22


 それは四年前の、だが決して薄れる事のない記憶。


 頭を撫でて来る華奢な手は酷く優しい動きだが、その女の着物は血に汚れている。その手を振り払い心臓に刃を突き立ててやりたいのに、体の自由がきかず、睨みつける事しか出来なかった。

「憎しみを糧に早く大人におなり……私の可愛い零」

 頭を撫でていた手が頬に移り、優しく優しく何度も撫でる。とても人を二人殺したとは思えない仕草だ。人形のように整った顔に笑みを浮かべ、彼女は甘く呟いた。

「私を、この"緋桜閑"を殺したいのであろう?」
「……ッ」

 どうする事も出来ずにただ彼女を睨みつける。何も出来なかった無力な自分が情けなかった。
 殺してやる、と何度も心の中で呟いて睨むが、それすら彼女にとっては楽しめる要素であるらしい。聖母のような笑みを浮かべたまま、零の目を見つめてきた。

「ずうっと見つめていたい……憎しみに満ちた君のその瞳は、私だけのものだもの……」

 着物やその手を真っ赤に染めた閑は、また一層笑みを深める。

「嬉しいのよ、君が私と――――別たれることの無い"絆"で結ばれたことが」

 零にとってそれは救いの言葉でも何でもなく、ただ忌々しいだけの、断ち切りたくても断ち切れない真っ赤な"絆"だった。





「紅まり亜は、正当な手続きと誓約を経て編入してきた……あとは生まれつき体が弱いらしく、今まで"夜の社交界"に出たことは無い」

 資料を読み上げる暁の淡々とした口調を聞きながら、英はずっと顔をしかめていた。

「特に変だとは思わないがな……恐いもの知らずだとは思うが」
「…………」

 調べた内容を見る限り、暁の言う通り可笑しな点は全く無い。だがどうしても納得できずに違和感だけが残ってしまう。初めて会った時に感じた威圧感は、とてもじゃないが一端の<貴族>が放つような物ではなかった。
 夜間部の授業が終わり皆寮に戻った中、英と暁は寮までかなりの遠回りをして歩いていた。
 英は腕を組んで口を閉ざしていたが、ふとある人物が頭の中に思い浮かんだ。特に理由があった訳ではなく、急に。第六感でも働いたのだろうか。

「……なあ暁。あの女(ひと)を見たことはあるか?」
「"あの女"?」
「"玖蘭"と同格の血統でありながら、乱心の末姿をくらました<純血種>――――"緋桜閑"だよ」

 吸血鬼であれば、自分達の上に立つ<純血種>については幼い頃から教えられ、知っているのが当然だ。非常に尊い血統の為、上流の<貴族>であってもそう簡単に会うことは出来ない。
 英も例外ではなく、閑についての知識は多少あるが面識は無い。暁はどうかと問うてみたが、彼も同じらしく首を横に振った。

「残念ながら会ってないが……どうしたんだ?」
「……いや、別に」

 自分でもどうして彼女が頭に浮かんだのか分からない。顔をしかめたまま嘆息し、少し癖のある金髪をかき上げた。

「やめておこう、あの女の話は不吉だから」

 適当に話を切り上げ、再び意識が紅まり亜に傾きかけた時、ふと人の気配を感じて落としていた視線を上げた。前方に、闇に紛れた黒の女子制服がある。
 英達は難なく人物を判別出来るが、彼女は違う。しかしこちらの制服は白いのであちらも気付いているらしく、真っ直ぐに向かって来た。

「もう、遅いよ。門閉められないでしょ」

 そう言うも苦笑する美夜からは、怒気の類が一切無い。暁が「悪い」と謝罪する横で、英はやや低い位置にある美夜の肩に、肘置きよろしく腕を乗せた。

「閉まってたら別の所から帰るさ。待ってなくてもいいのに」
「一応、校舎の行き来はあの門からだし」
「わざわざ呼びに来たんだね、ご苦労様」

 肘置きにされているのに気にした様子が無いので、まあこのままでいいかと緩い足取りで門へ向かう。歩幅を彼女のものに合わせるのは、紳士として当然だ。
 眠そうな顔だな、と美夜を上から眺め、今は人間の活動休止時間なのだと改めて思っていると、暁が美夜に問いかけた。

「そういや美夜は、紅まり亜の事どう思ってんだ?」
「え、まり亜?……可愛いと思うけど」
「そうじゃなくてだな」
「……良い感じはしない……苦手、かな」

 少々躊躇いがちに述べられた言葉に、そうだよなあと頷いた。誰にでも分け隔て無く優しく接するような美夜が「苦手」と言うのは余程だ。仲が良さそうにも見えたが、彼女の体質故に何か感じる所があったのかもしれない。

