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 美夜は授業中、教師が黒板に書く内容を元にしつつも、自分なりの説明や工夫を加えてノートをとる。自分の成績の為にノートをとるのなら黒板を丸写ししたかもしれないが、美夜は優姫が勉強し易い様にと手を動かす。零は授業に出ていなくとも成績が良いので、美夜が心配するのは優姫のみだ。

「ねえ美夜」

 優姫と零がまだ登校して来ていない今、授業中の美夜に声を掛ける人は沙頼だけ。美夜はノートから顔を上げ、一つ飛んで右隣の沙頼に向いた。

「うん?」
「ここなんだけど……答えが合わなくって」

 美夜は示されたノートを見、綺麗に整列している沙頼の文字列を追う。すぐに間違いを発見し、小声で簡潔に指摘した。
 美夜はあまり勉強を人に教えるのが好きでは無い。クラスメイトに何か聞かれても、数学なら途中式を丁寧に書いて見せるくらいであるし、文系教科なら掻い摘み過ぎた様な説明で済ませてしまう。直接丁寧に解説するのは、優姫と沙頼に対してくらいだったりする。

「ありがとう、助かったわ」
「いえいえ」

 なるほど、と頷く沙頼は微笑んで礼を言って前に向き直った。美夜もすぐに注意を黒板に戻し、ノート取りを再開させる。
 その数分後、何か木が軋む様な音が耳に届いた。美夜はシャーペンの後ろで頬を突きながら、ちらりと視線を教室のドアへ向ける。すると予想通り、まるで泥棒の様にこそこそと動く優姫が居た。
 沙頼と目を合わせて小さく笑い、何事も無いような顔で優姫が席まで来るのを待つ。優姫は美夜らが座る前の机の座席スペースを四つん這いで移動し、机の下からひょこりと顔を出した。

「ふー……」

 今授業を行っている教師はそこそこ年配で、優姫や零が遅刻して来ても咎めないと言う寛大さ。単に気付いていないだけかもしれないが。
 優姫が無事に席に到着すると、小声で挨拶を交わす。と言っても、優姫はすぐ机に突っ伏して眠ってしまうのであまり意味は無い。

「あ、そうだ美夜」
「何?」

 眠る体勢を取り掛けた優姫だったが、何か思い出したようで、顔を伏せる寸前で美夜の名を呼んだ。眠そうな優姫可愛い、と密かに微笑んでいた美夜は、僅かに肩を揺らした。

「さっき零とたまたま会ったんだけど、厩にサボりに行っちゃった。……やっぱり、零をコントロール出来るのって美夜だけだと思うよ」

 私が注意しても聞く耳持たないし、と溜め息を吐く優姫に苦笑する。美夜は、零が絶対の信頼を置いているのは優姫に対してだと考えているので、零の色々な態度は信頼しているが故に起こる物だと思うのだ。
 優姫の言う事を聞かないのもその延長だろう。元々、誰かの指図を受けたがら無い質(たち)である事も手伝って。
 学校に来てって、昨日一応言ったのにな。
 夢の世界へ旅立ってしまった優姫から視線を外し、美夜は一人欠伸を噛み殺した。




 普通科の生徒はニ講目を受けている時間帯、零は一人厩で白リリィ号のブラッシングをしていた。
 つい先程までいた、普段厩を管理している初老の男性からの許可も得ている。零が授業中に厩を訪れる事は珍しく無いので、それについては突っ込まれなかった。

「……お前、俺の事恐くないのかよ」

 大人しくブラッシングされている白リリィ号に問うてみるも、当然返事は帰ってこない。
 草食動物は本能でか、吸血鬼を恐れる傾向があるらしい。しかしここの馬達は、今まで零が来たからと言って荒れた事が無いのだ。白リリィ号に限って言えば、人間に対してさえ大人しくは無い。どういう訳か、美夜は例外らしいが。

