20


 数分間の出来事だった。いや、一分かかっているのかさえ怪しい。数秒間、の方が感覚的には近い。

「おとうさん……?おかあさん?おねーちゃん?」

 少女がか細い声で呼びかける。
 夕食を終えて、その少女は弟と部屋で絵本を読んでいた。だが突然家族の悲鳴が聞こえ、身を震わせた。すぐにそれは静かになったが、楽しげな家族の声が聞こえない。どうしようもなく不安になって、泣きじゃくる弟の手を引いてリビングに向かっていた。
 恐る恐る進みながら呼びかけるも、返事が返ってこない。誰かがいる様子はあるのに、声が聞こえないのだ。賑やかだった家に、今は弟の泣き声しか聞こえない。

「みんな……?」

 リビングに近付くにつれ、いつもはしない臭いがした。鉄の臭いと、何かが身体に纏わり付くような不快な感覚。いつの間にか体がガクガクと震え出し、弟の手を握っていないほうの手を壁について身体を支えていた。

「みん――ッ?!」

 リビングに足を踏み入れ、その光景に目を見開いた。夕食を楽しんでいた筈のリビングは至る所が赤に染まり、それを変わらず電気が照らしている。倒れる三つの塊を視界に入れ、「あ、あ、あ、」と意味を成さない声を漏らした。
 アレは、父だったモノ。
 アレは、母だったモノ。
 アレは、姉だったモノ。
 そしてその部屋の中に、一つの影があった。

「――ああ、お前だな」

 佇む人がこちらを見ると同時、煩いほどだった弟の泣き声が消えた。握っていた手も、空になっていた。変わりに、背後の壁に何かが叩きつけられたような鈍い音と、グシャ、という生々しい音がした。後ろから飛んできた何かが、腕や頬に掠る。
 少女は、振り向いてはいけないと本能的に感じ、体こそ震えているものの悲鳴を上げることを忘れて、惨状の中に立つ人影を見上げていた。
 体中を赤色に染め上げたその人物は、こちらを見て静かに微笑んでいた。
 ――――そこで、意識は途切れた。





 黒主学園陽の寮の女子寮の、陽光の差し込む一室で、美夜は膝にソラを乗せて私室のベッドに腰掛けていた。既に制服に着替えて身支度は整っている。しかし不本意な早起きをしてしまったせいで、時間に余裕があるのだ。二度寝しようにも、どうにも気分が悪かった。

「……随分、昔の夢を」

 深く深く溜め息をついて、苦々しい表情のまま手に持った資料に視線を戻す。眠る前にも目を通してあるのだが、内容が内容であるだけに、つい何度も読み返してしまう。
 例の如く、ハンター協会からの郵便物だ。返答を要するような報告書を上げていないので、何かあったのかと少々焦ったが、書かれていた二つの用件の内、一つが予想外の事だった。

「仕方ないんだけどな。確かに」

 資料を見ながら何度も自分に言い聞かせていた。分かっている、仕方が無いのだと。ちゃんと分かっているのに苦い表情になってしまうのは、これもまた仕方が無い。
 美夜は大きく溜め息をついてソラをベッドに座らせ、持っていた資料は本棚の深い赤のファイルに挟んだ。
 もう、学校行こうかな。
 部屋にいてもすることもないし眠れないし。そう思い、まだ時間は早いが荷物を手に部屋のドアに手をかける。気分の悪さも晴れないままだが、外を歩けば多少マシにもなるだろうかと、静まった廊下へ足を踏み出した。




「あ、朝ご飯食べるの忘れた……」

 美夜が空腹感を抱いてそれに気が付いたのは、一講目が終わってからだった。朝起きて呆としたまま早く登校したからすっかり頭から抜けていた。
 今日は優姫も零も珍しく朝から教室にいた。美夜の呟きを聞いて、欠伸をしていた優姫が真っ先に反応した。

「だ、大丈夫?朝ご飯大事だよ!」
「大丈夫大丈夫。何か食欲もあんまり無いし」

 小さく笑うと、優姫の向こう側から沙頼が顔を覗かせた。

「体調悪いの?」
「ううん、食欲無いだけ」

 夢で見た"赤"が頭から離れてくれないだけだ。あの夢を悪夢だと思ってはいないが――状況が状況だっただけに気分は良くない。生々しい音も耳に残っていた。
 沙頼にも小さく笑いかけながら何気無く耳を擦る。すると今度は後方から声を掛けられたので振り向くと、眉間に皺を寄せた零と目が合った。

