23


 日がまだ落ちきらず、空に夜が共存する時間、月の寮の枢の部屋に来客があった。ほとんどの吸血鬼はまだ眠っている時間だが、枢は普段からあまり睡眠を摂る方ではないので、別段気分を害することも無かった。
 チェスの駒を片手で弄びながら、従者と共に訪れたまり亜に声を掛ける。

「その姿……その名前……。どういうつもりか、最初は答えに迷ったよ」

 こちらへ歩み寄るまり亜からは、<純血種>である枢に対する敬意や畏れの感情は見られない。無邪気な笑みを一切消し、まり亜の見た目にはあまり似合わない、ひどく大人びた表情で枢を見つめていた。

「……あら、貴方を立てたのよ」
「悪趣味だな。貴女は遊びたかっただけだと思うけど」

 淡々とそう述べると、彼女は口元に弧を描く。くるりと身を翻してそのままドアへ向かった。

「ただの遊び?貴方はいつの間にそんな良心的な見方をするようになったのかしら――――同類のくせに」

 嘲る様な笑みと言葉を残し、まり亜は枢の返答を待たずに従者を伴って部屋を出て行った。
 閉まったドアを一瞥し、枢は無言で手元に視線を落とす。弄んでいたポーンを盤に戻し、白のキングと黒のキングを手に取った。
 白のキングは彼女。黒のキングは自分自身。
 ちらりと盤上を見、キングがあった場所の隣に位置するクイーンを何気なく見つめる。一般的にキングの次に価値が高いその駒に、大切な娘の傍にいる男を思い浮かべて顔をしかめた。
 あれはこんな、元から力の備わった類ではない。しかしあの男には、キングを――また別の盤上のキングを取れる所まで力を付けて貰わねばならない。
 手に持った二つのキングをデスクに置いて、ふともう一つ別の存在が頭をよぎった。キングの抜けた盤上を眺め、しかし直ぐに思い出してほんの僅かに笑った。

「ああ……あの子はここにいないんだった」



 夜間部生が月の寮から校舎に移動し終わり、美夜は優姫とハイタッチをしてから肩を回した。
 すれ違い様に千里に聞いた話、まり亜は不登校になってしまっているらしい。優姫から、まり亜は仮の寮へ移ったと聞いたので、そちらから登校しているのかと思ったのだが。

「明日テストだから、今日も夜の見回り無しだねっ」
「さあ勉強頑張ろうか、優姫」
「よ、よろしくお願いします……」

 二日程前から、テストが終わるまで夜の見回りを理事長が行う事になっている。今夜はテストに備え、優姫と沙頼の部屋で勉強会をする事になっていた。勉強会といっても、ほぼ美夜と優姫のマンツーマンだ。
 苦い表情を浮かべる優姫を励ましつつ、近くに突っ立っている零をちらりと見る。無表情なのは変わりないが、何気無く抑えている首筋が気になった。この学園に"彼女"がいるから、余計に。
 見つめる美夜に気が付いたのか、零が放っていた視線を寄越す。

「首……どうかした?」
「今日ずっと気にしてたよね」

 勉強に対する意識をどこかに置いた優姫も問いかけた。零は首筋を押さえたまま、表情を変えずに言う。

「……あの女に咬まれた所が疼く」

 呟く様なそれに美夜はほんの僅かに目を剥いて反応し、だが、当然か、とすぐに納得した。
 零も気付いているのだ。まり亜が"彼女"――緋桜閑であることに。閑を"親"とする零は彼女と特別な繋がりを持っているのだから、姿が変わったとしても彼女を"感じ"られる。
 美夜は零の傍に立ち、首を押さえる零の手に自分の手を添えた。すると彼は少し驚いたような表情を見せた。

「……ごめん」
「何でお前が謝る」
「どうすればそれが消えるか、分からないから」

 本当は分かってる。彼女がいなくなればいいのだと。
 そう原因が分かっているのに、対処出来ない事がもどかしかった。いや、"今すぐに"対処出来ないことが、だ。彼女の目的は分かっているが出方が分からないので、保護対象が近くにある今、美夜は無闇に動けない。
 そんなのは言い訳かもしれないけど。