「変なヤツだよな、お前も……」

 いつも自分の近くにいる、二人の少女が頭に浮かぶ。"変なヤツ"呼ばわりするのも可笑しいが、彼女らはいつも零の期待とは正反対の行動をする。だが結局、自分はそれに救われてるのだろう。ガシガシとブラッシングする手は止めずに、小さく自嘲気味に笑う。
 吸血鬼になった事が心の底から忌々しいのは変わらない。だが、接する態度を全く変えずに受け入れてくれた存在があるからか、絶望の沼からは抜け出せた気がする。
 そういや、優姫がサボるなって言ってたっけか。
 ここに来る直前の出来事を思い出した。零も優姫も遅刻はいつもの事だ。その上、教室へ行ってもお互い眠っている時間の方が多いので、優姫に注意されても説得力が全く無い。

「……ブラッシング終わったら行くか」

 授業に行っても眠るだけだが、一応出席したことにはなる。それに、しばらくは首の絆創膏が外せない美夜の事が心配で無いと言えば嘘になる。昨夜、学校に来いとも言われているし。
 自分が教室に入ればきっと向けられるであろう、美夜のふわりとした笑みが容易に想像出来て苦笑した。





 放課後、理事長室に美夜の姿があった。本当ならば優姫と零も居るはずなのだが、二人は補習を言い渡されて教室に残っている。

「ちょっと急にお客様が来ることになっちゃってね」

 理事長が苦笑して切り出すと、美夜は同じように小さく笑う。話し手である理事長と同じ表情を美夜が浮かべる事で、理事長は自然その先が続け易くなる。
 彼女は誰に対してもこの様な反応をするらしく、それが美夜が好かれる理由の一つだろうと理事長は勝手に納得していた。

「悪いんだけど、その人を門から月の寮に案内して、後でここに連れて来て欲しいんだ」
「月の寮ですか?それに、出待ちは……?」

 零と優姫が補習で遅れるかもしれないのに、と美夜は首を傾げる。その首には絆創膏が張ってあり、理事長が昨日出かける前までは無かったものだ。
 当然理事長はその絆創膏の下に何があるか分かっているわけだが、あえて聞くことはしない。美夜も隠せないと分かっているからなのか、理事長の視線がそれに向いても慌てる様子は無い。
 本当に強い子だ。
 ハンター協会の協会長に似なくて良かったとつくづく思う。

「"一翁"と呼ばれる、一条拓麻くんのお爺様でね。"表の世界"では大企業を育て、"闇の世界"では<貴族>の中でも筆頭の一族の長っていう……まあすごい人なんだ。吸血鬼達を統率する"元老院"って機関の偉い人だったりもするし」

 早口で言い切ると美夜は、ほう、と呆気にとられた様に返事をした。しかし来客がどのような人かは想像できたらしく、確認する様に口を開く。

「そのすごい人が来て、夜間部生がお出迎えをするから授業が無いんですか?」
「そうそう。全員欠席だよ、見事に」

 大袈裟に肩を竦めると、美夜は小さく笑う。

「錐生くんと優姫には、補習に専念するよう連絡しておくから」
「了解です。お客様はいつ頃?」
「半時間後くらいかな」

 美夜は腕時計を確認し、分かりました、と頷いた。彼は少々独特な雰囲気だけれど、美夜ならば失礼もないだろう。
 元老院の上層部が<レベル:U>の存在を知っていることも確認済みである。美夜がそうであるとは知らないだろうが、枢でさえ直ぐには気付かなかったのだから、案内する間に気付かれる可能性は低い。
 理事長は、快諾してくれた美夜にほっとして笑んだ。




