19
ドライヤーの温風を浴びる優姫の隣で、美夜はタオルで髪を乾かしていた。決して優姫がドライヤーを独占しているからではなく、美夜にはあまりドライヤーを使う習慣が無いからである。
ただ、ドライヤーは髪を乾かすものだ。今の優姫の様に、正面から風を浴びるものではない。
「……優姫?目、乾くよ」
鏡に映った優姫を見て問いかけると、彼女は我に返ってから苦笑して、ドライヤーを後ろに回した。優姫の後ろ髪が踊りながら水分を飛ばす。
ここの所、優姫は呆けている事が多くなったように思う。何か考え事をしているらしいが、どの様な事であれ、あまり思いつめなければ良いのだが。
「あのさ、美夜」
「うん?」
「私って、何にも知らないんだなーって思って」
力ない笑みを浮かべる優姫は、わざと明るい口調で話しているのだと分かった。鏡越しに目が合うと、優姫は笑顔で肩を竦めた。
美夜は先を促すよう微笑んで、ん?、と小首を傾げる。長髪は粗方乾いたので――と言っても背中は冷たいが、どうせ部屋に戻れば着替える――髪の水滴で湿ったタオルを畳んだ。
「だってさ、吸血鬼の階級の事とか、枢センパイが<純血種>って事もそうだし……二人の事だって」
優姫がドライヤーの電源を切ると、バスルームは途端に静かになった。優姫が今度は髪に櫛を通すのを眺めながら、美夜も髪に櫛を通す。
「あ、分かってるんだよ、二人が別に隠してる訳じゃないって。話せなくて当然だと思うし、無理に聞き出すつもりも無いし」
変な事言ってごめんね、と早口で謝罪する優姫に、思わず頬が緩む。知りたいのなら「知りたい」と素直に言っても良いだろうに、優しい彼女は美夜や零の立場をまず考えてくれるのだ。
確かに全て話せるわけではない。だが、話せない事ばかりではないし、優姫の不安が取り除かれるのなら話さない必要も無い。
櫛を持つ手が不意に止まる。髪が絡まってしまったようで、美夜はそれを解きながら言った。
「じゃあ、気になることは聞いて良いよ。正直あんまり覚えてないんだけどね」
「え……」
「その代わり、さ。優姫も色々教えてね」
きょとんと表情を無くした優姫に悪戯に笑いかけると、途端優姫は嬉しそうに笑った。その優姫の表情を見て、美夜もまた笑顔を浮かべる。
やっぱり、優姫には笑顔が似合ってるもの。
絡まった髪を解き終わり、美夜は洗面台に凭れた。優姫も同じように鏡に背を向けて、両手を洗面台につく。優姫は何を問うか思案して、思いつくと美夜の顔を覗き込んできた。
「どこに住んでたか、とか?」
「家族とは、この学園からは気候が変わるくらい遠い所。その後はしばらくハンターを引退した人の所で……その後は、安いアパートでバイト三昧」
「す、凄いね」
さらりと述べたのだが、優姫は顔を引き攣らせていた。特に最後に引っかかったようだが、深く触れられないと思ったのか、次の質問に移る。
優姫にあまり嘘を重ねたくなかったので正直助かった。
「じゃあ、兄弟、とか」
「えっとね、姉と弟が居たみたい」
「っあ……ごめん」
視線を逸らす優姫の顔に、しまった、と書いてある様で思わず美夜は笑ってしまった。聞いていいと言ったのはこちらなのに。
「ふふ、そんな顔しないで。最後の日くらいしか覚えてないし」
「え……うん」
戸惑う優姫から壁に顔を向けた美夜は、優姫からの問いを待ちながら、自身の頭の中を確認する。こんな場面で口を滑らせるのは御免だ。
「そういえば今まで学校は?」
「ん、通った事無いよ。一般常識はハンターの所で身に付いたけど」
「ご家族が亡くなった十年前は、美夜はまだ六歳だからそうなるよね……ここが初めて?」
「うん、初めて」
頷くと、優姫はまた顔を引き攣らせた。可笑しな事は言っていない筈だが、と自らの発言を顧みるもやはり引っ掛かる様な事は無い。
学校行った事無いのにその成績なんだ、とブツブツ呟く優姫に、漸く彼女が何が言いたいのかを察した。
「……相当勉強したからね」
休む暇も無く、まさに寝る間も惜しんで参考書を脳内に叩き込む毎日を思い出し、美夜は明後日の方向へ視線を投げた。投げ出す事は無かったが、今再びそうなれるかと問われれば頷きかねる。