「何かあったのか?」

 一応聞いておこうかとそう言うと、美夜の返答は予想外と言えば予想外だが彼女らしいものだった。

「優姫に向かって『あなたみたいな子の血は美味しいのよ』って言ったの」

 美夜が何故か黒主優姫を中心にして物事を考えているのは周知の事実。英は二度ほど、そんな場面に立ち会ってしまっている。
 美夜の言葉に暁を少し目線を合わせると、暁は彼女らしいと苦笑する。英もそれに同意しつつ、門近くの物騒な風紀委員の気配を感じて腕を退けた。





 美夜、優姫、零、沙頼の四人は、移動教室の為教科書を持って教室を出た。
 美夜は零と並んで二人の後ろを歩き、ふと隣の零を窺った。

「……何だ?」
「ううん、何でも」

 顔色が悪い、とまではいかないにしても、心此処にあらずなのは確かだった。美夜はその原因について大方察しがついているのだが、口にするわけにもいかない。
 怪訝そうな顔をする零に、何でもないよと笑うと同時、前を歩く優姫がそういえばと肩越しに振り返った。

「理事長が言ってたんだけど、まり亜さん、仮の寮に移ったんだって。言うの忘れてた」
「仮の寮に?」
「うん、何かよく分かんないけど、枢センパイが許可したみたいだし」

 ここ数日、まり亜が登校するところを見ていなかったのはそのせいかと納得する。
 夜間部設立の際に使われていた仮の寮は今は無人で、美夜は入ったことは無いが場所くらいは知っている。脳内に学園内の地図を呼び起こし、仮の寮の場所を確認した。
 教室を出て数分後。テラス近くの外廊を歩いていると、零ほどではないが呆としていた美夜は、沙頼に掛けられた言葉への反応が遅れてしまった。優姫が遅れて反応したのは、単にそれを忘れていたからだろう。

「"舞踏祭"よ。……二人とも忘れてたの?」
「ううん、覚えてるよ。数少ない夜間部との交流の場だって、クラスで誰かが言ってた」
「あ、私は、皆で踊るとか興味無いし……」

 枢さんと踊ればいいんじゃ、と美夜が口に出す前に、優姫は深い溜め息を吐いて零に話を振る。零はそれで我に返ったらしく、生返事で返した。

「それより目の前の"学年試験"の方がゆーうつで……ねえ、零?」
「あ?まあ……」
「……でも零って成績良いよね?」
「それなりにな」

 美夜が確認までに問うとそう言って、お前ほどじゃないけど、と付け足される。それに苦笑していると、どこか沙頼の顔色が悪くなっていることに気が付いた。具合が悪いのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

「やっぱり忘れてるのね、優姫……。黒主学園伝統の舞踏祭、直前の学年試験で"最下位"になったクラスは、強制的に"裏方"の手伝いに回されるそうよ……」
「!?」

 優姫の表情が明らかに強張る。沙頼の暗く重い話し方は怪談話のようだった。
 そんなに優姫を脅かさなくてもいいだろうと苦笑していると、今度は後ろから重い空気が漂ってきた。暗い何かを背負って現れたのはクラスの委員長である影山で、眼鏡の奥の虚ろな目は優姫を捉えている。

「心配だよ黒主優姫くん。君がいつも僕のクラスの平均点を下げているんだよ……折角の晃咲さんの点数を相殺して」
「委員長、その言い方はひどいわ……」

 すかさず突っ込む沙頼に頷く。優姫は勉強が苦手なだけで、それは仕方の無いことだ。それでも最近のテスト前には美夜が直接教えていることもあって、僅かながら点数は伸びている。
 しかし影山には沙頼の言葉や美夜の心境を汲み取る余裕が無いらしく、背負った空気を黒い炎に変化させた。

「舞踏祭は普通科と夜間部が一緒に参加できる貴重な公式行事……もし僕が瑠佳さんと踊る機会を失ったら、一生恨むからね……ッ」

 影山はそう言って優姫を睨むと、靴音をさせてさっさと歩き去ってしまった。言いたい放題な彼を美夜は僅かに眉を寄せて見送り、影山の憧れらしい瑠佳を思い起こす。
 瑠佳さんは大した関わりの無い生徒と踊るなんて嫌そうだけどな、と素直に思ってしまい、一生懸命な影山が少し健気に見え、気合の入っていないエールを心の中で送ってみる。
 一方、脅された優姫は教科書を抱き、顔を真っ青にして肩を震わせていた。