 いつもなら月の寮の前で押し潰されている時間、美夜は学園の出入り口である門の一つの傍に立っていた。生徒が外出用に使うものでは無く、月の寮近くにある、主に吸血鬼達の使う門。
 薄暗い中、正面の坂道を登って来た真っ黒いリムジンが門の前に付けた。運転手が後部座席のドアを開け、一人の男性が降り立つ。
 思わず背筋の伸びる厳めしい顔つきに白い髭を蓄え、その鋭利な視線は、並の者ならば速攻で逸らしてしまうだろう。自身の経歴に見合った貫禄溢れる様子は、夜間部生が全員欠席してしまうのも頷けた。

「ようこそお越し下さいました、黒主学園守護係です。一条拓麻さんのお祖父様でいらっしゃいますね」

 美夜が丁寧に頭を下げて告げると、一翁は見定める様にこちらを見る。美夜は怯む事なく微かに笑み、言葉を続けた。

「月の寮までご案内させて頂きます」
「……ああ」

 一翁に背を向けて歩き出すと、少し間隔を開けて着いて来る気配がした。運転手は車で待たせるのか、歩くのは美夜と一翁の二人だけ。
 美夜は笑みを仕舞い、並木を眺めながら補習中であろう二人の事を考えていた。
 月の寮の敷地にある小さな森に入ったとき、不意に一翁が口を開いた。言うまでもなく、それまでは無言である。

「どうだ?ここは」
「……と、仰いますと?」
「案ずるな、何者の気配も無い」

 肩越しに振り返ると、一翁が表情を変えずに言った。
 美夜はその言葉に僅かに目を剥くが、直ぐに笑みを浮かべる。歩調を少し緩めると一翁との距離が近くなり、彼は美夜の斜め後ろで歩く速度を合わせた。

「一応、平和ですよ。私もでき得る限りの事はしているつもりです」
「だろうな……お前の行動も、その首を見れば大体分かる」

 美夜は苦笑して絆創膏に手をやる。そこを見る一翁の表情は、ほんの少し呆れている様に見えた。

「……こうするしかありませんでしたし」

 何の為に、とは言わなかったが、一翁は大方察しが付いているらしく追及はしなかった。しかし恐らく、美夜が自分の意思で守りたい存在を増やした事には気付いていないだろう。

「……叱られるだろうな」
「ちゃんと謝っておきます、次に会った時に。……で、そちらは?」

 一翁と話す美夜に恐れの色は一切無く、気さくとはいかないまでも詰まる事無く言葉を続ける。一翁も、美夜の堅苦しく無い様子を気にする風も無く、淡々と述べる。

「問題無い。順調だ」

 そう一翁が言い切ると、美夜は笑みを深くした。仮面等では無い、ふわりとした笑顔。
 そっか、まあ当然か、と呟く声も楽し気なものになってしまう。だが一翁に気の抜けた様な笑みをあまり晒すのもどうかと思い、何とか留めて静かな笑みに切り替えた。

「よろしくお願いします」
「お前に言われずとも」

 小さく頭を下げると、一翁は鋭いその目を僅かに細めていた。一翁が微笑むなんて珍しいものを見た、と内心驚きつつも表面には出さない。
 そこから会話は再び無くなり、美夜は前に聳え立つ洋館を一翁に示した。

「……こちらが、黒主学園月の寮になります。また後程、理事長の所までご案内させて頂きます」
「ご苦労」

 美夜は月の寮の扉に手を掛け、自身は脇に寄りながら、両開きの扉の片方を引いた。扉の開く音に続いて木の軋む音、そしてロビーに集まる夜間部生が息を呑む気配がした。
 本当に夜間部生全員が正装してロビーに集まっており、硬い面持ちでこちらに注目している。

「……その様に畏まる必要は無い」

 一翁が美夜の前を通り、寮内へ足を踏み入れる。

「私はただ、孫の顔を見に来ただけなのだから……」

 コツ、と一翁が枢の前で足を止める。枢の横にはどこか焦った様子の拓麻がおり、何を考えているか分かり辛い双方に注意しているようだった。
 美夜は一翁が立ち止まったのを見てその場で静かに一礼し、扉を閉めようと手を添える。たまたま莉磨と目が合うと、彼女は同情する様な溜め息を寄越した。それに苦笑を返し、実の孫でありながら一翁を苦手とするらしい拓麻に心の中でエールを送った。




