17


 理事長の私的居住区から陽の寮へと続く道で、地面を見つめて呆と立ってた優姫は、人の気配を感じて弾かれた様に顔を上げた。私的居住区の方から、待っていた美夜がようやく現れたのだ。

「美夜っ」
「お待たせ、優姫」

 パタパタと駆け寄って様子を窺う。美夜は零の所に行っていたはずで、そこで何があったのか知りたかった。

「零、零はっ?」
「大丈夫。ごめんね、辛かったよね」

 穏やかに微笑む美夜の首筋に、別れる前までは無かった絆創膏が張ってある。優姫はそれで全てを察し、彼女が来るなと言っていた意図も大まかに理解した。

「美夜……それって」
「うん」

 ちらりと絆創膏に視線をやって問うと、彼女はさらりと頷いた。美夜は零に血を与えたのだ。事後報告は仲間外れにされたようで寂しくないことはないが、多分美夜は自分を巻き込みたくなかったのだろうと思う。

「もう、心配したんだから。馬鹿……」
「ごめん。零はもう大丈夫だから、いつもの笑顔で迎えてあげて」
「当然!」

 これ以上美夜に気を使わせたくなくて、脳内で渦巻いていた嫌な考えを振り払って笑った。そうすると、美夜は安堵した様にふわりと笑う。
 人が自らの血を餌に吸血鬼を生かすことは、恐らく罪深いこと。誰にも知られてはならない、と優姫はある種の決意が生まれたのを感じた。
 美夜が零や私を守ってくれるように、私も強くならなくちゃ。
 今の自分のままでは、きっと何も出来ない。零を守ることも、美夜を支えることも。

「じゃあ、寮に帰ろっか」

 何事も無かったかのように手を引く美夜は、零に血をあげた事に一切の迷いも後悔も無いのだろう。以前零から聞いた、自分達を「守る」という彼女の思いは揺らぐことを知らないらしい。
 自分を引く、自分と変わらない大きさの手を優姫はぎゅっと握り、寮へと並んで歩き出した。




 他愛ない会話を交わして歩く美夜と優姫の様子を木陰から窺っていた夜刈は、近付いてくる気配に小さく溜め息をついて木の幹に背を預けた。
 自分の気配は消しているから、ただの人間である――<レベル:U>というおまけはあれど――あの二人が気付くことはない。

「……楽しそうだね、二人とも」

 耳に届いた落ち着いたテノールに、夜刈は視線を動かした。長身の白い制服が夜の中に浮かび、ただでさえ強い存在感が強調される。
 クスリと笑みを零す枢の真意は相変わらず読めない。彼は丁寧に挨拶する二人に笑みを浮かべつつも、わざわざこちらへ視線を投げかけてきた。
 気付いてるっていうアピールか。それとも出て来いって事か。
 まあ要望に沿う気は無いが、と幹にもたれたままでいると、前者だったらしく、枢はすぐに視線を外した。

「美夜、姿を見なかったけど……」
「ちょっと私用で」

 美夜の首筋を見て言った枢に、優姫は口をつぐむも美夜は至って変わらぬ口調で返す。

「首に怪我をするような用事だったの……?」
「はい」
「……どうして?」

 世間話のような口調と雰囲気で、夜刈にとって予想外の人物相手に枢が腹の探りを始めた。しかし夜刈にとって予想外だったのは枢の相手だけではなく、相手にされている美夜の反応だった。
 彼女は枢が遠回しに何を探っているのかを理解し、当たり障りの無い言葉で返答する。ただにこにこ笑っているだけの人の良い娘かと思っていたのだが、どうやらここぞという時には肝が据わっているらしい。

「私の為に、です」
「そう……彼を助けることが、君の望み?」
「……そう、ですね。守りたいんです」

 不意に核心を突いてきたからか、美夜は少し間を置いた。だが言葉に迷いは感じられない。
 何だこれ、面白れぇな。
 吸血鬼界の王たる純血の吸血鬼が、人間の小娘の意図を探る構図なんてそう見られるものではない。夜刈は、良い気味だ、と口の端を上げた。
 会話が途切れると、黙っていた優姫が声を上げる。零との事を隠せないと悟り、これ以上詮索されては敵わないと思ったのだろう。

「枢センパイっ。じゃ、じゃあ私達はこれで失礼しますね」
「ああ……お休み、二人とも」
「お休みなさいっ!」

 美夜は優姫に腕を引かれながら、枢に会釈して「お休みなさい」と微笑んだ。優姫に半ば強制的に寮へと歩かせられる美夜だったが、枢と十数メートル離れた時、思い出したように振り返った。