「凄いよ、凄いよ美夜……」
人には得手不得手があるもんだよ、と苦笑して、肩を落とす優姫の頭を頭を撫でる。優姫は力無く礼を言い、体育なら良いのに、と呟いた。
丁度その時バスルームのドアがノックされ、立ち直れて居ない優姫の代わりに美夜が声を上げる。この時間にここを訪れるのは理事長が零くらいだと推測し――はっとして急いでドアを開けた。
「ごめんね、零」
「……上がってるなら、早く出てくれ」
はあ、と溜め息を吐く零に陳謝して、美夜は急いで優姫と荷物をまとめた。どことなく暗い空気を背負った優姫に続いてバスルームを出たのだが、零と入れ違った時、不意に香った匂いに足を止めて零を見上げた。零もそれに気付き、バスルームに入ってシャツのボタンに手を掛けたところで視線を寄越す。
どうかしたのか、と無言で問いかける零に、美夜は小首をかしげて呟いた。
「硝煙……?」
火薬の発火による煙で、銃を発砲した後にもする独特の匂いだ。彼の使用する対吸血鬼用武器が銃なのだからさして不思議でもないのかもしれないが、発砲音を聞いた記憶が無い。
まさか何かあったのか、と内心焦り始めた美夜の気を知ってか知らずか、零は、ああ、と小さく頷いた。
「射撃場で、少し撃ってただけだ」
「え、そんなのあるんだ……」
感心していると、数歩先で立ち止まっている優姫が返答した。漂っていた暗い空気は既に無い。
「ここの地下にあるんだよ、射撃場」
「……零くらいしか使わないよね?」
「まあ……そうだね」
この学園は、ハンター協会本部跡地に建設されたものだ。そう言えば、射撃場や牢があると聞いていたなと思い出す。
もしかして理事長も使うことがあるのかも、と思ったが優姫もいるので口には出さなかった。
「興味ある?」
「ちょっとね」
今度覗いてみようと思いながら、零に就寝の挨拶をしてバスルームの扉を閉める。
風紀委員業務の後に射撃訓練とは何と真面目なのだろう。単に、むしゃくしゃしていただけなのかもしれないが。
「あ、優姫の話も聞かせてよ。枢さんとは昔からの付き合いなんでしょ?」
私的居住区の廊下を歩みながら、美夜はにこりと笑う。もうあまり自分に聞く事も無さそうだと思ったからだ。
あえて枢の名を出したのは、その方が優姫も楽しめる――女の子ならば、恋い慕う人物の話をするのは好きだろう――と踏んで。
優姫は声を詰まらせ、視線を泳がせて頬を掻く。彼女の頬に差す僅かな赤色は風呂上りのせいではない。
「え、えーっとね……」
寮への足取りをわざとゆっくりにし、美夜は相槌を打ちながら、たどたどしい優姫の話に耳を傾けた。
雪山で理性を失った吸血鬼に襲われそうになったのを枢に助けてもらった事、理事長の所に預けてくれた事、記憶が完全に向け落ちていたが引き取ってくれ、育ててくれた事、何かあると枢が会いに来てくれた事――四年前に、家族を<純血種>に殺された零が来た時、壊れそうな彼を繋ぎとめるのに必死だった事等。
美夜は丁寧にそれを思い描き、頬を緩ませた。理事長が沢山写真を撮っているらしいので、また機会があったら見せてもらおうとも企む。
「じゃあ、また数時間後ね」
喋りすぎた気がする、と優姫は乾いた笑みを零しながら言った。多くの話が聞けた美夜は、優姫が明るさを取り戻してくれた事に満足して笑う。
「お休み、優姫」
「お休みー」
静まり返った寮の廊下で、控え目に挨拶を交わして優姫と別れた。
*
部屋に響く銃声と薄く漂う硝煙。銃弾が人型の的に容赦無く撃ち込まれ、やがて壊れる。その身に銃弾を受け続けた的は無残にも穴だらけだった。
零は片手で構えていた[血薔薇の銃]を下ろし、迷い無く再装填する。だが銃は構えずに、的を取り替えようとそれを置く。緊張を解いたついでに、零は射撃場の入り口で耳をふさいでいた美夜に目をやった。
「……楽しくないだろ、こんなの見ても」
「なんか凄かった。鬼気迫る感じで」
彼女には非常に珍しく会話になっていない。恐らく初めて見るであろう射撃に、内心興奮でもしているのだろうか。