「……さっきからどうした、耳」
「ん、何でも」
「…………」

 不満そうだ。眉間の皺が深くなった。
 これがただのクラスメイト相手の会話ならいつもの様に微笑んで躱すのだが、零相手にそれをすると彼の機嫌が悪化する恐れがある。
 優姫と沙頼が隣で首を傾げるのを感じつつ、睨む様にこちらを見る零との視線が外せずに小さくなる。

「はあ……」

 急に零は溜め息をついて立ち上がった。美夜が視線が外れた事にほっとするのも束の間、零に腕を掴まれる。
 美夜の疑問の眼差しは無視されて、零は優姫に短く言った。

「休ませる」
「あ、うん。りょーかい」

 驚きながらもどこか楽し気な優姫に、そんなに軽く承諾しないで欲しいと内心で呟くも、腕を掴む零に大人しく従った。立ち上がるのを渋ったら睨まれたからだ。

「零、私大丈夫だよ?」
「……」

 無視された。
 美夜の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれるのはありがたいが、些か強引ではないだろうか。特待生な美夜の立場だとあまり欠席・遅刻・早退はしたくないのだ。単に学校が楽しいのも理由の一つではあるが。
 腕を掴まれたまま、零に半ば連行される様に歩く。すれ違う生徒からは好奇の視線を寄せられ、二講目の始まるチャイムが鳴る。どこに行くのかと思っていると、着いたのは理事長の私的居住区だった。適当な部屋に通され、ソファに座らされた。

「零?」
「……俺が女子寮に入る訳にいかねぇし。保健室は保健医が面倒だ」
「…………私を教室に戻す気は?」
「無い」

 座った美夜の前に立つ零に確認までに問うてみるも、あっさり却下された。その表情は相変わらず不機嫌で、美夜は首を捻るばかり。心配してくれるのは嬉しいが、もう少しこちらの意見も聞いて欲しいと思う。
 美夜を見下ろしていた零が嘆息しながら半人分開けて隣に腰掛ける。美夜の座る場所も僅かに沈んだ。

「……美夜、自分の顔色がどんだけ悪いか、気付いてないだろ」

 察するに、今自分は見ていられないくらいに顔色が悪いらしい。他人から指摘されるとは、何とも情けない。あの夢は、美夜が思っている以上に美夜にダメージを与えていたのだ。
 今まであの夢を見た時は、"あの人"が傍にいてくれたから割と平気だったのに。

「……つか顔色と言うより……どこ見てるか分からないんだよ、今日のお前は」
「そう……ごめん」

 素直に認め苦笑して謝ると、零は美夜の頭を一撫でして立ち上がった。ソファから一つの重みが消える。

「今日は休めよ」

 正直、気分は優れないが体調的に問題は無い。だがここで抵抗しても無駄だろうし、その内優姫にも心配をかけるかもしれない。美夜はそう思い、耳を擦りながら小さく頷いた。

「……寝るなら、寮まで送る」
「ううん、まだここにいる。眠くなったら部屋に戻るね」

 睡魔は近くにいるのだが、せめて生々しい音が消えてから眠りたいのでそう告げた。すると立っていた零が少し悩む様に間を置いて、ズボンのポケットに手を突っ込む。

「……何か飲むか?」
「ううん、いいよ。ありがと」
「俺はしばらくここでサボるから、邪魔だったら言え」
「邪魔って……」

 美夜が零に対してその様な事を言わないと分かっていて言っているのか本気なのかは分からなかった。
 言い終わると同時、零は先程と同じ場所に腰掛ける。元の形に戻っていたソファが同じ様に沈んだ。傍にいてくれるらしい、と美夜は僅かに頬を緩める。ソファの背凭れに身を預け、天井と壁の境に視線を投げた。