「枢さん」

 美夜を引っ張っていた優姫も足を止め、先程の場所から動いていない枢を振り返る。夜刈は枢と同じように美夜の方へと視線を向け、彼女の言葉を待った。

「一つ訂正しておきます。私が守りたいのは、両方ですよ」

 美夜は枢の返答を待たず、それでは、とまた軽く頭を下げて綺麗に笑った。歳不相応にも思えるその笑みを、常人より遥かに良い視覚でしっかりと捉えた夜刈は思わず鼻で笑う。
 食えねぇ野郎だ。女だが。

「……盗み聞きとは、良い趣味ですね、先生」

 二人の少女の気配が完全に消えた頃、道に立つ枢が呟いた。

「気付いていたヤツに言われたくはないがな」

 夜刈は特に慌てることも無く、煙草を咥えながら道へ出た。枢とそれほど距離は無く、十メートルほどだろうか。煙草に火をつけて、ふうと煙を吐く。

「……安心したか?」
「何がですか」
「大事な大事なあの娘が、零の所に行かなくて」

 正確には、零に咬まれなくて、だが。
 夜刈は優姫が零の元へ行くと思っていたし、それは枢も同じ筈だ。いくら零と美夜の仲が良いとは言っても、零と共にいた年数を考慮に入れれば、当然優姫だと推測する。

「……そうですね」
「っつー事は、お前さんはあの娘が零の所に行ったとしても止める気は無かったんだな」

 でなければ、わざわざこんな時間帯に――零への用が済んだのを見計らったかの様な――ここにいる筈が無い。
 大事な娘が傷付けられる事を黙認している彼の行動は思い切り矛盾している。無力な者ならいざ知らず、枢はその気になれば零を消す事も容易いだろう。

「あの娘の方が行く事を望んでいたのか?何故零を八つ裂きにしてしまわない?」

 まともな答えは期待せず、独り言の様に言った。途端、柔らかかった枢の雰囲気が鋭くなり、小さな鎌鼬(かまいたち)が煙草を持った夜刈の手の甲を浅く切る。
 二人の少女に見せていた優等生らしい様子はすっかり身を隠し、苛立ちを露にこちらを見据える。

「……彼女を失わない為、ですよ」

 枢はその整った顔に微かな笑みを浮かべていた。
 <純血種>サマの考える事なんざ、分かる訳ねぇか。
 手の甲の傷を一瞥し、鼻から息を漏らす。この位の傷ならば、明日中には塞がるだろう。しかしまあ短気なもんだな、と思いながら空いている方の手をズボンのポケットに突っ込んだ。

「……まあ、咬まれたく無かったんなら、天然記念物の小娘に感謝することだな」

 この場から立ち去ろうとしていた枢に夜刈が呟くと、枢はちらりと視線を寄越した。
 あっちの小娘も人気者だな。
 <純血種>すら手懐ける<レベル:U>の力に感心すべきか、それとも<レベル:U>である事を体質として受け入れている彼女の物分かりの良さに感心すべきか。吸血鬼を引き寄せる等、ハンターである自分達からすれば鬱陶しい体質だが。

「ボケ隠居の娘に零の居場所を言った時、あいつは向かおうとしなかった……天然記念物に止められていたらしくてな」

『零の事……美夜に任せるって約束したんです。だから、私は信じて待ちます』
 優姫はそう言って拳を握っており、美夜との約束がある程度不本意な物であるのは明らかだった。それでも約束を守るとは、美夜の事を余程信用しているらしい。
 そして先程美夜が言い残した言葉から、彼女は零だけでなく優姫に対しても特別気を配っている事が窺えた。相思相愛か。

「……そうですか」

 枢は小さく笑みを零し、話は終わったとスタスタ歩き出した。夜刈はその背をしばし見つめ、私的居住区の滞在用にあてがわれた部屋に向かった。

「……単に零を助けたかったのか、零が他の女を咬むのが気に食わなかったのか、小娘が咬まれるのを避けたのか……」

 道すがら呟き、フィルターに近くなってしまった煙草を地面に落として靴で踏みつけた。

『打つなら、まず私からどうぞ』

 プールでの美夜の行動と今回の行動。仲間思いだと片付ける事も出来るが、それにしては些か体を張り過ぎている気もする。ただその性格は、決して軽くは無い過去のせいだと考えるのが妥当だろう。

「……全部、か?」

 ガシガシと頭をかいて、一つ溜め息を吐く。自分が考えても仕方が無いと適当に思考を中断し――数メートル後ろに落ちた煙草の吸い殻を振り返った。
 ぐだぐだ煩い二百歳以上の男の説教が容易に想像出来、夜刈はまた溜め息を吐いて数歩戻る事にした。