「やばい……死ぬ気で勉強頑張らないと……」
「私また教えるし、出そうな問題も目星ついてるから。そんなに恐がらなくてもいいよ」

 よしよしと頭を撫でてやると、優姫は目に涙を浮かべて礼を言う。美夜にとっては普通科の勉強も、今までのテストや授業の様子から教科担任の問題作成傾向を掴むことも容易い。

「良かったわね、優姫。良い先生がこんなに近くにいて。私も分からない所教えてもらってもいいかしら?」
「いいよ。優姫と沙頼と零なら歓迎」

 零は勉強しなくても点数を取れてるのだが一応言ってみる。何らかの反応があるかと思ったが、彼は何も言わなかった。
 不思議に思って見上げてみると、彼は眉間に皺を刻んでどこか別の場所を見つめている。美夜がどうしたのかと問うよりも前に、この時間にこの場所で聞く等まずありえない声が聞こえてきた。

「そっちは駄目だよ、普通科がいる時間だから――――まり亜っ」

 耳に届いた名前に、美夜は表情を引き締める。普通科生が多くいる中で、二つの白い制服が目に付いた。焦った声を上げるのは拓麻で、その先でスキップするように走るのはまり亜。
 夜間部生の登場に黄色い声が上がり、まだあまり普通科生に馴染みの無いまり亜の存在に男子生徒が騒ぎ出す。

「大袈裟ね、カフェテラスをのぞきたいだけよ」

 笑うまり亜は拓麻にそう言い、手を後ろに組んでその場でくるりと回って見せた。その一瞬、彼女の視線が零を捉えたのは気のせいではないだろう。
 またすぐに走り出してしまったまり亜を拓麻が追いかけるが、美夜は追うことはしなかった。気になるのは山々だが、優姫や零が近くにいる今、あえて二人から離れる必要もない。

「……って、あれまずいよね」

 動く気のない美夜と零とは対照的に、突然の事態に呆けていた優姫が地面を蹴った。無論、美夜は優姫を行かせるつもりがないので素早くその腕を取ると、零も優姫の肩を押して動きを止めた。
 二人に止められた優姫は、驚きながらもその場にとどまってくれた。

「まり亜にはあんまり近付かないで欲しい。追うなら私が行くから」
「副寮長がいるんだし、あの編入生には近寄るな……美夜もな」

 ちょっと行こうとしてたろ、と言いたげな目を向けられ肩を竦める。でも行かないよ、とこれまた視線で伝えると軽く頭を撫でられた。

「二人揃ってそう言うなら……」

 引き下がってくれた優姫に安堵して笑んでいると、拓麻とまり亜が走り去ったことで収まったはずの黄色い声が、再び耳が痛くなるほど上がった。
 まり亜を見たお陰で気が鋭くなっていたのか、その人物の接近にいち早く気付いた美夜は、優姫へと伸ばされた腕を掴んで自分の方へと引き寄せた。美夜を見た途端に視線を僅かに泳がせた人物に、美夜はにこりと笑いかける。

「英さん?今、優姫に抱きつくつもりだった?」
「な、そんな訳ないだろ。気のせいだ」
「ならいいんだけど。この大勢の生徒の前で優姫に抱きついて、生徒の嫉妬を優姫に向けるつもりじゃなくて良かった」
「…………」

 図星ですか。
 どうしてこうも優姫に意地悪をしたがるのか。枢が優姫を気に掛けているからなのだと分かってはいるが。英が気まずそうに頭をかくのを眺めていると、英の腕を持っている方と反対の腕を引かれる。

「え、零?」
「……いつまで腕組んでるつもりだ」
「ああ……ごめん英さん」

 組んだままにしていた腕を放すと、零に掴まれた腕も放された。優姫に女子の嫉妬が向かないようにと思ったが、これでは自分に向かってきてしまうなと周囲の視線を感じて顔を引きつらせた。
 あのまま腕を組んでたら、英さんがいなくなった途端、私刺されちゃいそう。
 全くもって笑えない。

「……藍堂先輩、ちょっと顔を貸してもらえませんか」

 今度は美夜の肩を肘置きにしていた英に、零がそう申し出た。零が夜間部生に声を掛ける事自体珍しいので、美夜は優姫と一緒に少々驚いて彼を見上げた。
 英は一瞬驚いたような表情をしたがすぐに真剣な顔つきになり、すんなりとそれを了承する。美夜の肩から重みが無くなると、零と英の間の空気が緊張するのを感じた。