「……耳、本当に何でもないのか?」
「…………うん」

 今の間は何なんだ、と隣から威圧感を感じた。それでも無理に聞き出す様子が無いのが彼らしい。
 特に話すつもりは無かったが、話せば少しは安心してくれるかな、と口を開く。もしかしてこれが彼の言っていた、"頼る"という行為になるのではとぼんやりと思った。

「昔の夢を……家族が死んだ時の夢を見たの。それでちょっと気分が晴れなくて」

 瞬時、空気が止まった様な気がした。

「……そうか」
「人間が叩き潰される音って、流石に記憶に焼き付いてるみたい」

 言いながら耳を擦る。少しの間を置いて零はもう一度「そうか」と短く言った。

「放っておけば、その内消えるから大丈夫だよ」
「眠らないのもそのせいか?」
「うん。音、消えてからにする」
「……何かあったら、言え」

 長い腕を伸ばしてきた零の手が頭に乗る。言って正解だったのだと――自分の気持ちの面でも、零の言っていた事が出来た面でも――美夜は思わずほっとした。
 少しだけ、耳障りな音が遠のいた気がする。
 美夜は前を向いたまま、もう少し力を抜いてもいいだろうかと、頭に乗る腕に手を持って行く。躊躇いがちに袖を摘まむと、それはピクリと反応した。

「……零、もう少しここにいてくれると嬉しい」

 僅かに声が震えた事に、心の中で自嘲した。
 頭に乗った手は、袖を摘まんでいた美夜の手を握り込んで二人の間に置かれる。動きがぎこちなくなっている美夜の手は、零にすっぽりと包まれた。
 ちらりと隣を窺うと、こちらを見ていたらしい零は、本当に微かに笑った。

「……仕方ねーな」

 最初にここに居ると言ったのが零であることを考えれば矛盾している様な言葉だが、裏腹に、声音はくすぐったくなるくらいに優しかった。
 零が嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。
 あの音がまた遠くなる。

「……ありがとう」
「別に……」

 微笑んで礼を言うと、零は口の端を上げたまま呟いて、視線を前に戻す。美夜も壁に視線を向けると、すぐに頭が呆としてくるのを感じた。
 体が弛緩し始めたが、ふと思い出して口を開く。やや口調が緩慢になっていたが、今更なので零の前で取り繕う事はしなかった。

「あ、こんな時になんだけど……出掛ける時は、ちゃんと優姫に声掛けてね」
「は?…………ああ、そういうことか」
「ハンター協会から、ちょっと遠いけど<レベル:E>が出るって連絡があって……それに零が向かうって、協会長が資料に走り書きしてたよ」

 昨晩から何度も見た文字が脳内に浮かぶ。
 力の入っていない声で「優姫に心配掛けちゃ駄目だよ」と付け足すと「美夜が休めなくなるしな」と呆れた声が帰って来た。

「気を付けて、ね」
「ああ」




 握った手から力が抜けて、静かな部屋で規則正しい寝息がし始めると、零は一度隣を窺ってから溜め息を吐いた。

「……こんな時でも優姫や俺かよ」

 家族が殺された時の夢を見て、平気である筈がない。「叩き潰され」たとさらりと述べた美夜だったが、やはり精神的にきつかったんだろうと思う。彼女がかなり弱っていることは、今の状況だけでも明らかだ。

「……ったく」

 零は美夜を起こさないようにと慎重に手を離すと、制服の上着を脱いで美夜の膝上を包む様に掛けた。銃のホルスターが剥き出しになるが、私的居住区内で一般生徒と出会う事は無いだろう。
 美夜と背凭れの間に腕を入れ、膝裏にも腕をいれた。ゆっくりと美夜の体をソファから離し横抱きにして立ち上がる。女子寮に入る訳にはいかないので、私的居住区内の客室のベッドに運ぶ事にした。
 美夜を揺らさないように静かに歩を進めていると、零の胸に頭を置いていた美夜が、顔を擦り寄せてくる。
 眠っているから、たちが悪い。