 普段結っている髪を下ろし――表情は柔らかいものの――真面目な雰囲気を纏った理事長の前で、カウチに寛ぐ人物が口を開く。

「ま、零の所には夜刈を行かせたし、奴の判断に任せるけど」

 和服に近い服装で、どこか性別の判別が付きにくい中性的な顔立ち。口元を扇で隠しながら言う人物からは、あまり緊張感を感じられ無い。
 零は大丈夫だから、学園の平和を疑うな――理事長はつい先程そう述べた。その返答は何とも人任せな物で、ハンター協会の協会長がこんな態度で良いのか、と理事長は内心溜め息を吐いた。
 理事長がハンター業から退いたのは十六年も前の話だが、それなりに有名だったので、協会長に面会するのも難しく無い。

「ああそうそう。黒主くん、美夜は元気?」
「……ええ。錐生くんとも義娘とも、夜間部とも仲良くやってますよ。守護係として頑張ってくれてますし」

 以前美夜が言っていた、協会長に可愛がってもらっているという言葉は事実だったようで、協会長は瞬時驚いた様に目を剥いたが「そう、そう」と頷いて小さく笑っていた。

「……僕の事話してたらしいですね」
「ん?ああ、つい」

 協会長は悪びれる様子も無い。機密事項な訳でもないので怒る事は無いが、自分の事を美夜に伝えるなら美夜の事を教えてくれていても良かっただろうと思う。

「言っておくけど黒主くん……美夜の事は隠していたのではないよ?美夜に任せていただけだ」

 顔に出てしまったのだろうか、理事長が何か言う前に協会長が溜め息を交えて言った。そんなに私は信用無いのか、と扇を畳んだ協会長に曖昧な笑みを向けた。
 協会長は煙管を取り出して、懐かしむ様に目を細める。こんな人に気に入られて、美夜も可哀想に。良い子に育ってくれて良かった、と心から安堵しつつ、カウチから動く気の無い協会長に背を向けた。

「じゃあ、用件は済んだので」
「今度来る時は美夜も連れて来て。あんまり会ってないから」

 確か美夜は、家族を失ってから数年ハンター協会の保護下にあり、その後は協力を条件に解放され、一人で暮らしていたらしい。定期的に報告書を送り、直接協会へ赴くのは年に一度程だと言っていた。協会長はそれを言っているのだろう。

「……分かりました」
「嫌そうねえ」
「じゃあ、僕はこれで」

 協会長の不満そうな声を聞き流し、コートを靡かせて部屋を後にした。呼び出されたから来ただけであるので長居する気も無く――今いる協会本部と学園は結構な距離があるし――すれ違う現役ハンター達に適当に挨拶しながらさっさと移動した。



「……流石だね、美夜」

――だから、協会長が部屋でそう言ってクツクツと笑っていた事に気付く由も無かった。





 美夜が零に血を与えた翌日も、彼は学校にいなかった。

「ねえ美夜……」

 零の事が気になって居眠りをしない優姫がそわそわしながら声を掛けてくる。何気ない風で授業を受ける美夜もずっと零の事を考えていた。今日は学校に来ると思っていたから。

「多分……夜刈さんと話をしてるんだと思うんだけど」
「……私、行って来る」

 ノートに転がる折れたシャーペンの芯を見つめていると、優姫が唐突に呟いて立ち上がった。優姫の両側には美夜と沙頼が座っているので、優姫は机に両手を付いて軽やかにそれを飛び越えた。
 優姫の思いも寄らない行動に、美夜はシャーペンを手から落とす。カシャン、と音を立てた時には、彼女は教室を飛び出していた。

「おい、黒主?!」

 教師の声等お構い無しに駆ける優姫を呆然と見送った美夜だったが、我に返って自分も立ち上がった。
 優姫の行動力は侮れないなあ。昨晩零の所に来なかったのは、やはり相当我慢させたのだと改めて思う。

「先生っ」

 小走りで教卓に立つ教師の元に向かった美夜は、男性教師に苦笑を零して言った。優姫の様に無断で教室を出る事は無い。

「すみません、連れ戻して来ても良いですか?」
「あ、ああ悪いな。頼むぞ、風紀委員で風紀委員らしいのは晃咲だけだからな」

 "特待生"と"風紀委員"の肩書きを持つ美夜は優等生で通っているので、教師からの信頼も厚い。美夜はげんなりする教師に軽く礼をして、急いで優姫の後を追った。
 目的地は分かっているので苦労は無いのだが、何分彼女は運動神経が抜群に良いので美夜が追い付くのは恐らく不可能。もし何か傷付く様な事があったら、と内心焦っていた。
 怠い体に鞭打って、私的居住区の客室スペースへ走る。昨晩の記憶を叩き起こして、人の気配も頼りにしながら、零がいるであろう一室へと辿り着いた。

