16


 優姫と共に寝た――変な意味で無く――翌日、零は学校にいなかった。その事実に優姫はあからさまに表情を暗くし、美夜は特に驚きはせず席に付いた。

「零くん、休みなのね」
「うん、調子悪いみたい」

 沙頼は、何かあるのだと感じているのだろうが探りを入れてくることはしない。この適度な距離感をわきまえている所が、美夜が優姫と零だけでなく沙頼とも一緒にいられる理由である。

「零……大丈夫かな」

 座る席はいつも正面から見て右の通路側から美夜、優姫、沙頼の順なので、小声であれば美夜の声は沙頼に届かない。こそりと呟いた優姫に美夜は微笑んで返した。

「……優姫、お願いがあるんだけど」

 零に会いに行かなくてはならない。夜刈のことだ、零を寮に置かずに理事長の私的居住区にでも軟禁しているだろうから、夜に向かうつもりでいた。
 ただそれに優姫が付いて来ては困る。零を心配する気持ちは分かるが、こればかりは譲れない。

「何?」
「零のこと、任せてくれないかな」
「えっ?」

 どうして、と優姫の顔に戸惑いが浮かぶ。美夜は変な誤解を招かないように、すぐに言葉を付け足した。

「ちゃんと報告する。今は任せて欲しいの」
「でも私も……っ」
「お願い、優姫。零は絶対に助けるから」

 反論を許さない、強めの口調で告げる。唇を噛む優姫に内心で謝罪しながら、お願い、ともう一度言った。すると優姫がぎこちなくも頷いてくれたので、美夜はにこりと笑いかける。

「零を……よろしくね」
「もちろん。ありがとう」

 優姫にとって家族のような存在の零が苦しんでいる時に彼に近付くなと言う事がどれだけ酷か、美夜も自覚している。優姫の中ではきっと、"始末"や<レベル:E>といった言葉が渦巻いてしまっているのだろう。
 零は私が助けるから。だから貴女は零を待っていてあげて。
 少しでも優姫に安心して欲しくて、美夜は優姫の手を一度強く握った。




 宵の刻に校舎の入れ換えが終わると、美夜は優姫と別れて理事長の私的居住区に向かっていた。優姫は何か言いたそうだったけれど、朝に約束したからか追って来る事はなかった。

「ごめんね、優姫……」

 そう呟いて、私的居住区内の部屋のドアを片っ端から開けていく。どういう訳か理事長はおらず、美夜は人の気配を気にせず零を探していた。
 理事長がいないせいもあるのか、私的居住区内のほぼ全ての廊下の電気が点いていなかったので、美夜は月明かりを頼りに突き進む。

「点けたら消すの大変だし……」

 そう呟いた、無駄に冷静な自分に笑いたくなった。いや、もしかしたら冷静な振りをすることで自分を落ち着けているのかもしれなかった。
 程なくして私的居住区内の客室スペースに足を踏み入れる。私的居住区内をここまで歩き回ったことは無いので、正直なところ迷子に近い状態だったりする。
 三つ目の客室のドアを開け放った時だった。

「いた……」

 真っ暗な部屋で、ベッドに腰掛ける零を発見した。美夜はノックをせずに部屋のドアを開けていたので――零がいるからといって返してくれるとは限らない――彼は驚いた様子を隠せずにこちらを見た。

「美夜……」
「昨晩ぶり、零」

 途端険しくなる零の表情に、美夜は追い出される前に部屋に入ってドアを閉めた。
 そうすると廊下からの月明かりが入らなくなり、部屋のカーテンは閉まっているのでほぼ完全に真っ暗になる。美夜は手探りで電気を点けて、二人して眩しさに目をしばたたいた。
 零は美夜が帰らないと分かったのか、ベッドに腰掛けてこちらの動きを窺うだけだ。