「っ……」

 甘えたなのはお前だろう、と以前美夜に言われた事を思い出しながら、美夜を抱く腕に少しだけ力を込めた。





 右手には[血薔薇の銃]、左手には罪状の書かれた一枚の紙。

「でももうこれで、人を殺さないで済むか……」

 床に伏せた<レベル:E>は零に銃口を向けられて、零がその引き金を引く直前にそう呟いた。最期に自我が戻ったのだろう、先程まで攫って来た少女を喰おうとしていたのに。
 その男の様子に零は何かに耐える様に眉を寄せた。銃声が鳴り響くとほぼ同時に男は灰と化し、もう男の姿は見る影もない。
 人気の無い廃墟で仕事を済ませた零は、紙をポケットに入れ、銃を懐に仕舞った。足元の灰を一瞥し歩き出そうとすると、間延びした声を掛けられる。

「ちょっとー風紀委員」
「…………」

 そこには畳んだ日傘を持った莉磨と、<レベル:E>に襲われそうになっていた少女を肩に担ぐ千里が立っていた。二人は元老院からの指令で脱走した<レベル:E>を狩りに来ていたらしいのだ。
 尤も、それは零の標的でもあったのでついさっき"始末"し終えた。

「そこで女の子拾ったんだけど、私達これから仕事なのよ。生きてるし、引き取って」
「……ああ」

 「生きてる」という言葉に、二人に気付かれないよう密かに安堵し、気を失っている少女を引き取り肩に担ぐ。吸血鬼に生きている人間を預けるつもりは微塵もない。

「……結局、ハンター協会に先越されちゃったわね」
「寮長……怒るかな」
「大丈夫なんじゃないの……」

 会話を交わしながら廃墟を出る二人とは別の方向から、零も廃墟を後にする。二人はこの後に仕事があると言っていたから、その関係者がいる可能性があるからだ。
 肩に担いだ少女を横抱きに持ち直し――そのまま街に出ると下手をすれば誘拐犯だ――さっさと学園に戻って美夜の様子でも見に行こうと足を進める。
 木の枝を踏み折った拍子に、近くにいた烏が一羽飛び去っていった。





 美夜が目を覚ました時には放課後で、月の寮の門が開く一時間程前だった。
 起きてうろついていると理事長に遭遇し、何か食べなさいとの事で軽食を摂らせてもらって――普段晩御飯は空いている時間に適当に摂る――月の寮の門前へと移動した。

「さて、今日も踏ん張るか」

 既に人だかりが出来ている。理事長によれば零はまだ戻ってきていないらしいので、優姫が一人で奮闘しているのだろう。
 早く優姫を手伝わないと。
 人だかり目掛けて駆け出し、もみくちゃにされながら何とか門前に到着した。まだ門が開いていないから、普通科生はいくらか大人しい。

「お待たせ優姫っ」
「わ、美夜!大丈夫なの?」
「うん、すっかり」

 優姫と夜間部生の通り道を挟んだ所に立った美夜は、両腕を広げて「押さないで下さいねー」と笑顔で呼びかけた。夜間部生が現れるとそんな余裕も無くなるのだが。
 すると、門の開く重々しい音がした。美夜は優姫と目を合わせて頷き、ぐっと足腰に力を入れる。聴覚を極力鈍くして――不可能なので、あくまで気分的なものだ――門をちらりと窺った。

「きゃああああああっ!!」

 白い制服が次々に現れると、目の前の壁が襲い掛かってくる様な錯覚を覚えた。転ばない様に足を踏ん張って、押さないで、と心の中で唱えていた。言っても聞いてくれないからだ。
 枢たち、夜間部の中でも上級の生徒筆頭に――帰りは最後が多いが――普通科生の間の道を歩く。枢が優姫を労っている間、暁が美夜に声を掛けてきた。通り過ぎ様に彼等と挨拶を交わすのは決して珍しくない。

「はよ、美夜」
「おはよう暁さん」

 普通科生に妬まれるのは不本意なので小声だが、この騒ぎの中なのでさほど音量を下げる事も出来ない。美夜は首を捻って彼を見上げ、ふとこの団体に人が足りない事に気が付いた。