「丁度僕もお前に話があったからな」
「……決まりですね」
「ちょ、ちょっと零っ?」

 優姫の制する声を無視し、零は持っていた自分の教科書を美夜に差し出してきた。美夜はそれを受け取りながら、冗談ぽく言った。

「私闘(けんか)しないでね、二人とも」
「分かってる」
「大丈夫だって」

 短く答えて歩くあまり見ない組み合わせを、美夜は小さく息を吐いて見送り、零に渡された教科書と自分の教科書を持ち直す。

「美夜、ホントに大丈夫かな……」
「だと思うよ。……二人とも割と短気だけど」
「それって大丈夫なの?」

 落ち着かない様子の優姫に苦笑を零し、止めていた歩を再開させようとすると、ずっと黙っていた沙頼に肩を叩かれた。心なしか、沙頼の表情が硬い。

「美夜、後ろ……」

 言われて首だけ振り返ると、顔を嫉妬に染めた女子生徒がじりじりと迫ってきていた。さながらホラー映画のそれに、美夜は見て見ぬ振りをして、青い顔の沙頼と優姫に向き直る。

「優姫、沙頼……次の教室までダッシュしよっか」

 このまま逃げても自分の足ではすぐに追いつかれるし、優姫から離れたくない気持ちを合わせた結果、そんな事しか思い浮かばなかった。




 英と共に校舎のテラスまで移動した零は、地上を見下ろす英を見据えた。英はこの場所に上がって来たくても来ない女子を眺め、寂しいなあ、と呟いた。

「お前がいると、女子は恐がって近寄ってこないんだな」

 返答するのも馬鹿馬鹿しく、反応しなかった。英も特に返事を求めていなかったのだろう、気分を害した風も無く、下ろしていた視線を零へと向けてくる。先程までの浮ついた様なものではなく、こちらの真意を探ってくるような目だった。

「……で?」
「紅まり亜は"あの女"と関係があるのか」
「"あの女"って?」

 察しがついている癖に、英は女の名を言うように促してくる。零は少しの間を置いて、口にするのも躊躇われるくらい憎む対象の名を抑揚無く述べた。

「……緋桜閑」

 英が口角をほんの僅かに上げた。零の言葉が思った通りだと満足しているようにも見えた。

「仮にも我らが"純血の君"たるお方を呼び捨てとは……まあ仕方ないか、お前の肉親を惨殺した方だからな」

 不躾なヤツだ、と言ってくる割には憤りは感じられない。あくまで英にとっての主は枢一人であるという事だろう。

「"紅"は"緋桜"の遠い昔の遠い親戚……それだけだが?」

 模範解答の様なそれに、予想通りだと一度英から視線を外す。しかしすぐに英を睨むように見、常だった疑問を口にした。

「……四年間あの女の消息がつかめないのは、以前と姿が変わったからじゃないのか」
「……知らないよ、そんなの」

 紅まり亜を見た時に感じた違和感は、そう考えると――閑がまり亜の体を借りていると仮定すれば、納得できる。そんな事が果たして可能なのかは分からないが、相手は<純血種>なのだ。他のそうでない吸血鬼を従える事も容易いのだから、どんな能力があっても不思議では無い。

「<純血種>の能力を全て分かってるのは<純血種>自身だけだ――――それよりも」

 気味の悪い薄い笑みを浮かべたままの英が、テラスの策に飛び乗った。先の尖った装飾に片足を乗せて、両手はズボンのポケットに突っ込んでいる。到底、人間に出来る芸当ではない。

「それよりも重要なのは、お前がどう感じているか、だろ……僕もそこが知りたいんだ。"お前にしか"分からない」

 零を見る英の顔から笑みが消える。少し強い風が吹いて、彼の金髪や零のネクタイを躍らせた。

「……あの女との血塗られた"絆"のある、お前にしか」

 僅かに、四年前閑に咬まれた首筋が疼いた気がした。その気持ちの悪い感覚につられるようにしてテラスの入り口に顔を向け、いつからかそこに立っていたまり亜を視界に入れる。
 彼女は不思議なほど無表情に、預けていた背を壁から離す。手を後ろで組んで、風に髪を泳がせながら何も言わずにテラスから出て行った。
 まり亜が閑であるという予感が、確固たるものになる。殺してやりたいという衝動が沸き起こったが、冷静に事態を観察している自分がそれを抑えつけた。
 ようやく、終われる。
 そう思った自分が居た。

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