「よく来るの?ここ」
「あんまり。……気が向いたら」
昼間は学校、夜は見回りとあって、そう頻繁に来られる訳ではない。今も夜の見回りの後で、何となくイラついて下りて来たのだ。美夜は優姫から零が射撃場へ下りた事を聞いたらしく、入浴を後回しにして見に来たようだった。
「お前は……」
「何?」
美夜の首の絆創膏に視線を移し、言葉を紡ぎかけて止めた。美夜は扉に凭れて首を傾げ、先を促すようにじっとこちらを見つめる。
いつだったか、聞いた事があった。吸血鬼は血で相手の考えや思いを把握する事が出来るのだと。"読もう"と思わずとも強すぎる思いは伝わるし、逆に隠したいような思いであっても、"探る"姿勢があれば読み取れる。その力は位が高いほど強く、<純血種>ともなれば記憶を読む事も可能であるらしい。
零は二度彼女の血を飲んだ。一度目はただ本能のままに、二度目はある程度の理性を持っていたから飲みすぎることも無かったが――理性を保っていたせいなのか、自分のものではない感情が流れ込んできた気がした。
読み取る、とまではいかない。その様な意思は無かったし――心を覗いているようでいい気分はしない――その時はそこまで頭も回っていなかった。
「……お前は、一体何を背負ってる?」
正の感情か負の感情かは分からなかったが、何かが複雑に絡み合っている様に感じた。いや、逆にとても綺麗な水のようであったとも思える。
要は、訳が分からなかったのだ。
「背負って……?あ、血?」
美夜はこちらの真意を探るように呟くが、何故零がそう思ったのかの検討がすぐに付いたらしかった。ハンター協会との関わりが長いからか、血で読み取れることがあると知っているらしい。
「ああ。美夜の血は、そういう味がした」
「多分だけど<レベル:U>のせいだと思う。普通の血とは違うから……私の感情に、変に絡まっちゃうんじゃないかな」
「……そういうもんか」
「分かんないけど……あ、零には多分悪い影響は無いよ、私の血」
ちょっと力が強くなったりするかもだけど、と美夜は苦笑する。
吸血鬼となった自分には因子を統率する力があるし、そもそも吸血鬼の因子は宿主の身体を離れた時点でその活性を失う。ただ<純血種>のものは例外らしく、だからこそ<純血種>の血肉には特殊な力があると言われている。
美夜の持つ因子は<純血種>のそれに近い――要は、普通の吸血鬼の因子と違って体外にあっても活性を失わない可能性がある――ので言ったのだろう。だが今の所特に変化はない。
「体の調子が悪くなったらごめんね。あ、そういえば英さんも大丈夫だったかな……」
話を逸らされた、のか。そう漠然と感じたが問い詰める事はしたくないので、それ以上その話題には触れなかった。
「俺ももう切り上げるから、美夜は風呂にでも行ってろ」
「ん、そうしようかな」
早く上がるからね、と言い残して完全防音仕様の重厚な扉から出た美夜を見送り、宣言してしまった以上ここに長居は出来ないなと後片付けを始める。
バスルームが開くまで何か飲んで待とうか、とどうでも良いことを考えながら穴だらけの的を片した。
美夜がバスルームに到着すると、丁度優姫が出て来た所だった。優姫は、上がるまで待ってる、とバスルームに一番近い部屋に向かった。
「…………」
シャワーを頭から浴びながら、先程の零の言葉を思い返す。何を背負ってるのだと彼は問うた。正直な所、かなり驚いた。血が意思を伝えてしまう事は当然知っていたのだが、こちら側が注意していれば伝わりにくくはなる筈なのだ。
何故。いや、彼の様子からして"伝わりにくかった"のは確かだ。それを美夜が驚いてしまう方向に解釈したのは、単に彼が鋭いからだろう。
「……背負ってはないよね」
別に何も背負ってない。何かを背負える程、自分は中身のある人間ではないと思っている。ただ、自分のすべき事をやり通すだけだ。
長髪が、顔や身体に張り付いて気持ち悪く感じた。だらりと下ろしていた腕を持ち上げ、水分を含んだ髪を洗い始める。