「……どうして、昨日夜刈さんに大人しく撃たれようとしてたの。優姫泣いてたよ」

 背中に回した手を握って、静かに問う。床に視線を落とした零は、ぽつりと話し始めた。

「……あの人は親が留守がちだった時期、保護者として、先生として……俺と弟の面倒を見てくれた人なんだ」

 零、双子だったっけ。
 美夜は以前資料でも見た知識を呼び起こして納得する。

「その頃……初めて<レベル:E>と呼ばれる吸血鬼を見た」

 零の声音に苦しいものが混じって、美夜は俯く零をじっと見つめた。弱々しくも見える彼の姿に僅かに眉を寄せ、零の話に耳を傾ける。

「俺達の小学校の保険医の先生は、優しくてきれいな女性だった。……でも、<貴族>のところから逃げ出してきた<レベル:E>だったんだ。ある日突然牙を剥いた彼女から俺を庇って……師匠は右目を失った」

 先生は良い人だと立ち塞がった俺の無知の代償に、と零はまるで自分に言い聞かせるかのように呟いた。その幼い頃の零の体験は、彼に吸血鬼に対する恐怖というものを植え付けたのだろう。
 零は一度言葉を切り、息を吸い込む。

「師匠は、身をもってそういうことを教えてくれた人だ。だから、あの人が"始末する"と言うなら俺は……」

 美夜は握った手に爪を立て、唇を噛んだ。悔しいのか悲しいのか辛いのか、自分の感情は良く理解出来ないが、ただ鼻の奥がツンとしてくるのを感じていた。
 泣いていた優姫が頭をよぎる。零の事をあんなに大切に考えてくれる人の事を、彼自身だって知っているはずだ。なのに、始末される気でいるなんて。
 ああ、優姫だけじゃなくて、私もか。零をこんな所で失うなんて御免だ。優姫の為にも、美夜自身としても。

「約束……破るの?」

 零の事を失いたくないのは、自分の感情でもある。だから、二つの約束を交わしたのだ。傍を離れないということと、美夜と優姫以外に殺されないという、ずしりと重い約束を。

「……」
「いや……たとえ零が破ろうとしてもいい。私は勝手に零を守るよ」

 返事は無い。守り切るという自信を持っていても、そのことが美夜の行き場の無い不安を煽った。零はもっと自分から足掻こうとする人だと思っていたから。
 何もかも、諦めるつもりなのかな。
 一向に顔を上げない零から美夜は視線を外し、無言で制服のリボンを解きにかかった。

「……私はね、零と優姫が笑ってくれればそれで良い」
「……」
「とっても我儘な私は、誰よりも優しい零を失うなんて嫌なんだ」

 上着を脱いで、零の肩を指先で叩く。訝しげに顔を上げた彼を立たせ、シャツの袖を引っ張ってバスルームに一緒に入った。
 バタンと扉を閉めて、前に立つ零を見上げる。美夜の行動に察しがついたのか、零は困惑した表情を浮かべていた。
 シャツのボタンを一つだけ開け、無防備な首元を晒す。血に飢える彼にはとても酷い毒。

「私を咬んで、零」
「何を……っ」
「ここなら、多分血の匂いもばれないよ」
「そう言う問題じゃないだろ……!」

 美夜から距離を置こうと壁に背を付けた零に、美夜は躊躇いなく詰め寄る。浅紫の彼の目には既に血色が混ざっていた。
 彼が血液錠剤を飲めなくなったのがいつ頃かは分からない。だが昨夜と今の様子からして、一週間程度ではないだろう。

「……ごめんね、零」

 美夜は謝りながら零との距離を無くし、視線を下ろして彼のシャツを見つめる。零が荒く呼吸を繰り返しているのが分かり、もう吸血衝動には抗えないだろうと美夜はその時を待った。

「こんな方法しか無くてごめんね」

 今出来る最善の策は、零に血を与えること。たとえ吸血という行為を、零が忌み嫌っているとしても。
 零の腕が背中と後頭部に回され、温かい息が首筋にかかる。次いでざらりと熱い舌で舐められると、美夜は軽く目を伏せた。




 抱き締めた小さく細い体から牙を抜き、美夜から離れるように壁に凭れてずるずると座り込んだ。
 手の甲で口元の血を拭い、口内に残る独特の味に顔を顰める。普通の人間なら嫌悪感を抱くであろう鉄の味を、どこか"甘い"と感じている自分がいたのだ。

「ごめん……大丈夫?」

 片手で首筋を押さえ、しゃがみ込んで問うてくる美夜から視線を逸らし、指を灰銀の髪に埋める。吸血衝動のせいで体温が上がっていたのか、服越しに体に触れるバスルームのタイルを冷たく感じた。