「莉磨さんと千里さんは?」
「二人は仕事だとさ。今日は夜までかかるらしい」
「大変だね――――っとっと」

 少し気を抜くと転びそうになるので踏ん張り直す。暁に苦笑されながら助けられると、壁から悲鳴が上がった。視線が刺さる。

「ふう、ごめん」
「いや……何か悪いな」

 暁が悪い訳ではないので責める事も出来ずに苦笑を零す。すると、今度は瑠佳が歩み寄って来た。相変わらず綺麗だな、と心の中で呟いて、さらに元気になった壁を押さえる。

「こんばんは、美夜」
「瑠佳さんこんばんは」
「……その体勢で会話出来るなんてあなたも器用ね」
「慣れ、かな」

 人を押さえる事に慣れてしまっただけで、決してこの仕事には慣れないんだけど。
 瑠佳は「これ以上ここにいたら美夜が潰れちゃうわ」と美夜の肩を軽く叩いて労ってから暁と歩き出した。
 枢らも数歩先を歩いていて、白い制服がどんどんそれに続いていく。
 美夜は崩壊しそうな壁へと少しの移動をしながら、優姫の様子にも気を配って、何とか風紀委員業務を遂行する。ただ校舎の入れ替えをしているだけなのにな、と溜め息を吐きたくなるのはいつものことだ。
 夜間部生が全て校舎に入り終える頃には、美夜も優姫も校舎近くまで押しやられている。バタン、と背後で校舎の扉が閉まる音がしてようやく普通科生は押し進むのを止めた。

「お疲れー」
「お疲れ」

 汗を拭う動作をする優姫に小さく笑ってハイタッチを交わすと、控えめに乾いた音がする。普通科生がぞろぞろと寮へ帰っていくのを視界の端に捉えながら、靴紐が解けていたのに気付いてその場に片膝を付いた。

「美夜、元気になったみたいで良かった」

 頭上から優しい声が降ってきたので、美夜は結びなおしながら顔を上げた。ほっとした様に笑う優姫に微笑み返し、靴紐を手早く結んで立ち上がる。

「ごめんね、もう大丈夫。さっき軽く食べてきたし」
「え、ずるい。私もお腹すいた……」
「食べてくる?私、先に見回りしてるし」

 肩を落としてお腹をさする優姫に提案すると、どうしようかな、と悩む様子を見せる。美夜が、私だけ食事摂ったのも申し訳ないし、と肩を竦めると、優姫は慌てた様子で手を顔の前で左右に振った。

「いや、それは良いよ!私別に美夜を責めてる訳じゃないし」
「うん、知ってる。でも私としては気になるから、何か食べてもらったほうが嬉しいんだけどな」

 苦笑すれば、美夜がそう言うなら、と優姫は溜め息をついて頬をかいた。そうして私的居住区の方へ優姫が歩き出そうとした時、丁度その方向から人影が――零が現れた。
 美夜は怪我の無い様子にほっと安堵し、優姫は彼の名を呼びながら駆け出した。美夜も頬を緩めながら、だが彼の心境を思うとただ笑うだけも出来ず、微かに笑んだ様な表情で零に歩み寄る。

「もう零ってば!出かけるギリギリに言うんだから。あんな大事な事なのに」
「……でも言ったろ」
「どーせあれでしょ、美夜に言われたからでしょ。何も言わずに行くつもりだったんでしょ」
「…………」

 非難めいた言葉を掛けながらも温かい目をする優姫は、頬を膨らませながら零を見上げていた。零はそんな優姫を適当にあしらっているように見えるが、これはこれでちゃんとしたコミュニケーションなのだ。
 美夜が近くまで来ると、零は嘆息して美夜の頭を小突いた。まだ何も言っていなかった美夜は、どうして小突かれたのかと首を捻って彼を見上げる。

「……大丈夫そうだな」

 心配した、と暗に言われているのが分かった。まっすぐな零の視線に、彼が出掛ける前に自分がした事を思い出し、今更ながら恥ずかしくなってくる。
 傍にいて欲しいなんて、私は何て事を。
 美夜は珍しく瞬時視線を泳がせて、しかしすぐに持ちなおす。今度は美夜からしっかりと視線を合わせた。

「大丈夫、ありがとう」
「なら、いい」
「それから、」

 美夜は腕を伸ばして、少し踵も持ち上げて、零の頭に手を乗せる。髪を梳くように撫でると、様子が可笑しかったのか隣の優姫が笑った気配がした。零からは妙なものを見るような視線を向けられる。美夜はそれらを気にせずに、仕事を終えてきた彼に言葉をかけた。