 一翁に続いて枢の部屋から出た拓麻は、密かに溜め息を零していた。祖父が月の寮に訪れてから約一時間が経っていた。ロビーに夜間部生の姿は無く、皆私室で大人しく過ごしているらしい。
 ああ、何事も無くて良かった、と先程までのやり取りを思い浮かべて頭が痛くなる。枢と一翁は色々な面で"合わない"ので、ただ元老院や吸血鬼達についての話をしているだけなのに空気が痛いのだ。
 枢がこの学園にくる際、一翁の後見人を断った事も大きいだろうが。

「……拓麻」
「はい、お祖父様」
「……お前は随分枢様に信頼されているようだな……きちんとあの方を見張れ。お前がこの学園に通う事を許しているのは、その為なのだから」

 ロビーの真ん中で立ち止まった一翁が、淡々と言った。彼の事だ、夜間部生の気配がない事を確認しているのだろうが、この学園の平和を壊されたくない拓麻からすれば、心臓に悪い発言である。
 吸血鬼界は今、"元老院派"と"王権懐古派"の大きく二つに分けられる。
 吸血鬼界の王であった、枢の祖父にあたる玖蘭の先々代当主が王制を廃止してから設置されたのが、吸血鬼達を統率する元老院である。だが元老院を支持する吸血鬼達もいる反面、かつての王制を求める者も多い。
 そしてこの学園にいる吸血鬼達の殆どは王権懐古派。玖蘭の名を持つ枢がいるのだから当然だと言える。対して元老院派は、一条家である拓麻と支癸家である千里のみだと言っていい。
 拓麻は人懐っこい笑みを浮かべた。

「僕は、友人の不利益になることはしませんよ」

 元老院のトップである一翁が、その気になれば軍勢を作るのも容易い、王の血筋である枢を監視しておきたい気持ちも――分からなくは無い。
 しかし拓麻も千里も派閥云々で連んでいる訳では無いし、枢とは幼い頃からの付き合いで、友人として支えてやりたいと思っているだけだ。
 一翁がこちらを見る目を鋭くしたので、拓麻は本日何度目か分からない冷や汗をかいた。

「に、睨まないで下さい」
「……本当に、お前は」

 視線を逸らした一翁が、不自然に言葉を切った。一翁らしくないそれに拓麻は笑顔を引っ込めて様子をみる。一翁はどういう訳か、瞬時嘲る様な笑みを浮かべてから拓麻へと姿勢を戻した。

「……"あれ"とよく似ている」
「"あれ"……?」

 意味が分からず首を捻るが、教える気は無いらしく止めていた足をゆっくりと動かし始めた。
 ああ、やっぱり苦手だ、と泣きたい気持ちで一翁に続く。寮の扉を前にして、そういえばと声を掛けた。

「じゃあ、黒主理事長の所までご案内しますね」
「構わん。守護係がいるらしいからな」

 美夜の事だと直ぐに分かった。彼女が平然と一翁をここへ連れて来たのはほんの一時間前の事。理事長から頼まれていたのだろう。
 一翁は手を使わず、吸血鬼の能力により扉を派手に開け放つ。寮へ入って来た時とは正反対な大きな音が寮内に響いた。

「あ、皆」

 寮の外すぐに、風紀委員という名の守護係が三人立っていた。丁寧に腰を折る美夜の隣で、慌てて礼をする優姫と不機嫌丸出しの零。

「……ではな、拓麻」
「あ、はい。失礼します……」

 結局、拓麻は一翁を三人に任せることにした。あの一翁と二人きりで寮まで来た美夜もいることだし。
 遠ざかる四人の後姿を見送りながら、昨夜からやや不機嫌な枢に何か差し入れでもしようかと考えていた。

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