「……人を傷付けたくないと思っていても、俺は血を求める自分を止められない」

 自嘲を交えて発した声は、思った以上に掠れていた。

「もう見捨てろよ……」

 顔を上げると、苦しげに眉を寄せる美夜と目が合った。悲しさに染まる美夜の目には、零に対する怒りは無い。
 どうして彼女は自身を責めている様な顔をするのか。美夜が責めるべきは、約束を破り、衝動に負けて血を貪った自分であるはずなのに。

「……見捨てないよ。言ったでしょ、零を失いたくないって」

 僅かに震えた声に、初めて彼女に牙を立てた後の事が頭をよぎる。守るから居なくならないで、と言った美夜との約束を違えそうになっている自分に腹も立つが、今はそれ以上に、躊躇なく自分を差し出す美夜の優しさが苦しかった。

「俺にとってはこんなの一時しのぎなんだぞ……」
「零の命は繋がるでしょう」
「……血を求める俺を殺さないのかよ」
「私は<レベル:E>しか撃たないよ」

 <レベル:E>に堕ちてないのに死なせる訳ない、と美夜は付け足した。

「……零は優し過ぎるんだよ。自分を貶めすぎ」
「優し過ぎるのはお前だろ……」

 呟いて床を睨んでいると、美夜が膝立ちで目の前に寄って来た。構わずにそのままでいたが、彼女は気にせずに零の頭を抱えるように抱き寄せてきた。
 予想外の事に、視線を落としたまま目を剥く。美夜からこんな風に触れられる事は無いに等しい。

「…………私はわがままなだけ」

 美夜は落ち着いた声音で、零を宥める様に言った。後頭部に回された美夜の腕が壊れ物を扱うかの如く優しく触れる。

「零を失いたくないし、優姫を泣かせたくない。だから私は、そう思う自分の為に零に血をあげるんだよ。……零が嫌がったとしても」
「…………」
「私が勝手にしてるんだから、零は私を気遣う必要も自分を責める必要も無い。……無理矢理私に飲まされたんだからさ」

 揺れる声で、最後は少し苦笑を含んでいた。零はそれに返答せず、ただ美夜の体温と匂いを感じて目を伏せる。
 お前はどうしてそこまでして俺を守る?
 底知らぬ彼女の優しさ故なのだろうと思う。だが、自分の身を削る様なそれはあまりに危うい。自分は何も返せないのに。いや、きっと彼女は見返り等求めてはいない。

「ごめんね。……零が足掻かなくても私が足掻く。零の傷は私が引き受ける。だから零は、優姫と一緒に笑っててよ」
「…………美夜も、な。俺は……お前の事だって傷付けたくないんだ」

 細い腰を引き寄せると美夜が言葉を詰まらせた。後頭部に感じる彼女の腕が瞬時離れたが、すぐに戻って今度は髪を梳いてきた。

「……ありがとう」

 礼を言うべきはこちらだと言うのに、美夜はそう噛み締める様に言った。何か複数の感情が混ざっているように思え、零は引き寄せる力を強くする。視界が美夜のブラウスで埋まる。

「零……」
「……何だ」
「ごめん」

 この十数分で何度も「ごめん」と口にしていることを美夜自身気付いているのだろうか。
 零にその言葉の真意は分かりかねるが今は気付かない振りをしながら、髪を梳く美夜の手を心地良く思っている自分に内心苦笑した。ギスギスしていた心境が何時の間にか解されていたらしい。

「……夜刈さんの事、任せるね。銃向けてきても避けてよ」

 いつもの美夜の明るく穏やかな声音にどこかほっとする。

「……ああ」
「よし。……あの人良い人だね。零の事心配してるみたいだし」

 零に銃口向けたのは許せないけど、と呟いて髪に埋めていた手が離れる。こちらも腰に回していた腕を緩めると、美夜は密着していた身体を離す。

「じゃあ、私は優姫と話してくるね」

 顔を上げると、首に血を付着させたままの美夜が頬を僅かに染めて微笑んだ。零は首筋の赤に密かに拳を握り、だが彼女の浮かべた笑みが貼り付けた様なものでなかったことに、微かに口の端を上げた。
 彼女の「ごめん」という言葉が、頭の中に響いていた。


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