まだ直っていない首筋の咬み跡は――絆創膏を剥がした際に瘡蓋(かさぶた)が取れたのか――髪を洗っていると湯が直に当たって僅かに沁みた。
美夜はいつもより水分を多く含んだ髪をタオルで乾かしながら、優姫のいるであろう部屋に向かった。零の事を忘れたわけではなく、その部屋はいつも風呂待ちに使うので、優姫と一緒に零もいるだろうと思ったのだ。
「あれ……」
だが、部屋の前に黒いコートを着た人物がいた。後姿なので顔は見えないが、その立ち姿と髪型で誰であるかは判別出来る。
美夜は、どこかいつもより威圧感の強いその背中に声を掛けた。
「枢さん?」
「……こんばんは、美夜」
驚くことも無く肩越しに振り返って微笑んだ彼に釣られて微笑する。こんな時間に、と思ったがここは"理事長の"私的居住区な訳で、理事長に用事でもあったのだろう。
美夜が枢に歩み寄り、部屋を覗くと、案の定優姫と零がそこにいた――が、優姫が眠ってしまっているのを見て嫌な予感がした。
零と枢は猛烈に仲が悪い。宥め役の優姫が眠っているのだ、美夜は自分が来るまでのこの部屋の空気を想像して内心震えた。
「そんな顔しないでくれるかな……別に喧嘩してた訳じゃないよ」
「なら、良かったです」
一応笑みは浮かべておくが、信用出来ない。現に今、零の眉間には深い皺が刻まれている。
この二人なら同じ空間にいる時点でこんな風になるんだろうけど。
美夜は部屋に入り、さり気なく零と枢の間になる位置に立った。枢は去るかと思ったのだが、何か言いたい事でもあるのか、ドア付近に立ち止まってじっとこちらを見ていた。
「……美夜」
「はい」
自分に話し掛けられるとあまり思っていなかったので、何だろうかと小首をかしげる。枢は真意の読みにくい目をまっすぐに美夜に向け、溜め息混じりに言った。
「君が優姫を守ってくれるのは頼もしいけど……無茶はしないことだよ。優姫は、錐生くんが守るべきなのだから」
後半、鋭い視線は美夜の後ろ側でソファに座る零に向けられていた。美夜は零が何か言い返す前に、枢の注意を自分に戻す。
枢が過去に零が優姫から受けた恩を指して言っているのだとは安易に予想できた。同時に、美夜には「出しゃばるな」と言っているようにも聞こえてしまった。だって彼は、優姫の方が咬まれて欲しかったはずだから。本心はそうでなかったのかもしれないが。
「……私は二人とも大切だと、前に言いましたよね。私は私なりに、その場での"最善"を選びます」
「自分を傷つけても?」
「大切な存在が守れるなら」
大人しくするつもりは無い。枢が優姫を傷付ける事は無いけれど、零を傷つける事も許さない。枢は美夜のそういった意思を感じ取ったらしく、一度視線を零にやってから小さく笑った。
「……一体、何が君を――」
枢がふと笑みを消し、悲しげな目を向けて来た。この場面でその様な表情になる理由が分からない。
「――そこまで危うくさせているんだろうか」
美夜は僅かに目を剥いた。彼に何も知られていない筈なのに、自分の事を全て見透かされているような気さえした。
「……多分、私はもうずっと前から"こう"なんです」
微笑んで何とかそう言ってみるものの、枢は悲しそうにこちらを見る。同情や憐れみなのだろうか。
枢は、そう、と呟いてこちらへ歩み寄り、徐に腕を伸ばしてきた。その高さや様子から頭を撫でられると分かったので、抵抗もせずにじっと動作を見つめていた。
枢の腕が美夜の頭に乗る直前、それが不自然に空中で止まる。急に背中に感じた気配を見上げると、零が枢を睨みながら腕を掴んでいた。
「……理事長への用事、さっさと済ませたらどうですか、玖蘭先輩」
「そうだね……」
一気に部屋の気温が下がったのは気のせいだと思いたい。枢の腕を零が叩く様に離すと、枢は先程までの悲しげな表情から一転、綺麗な微笑みを浮かべた。
「お休み、美夜」
「お休みなさい」
黒のコートを翻し、枢は何事も無かったかの様に部屋から去っていった。
途端、背中から刺々しい空気がひしひしと伝わってきた。別に悪い事はしていないのだが、妙に居心地が悪い。動こうにも動きにくい。
