる。
腰、治るかな。
窓を静かに開け、カーテンが出来るだけ開かないように身体を外へ滑らせる。壁の僅かな突起に捕まりながら窓を閉め、寮の屋根へ飛び上がった。
気配を消しているとは言っても、枢の近くに行ってしまえば終わりだろう。学園から出るのが一番大変かもしれない、と美夜は刀を手に持ったまま、溜め息を吐いて屋根伝いに走り出した。
周囲の気配に気を配りながら、足音を立てないように注意を払いながら、まさに風を切るように疾走する。
――これが、美夜の二枚目のカードである。
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