「っはあ、ふー……」

 開いているドアに掴まる様に部屋へ入ると、零、優姫、夜刈といった予想通りの面々がいた。

「天然記念物までご登場か」
「おはよう、ございます、夜刈さん」

 息を整えながら会釈する。
 壁際の床に座り込んでいる零の前に立つ、夜刈の両手は空いていた。夜刈の横に立っていた優姫は、苦笑しながら美夜を気遣ってくれる。零は零で座り込んではいるももの、思い詰めた様な雰囲気ではない。

「おいこら天然記念物。俺は零と話してただけだぞ」
「あ、はい」
「ったく、ボケ理事長の娘といいお前といい……」

 大袈裟に溜め息をつく夜刈は頭をかきながら、美夜を一瞥して零に視線を移す。

「美夜、大丈夫?」
「ん。優姫走るの速い……」
「ご、ごめん」

 力なく笑って、夜刈と同じように零を見つめた。そこでふと、零の手に[血薔薇の銃]が握られているのに気がついた。
 たまたま、な訳ないか。
 夜刈が何かしたのだろうとは察しがつく。銃を零に向けて、それを零自身が逸らしたと考えるのが妥当だろう。その光景を想像して僅かに眉を動かすが、零に死ぬつもりが無いとはっきりしたので、大目に見ることにした。
 隣の優姫は少し緊張しているようだが、表面上は不安の類は見えない。その場面には居合わせなかったのだろうと密かに安堵する。きっと、彼女には辛いだろう。

「"右目を代償に、お前を助けたことを俺に後悔させない"って"誓い"を立てたのはお前だぞ、零」

 夜刈は零を見下ろして言う。零は顔を上げずに、ただその言葉を受け止めているように見えた。

「てめぇがあんなに死にたがるヤツだとは思わなかったが……あん時は本当に殺してやろうかと思ったぜ」
「……」
「お前は血まみれの生き方を選んだんだ、足掻けなくなるまで足掻けよ」

 零の返答など期待していないのか、夜刈は目に見えた反応を示さない零を鼻で笑って、こちらへと顔を向けた。

「……お前は甘すぎるんだ、銃弾の一発でも撃ち込んでやれよ」

 美夜は自身に向けられた言葉だとすぐに気が付いた。夜刈と美夜は、方法こそ違うが零を心配する気持ちは同じで、零の師である彼からすれば美夜のやり方はぬるいのだろう。
 甘いという自覚はある。だが残念ながら、美夜には零を撃つ程の強引さを持ち合わせていない。

「私は、こういう方法しか知らないので」

 肩を竦めてそう言うと、夜刈は少し口の端を上げた。美夜は正直、舌打ちでもされるかと思っていたので拍子抜けした。
 夜刈はそのまま零に背を向けて、ドア際に立てていた大きなケースに手を伸ばす。彼の私物らしいが、取っ手を持つものの直ぐに離してしまった。どうやら予想以上に重かったらしい。ここまで持って来るのは大丈夫だったのだろうか。

「ボケ理事長に送るように言ってくれ」
「あ、はいっ」

 優姫が半ば反射的に返事をすると、夜刈は懐から煙草を取り出した。それを口に咥えながら美夜の横を通って部屋を出ようとするが、寸前で立ち止まる。忘れ物かと美夜が首を捻って彼を見上げると、夜刈は前を見据えたまま言った。

「ああ、そうだ……零、"あの女"どうやら生きてるらしい」
「……!」

 俯いたままだった零が、手を首筋に当てて顔を上げる。話の見えない優姫は零と夜刈を交互に見やるので、美夜もそれに合わせて小首を傾げた。

「じゃ、俺はもう出る」

 夜刈は変わらぬ調子でそう言って、軽く片手を上げた。お気を付けて、と言いながら礼をすると彼に鼻で笑われた気配がした。
 美夜はそれに特に気分を害する事も無く、室内に視線を戻す。夜刈の残した言葉についての思案を止めたらしい優姫が、零の前に立っていた。

「もう大丈夫、だよね、零」

 確認する様な優姫の声は僅かに震えていた。心の何処かではずっと零の事が不安だったのだろう。零もそんな彼女の心境を察してか、立ち上がると優姫の頭をくしゃりと撫でた。

「……ああ」

 そんな二人を微笑ましく思って見ていると、零がこちらを向く。何かを吹っ切れたような彼の目に、漸く少し安心出来て頬を緩めた。

「明日は学校に来てね、零」
「……考えとく」

 釘をさすように言うと、零はほんの少し口角を上げて曖昧に言った。
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