遠ざかる靴の音が完全にしなくなってから、美夜の後ろに立つ零がようやく雰囲気を和らげる。それにほっとしつつ、振り返って零を見上げた。
「じゃあ私は優姫起こし――」
「俺は、そんなに弱くない」
美夜の言葉を遮って、零は低く言った。不機嫌の抜けきらない声に苦笑しそうになったが、その矛先が自分に向いている事に気付かない程、美夜は鈍くない。
枢との会話の内容が気に食わなかったのだろう。どの辺りが、というのはピンと来ないが、今の彼の台詞から推測は出来る。
「……知ってるよ。でも、大切な人は守りたいの」
「勝手に零を守る」と発言したのは記憶に新しいが、やはり彼は気に入らなかったのだろう。零の言う通り、彼は強いから。
そう思って返答したのだが、零は「そうじゃなくて」と苛立ち気に呟いて嘆息した。
「……お前は自分をもっと大事にしたらどうだ」
「?……してる、けど」
「自ら進んで血を流すことの、どこが」
きょとんと零を見上げたままでいると、零は眉間の皺を深くした。
「……美夜は、自分に無頓着すぎる」
「そうかなあ……」
指摘されている事が良く分からずに首を捻る。零を苛立たせてしまっている原因が自分にあることは分かるのだが、何がそうさせているのかが分からなかった。分からない以上、どう対応すればいいのか判断出来ない。
「……分からないなら、いい」
零は諦めた様にまた小さく息を吐き、だが苛立ちは影を潜めてしまっていた。むしろ、先程の枢と同じような目を向けてくる。
私、何かヘマをしたかな。自分で気付かない内に、なんてあってはならないのに。
ここ数日の自分の行動を驚異的なスピードで思い起こしてみるが、特に可笑しな事も無かった。血をあげた時に何か見られたのかと不安になったが、そうだとすれば枢の反応の説明が付かない。
「……ごめん」
「何で謝る?」
「分からないから」
そう言うと、零は美夜の方へと腕を伸ばしてきた。軽く引き寄せられて、まるで壊れ物の様に抱き締められる。
零は本当に稀にだが、こうして美夜を緩く抱き締めることがあった。決して、慣れはしないし、この行動の意味も分からないのだけれど、嫌な感じはしないので拒むことはない。
いつもの様に美夜は身体を硬くして、感じる体温に動揺する。血を飲むようにと迫った時は自分も必死なのであまり意識しないのだが、こういう場面では話が違う。
「えっと……ゼ、零?」
「……"頼れ"って前に言っただろ」
「あ、と……うん」
確か、英と少々あった時のことだ。忘れていた訳ではないので素直に頷く。
「お前が優姫や俺にそう思うように……俺だって、お前を守りたいんだ」
「え、あ、うん」
「だから……何でも一人で抱えようとするな」
頭上から降って来た零の声は、どういう訳か苦しそうに聞こえてしまった。美夜は緊張を何とか緩めてその意図を把握しようと、零の肩を見ながら意識を傾けた。
『零は、どんな形であれ頼って欲しかったんだよ』
ふと優姫の言葉が頭をよぎり、漠然とだが零の言いたいを理解して、気付かれないよう僅かに口の端をあげた。
零って過保護なのかな。
他人から純粋な感情を向けられることに、生憎慣れてはいないのだ。だが、少し嬉しかった。零は、美夜にとって大切な存在だから。
「……優しい、ね。零は」
「お前くらいだ、そういう事言うの」
美夜がある程度理解したのを感じてくれたのか、零が僅かに笑う気配がした。零が笑うところは見たかったけれど、至近距離で見上げるのには抵抗があったのでやめた。
美夜は僅かな笑みを浮かべたまま、額を零の鎖骨辺りにあてた。今度は彼が戸惑ったのを一瞬感じたが、それはすぐになくなる。
自分と零の足先を見ていた瞼を軽く下ろし、だがすぐに目を開けると額を離して一歩退いた。緩い拘束は抵抗無く離れる。
「じゃ、私は優姫起こして寮に戻るね」
「ああ」
改めて零を見上げて微笑むと、零はもう苛立ちも悲しげな色も浮かべていなかった。
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