「おかえり。お疲れ様」

 美夜に届いた資料では、零に下った指令の街は少々遠い。日帰りは可能だが、仕事を終えてすぐに帰るのは慣れないと疲れるものであるし、仕事内容が内容なだけに、まだあまり任務をこなしていない――今回が初任務の可能性もある――零には、精神的な疲労もあるだろう。
 無事で何よりだと笑むと、子ども扱いすんな、と呟くように返された。





 薄暗い部屋で、白い椅子に腰掛けた少女が、オットマンに乗せた足を興奮気味にパタパタと動かす。少女の傍には白のドミノマスクを付けた青年が立っているが、少女の行動を咎める様子は無い。

「いやん、零ちゃんイイ男に育ってくれてて嬉しいわ。あの時の哀しそうな目が良かったっ!」

 少女は目を伏せたまま一人楽しげに笑い、鼻歌でも歌いだしそうな勢いの弾んだ声音で言う。
 きゃっきゃとはしゃぐ少女に青年は反応を示さない。どこか不機嫌ささえ滲ませてじっと立っていた。少女は反応が無いことに気分を害した風は無いが、ふと動かしていた足を落ち着かせる。
 長い睫に飾られた目を伏せたまま、指先を顎に当てて小首をかしげる。ストレートの髪がさらりと頬にかかった。

「……でもあの黒髪の子はともかく、もう一人……誰かしら」

 少女の脳内には、遠く離れた地の映像が再生されていた。それは現地にいる自身の使い魔である烏から送られてくる映像で、少女はその烏と視覚を繋いでいるのだ。
 映像には、黒髪の少女と、銀髪の青年と、その青年の頭に手を乗せる茶髪の少女が映っている。黒髪の少女は可笑しそうに肩を震わせ、茶髪の少女の方は微笑んで頭を撫でている。青年は眉間に皺こそ寄せているものの、苛立った様子は無い。

「嫌だわ。黒髪の子なら分かるけど、私の知らない子にまで飼い慣らされてるなんて」

 不貞腐れた子供の様な口調だが、明らかな苛立ちが混じっていた。それに気付いたからか、もしくは少女の言葉が引っかかったのか、青年が口を挟んだ。

「……どういうことですか?」
「分かんない。私の知らない内に"駒"が増えたのかしら、もう」

 少女に送られる映像中の三人が動き始めた。揃って歩き出すのかと思えば、茶髪の少女は二人に小さく手を振って別の方向へと向かう。
 少女は少し悩んで、茶髪の少女の方へと烏を動かした。視界が大きく揺れたのは、羽ばたいて別の木の枝に降り立ったからだろう。
 茶髪の少女が烏に気付いたのか、じっとこちらを見つめてきた。使い魔だとは言っても見た目はただの烏であるし、彼女如きに気付かれる事はないのだから、と少女は烏の目を通して茶髪の少女を見つめた。

「本当にただの人間の女の子って感じね」

 口を尖らせて言い、またパタパタを足を動かし始める。
 茶髪の少女と烏は、当然ながら少々距離がある。烏からは茶髪の少女の表情がぎりぎり確認できる距離だ。おそらく茶髪の少女も、何となしに烏を見ているのだろう。
 特に面白くない。そう少女は結論付けて、烏を手元に戻そうとした時だった。
 烏の視線の先にいる茶髪の少女が、年不相応な綺麗な微笑みを浮かべて口を動かした。今、烏と共有しているのは視覚だけなので実際に声を発しているのかどうかは定かではないが、一人でいるのだから恐らく話をしている訳ではないだろう。
 ならばどうして烏に向かって口を開いているのかと、少女は動かしていた足を止めた。気付かれたなんて事はあり得ない。銀髪の青年でさえ気付かなかったのだ、ただのあの茶髪の少女が気付くはずが無い。
 しかし、あれは。

「……ただの烏に向かって、あんな顔で"おいで"なんて言うかしら?」
「は?」
「こっちの話よ。美味しそうな子が二人もいたわ」

 窓から入ってきた風がカーテンを揺らす。少女は伏せていた目を開けて、月の昇る夜空に視線を動かした。

「きーめたっ。私も黒主学園に行くわ」

 深い笑みを浮かべた少女はそう言って、ぺロリと下唇を舐めた。
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