「……別に美夜のせいじゃないだろ」

 俯いた零が手を下ろすのと一緒に、美夜も添えた手を離す。だが下ろした手は零に握られた。どうしたのかと零を窺うと、彼は空いている手を優姫の頭に乗せ、わしわしと動かした。

「ちょ、零っ」

 優姫が抗議の声を上げると、零は手の動きを止める。

「……四年前は、優姫がいたから」
「うん?」
「……吸血鬼として目覚めた時には、美夜がいたから……俺は生きて来られたのかもしれない」
「…………」

 握られた手に力が篭る。美夜は思わず一度視線を落とし、軽く目を伏せた。
 手から体温が離れて顔を上げると、零はもう思い詰めた様な表情ではなかった。何かを吹っ切った様なそれに疑問を覚えたが、一先ず置いて、髪を整えた優姫と目を合わせる。
 しかし美夜らが声を発するより前に、零はさっさと歩き出してしまった。

「今日はもう寮に戻る……美夜、優姫の勉強任せたぞ」
「うん、もちろん。零もテスト頑張ろうね」
「私にそう言っといて赤点だったら、何か奢ってもらうんだからっ」

 優姫が舌を出しながら言うと、零は美夜らに背を向けたまま、「ありえねぇ」と言って鼻で笑った。




「で、ここの数を使う……?」
「そうそう。あとは計算ミスさえなければ答え出るから」

 難しい顔をしてノートを睨む優姫に頷き、美夜は頬杖を付いて手元のテキストをぱらぱらと捲った。美夜と優姫と沙頼の三人で丸テーブルを囲み、テーブルの上はテキストやらノートやらで埋まっていた。
 既に理解してある事ばかりのテキストに目を滑らせていたが、優姫のシャーペンが止まったのに気付く。

「あ、おしい。ここだけ違う。優姫はこれに引っかかりやすいんだね」
「おお、ほんとだ……」

 唸りつつ計算式を書き直す優姫を見守りながらも、頭をよぎるのは零の事だった。

『……四年前は、優姫がいたから。……吸血鬼として目覚めたときには、美夜がいたから……俺は生きて来られたのかもしれない』

 零がそう言って美夜の手を握っていたのは一時間ほど前。美夜は握られていた手を眺め、彼の手の感触や体温を思い出して、頬杖を付いていた方の手で顔を覆った。
 あんな風に言われて、嬉しくなるのは悪い事じゃないはず。

「……出来た!」
「っほらね、やっぱり優姫はやれば出来るんだから」
「ありがとう美夜ー!」

 にこにこ笑う優姫につられて、我に返った美夜も頬を緩める。僅かに顔が熱い気もするが、それは無視することにした。
 さあ次、と美夜は優姫に新たな問題を解くよう促し、自分のノートの、その問題を解くにあたって必要な知識の書いてあるページを開いておいた。
 その様子をじっと見ていた沙頼が、自分の答え合わせをしながら不意に口を開いた。

「美夜って、本当に優姫の事好きよね」
「うん。好きだよ」
「この学園に入ってから知り合ったんでしょう?なんだか妬けちゃうわ、私」
「私は沙頼の事も好きだけど」
「……ありがと。でも女子を口説いてどうするのよ」

 沙頼は呆れたように笑って、問題集のページを捲る。美夜は笑われた意味が分からないながらも、沙頼にあわせて苦笑した。




 勉強を教えてもらうために部屋に招いていた美夜が出て行ったドアを見つめ、優姫はくしゃりと髪を握った。

「……優姫?」
「っああ、何でもない」

 教材を片付ける沙頼に首を傾げられ、慌てて首を振る。自分も片付けを始めるが、すぐに手を頭に持って行ってしまう。
 零の言葉や表情が頭から離れなかった。多分、美夜も同じなのだろう。勉強中もずっと片手を握ったり開いたりを繰り返していたから。
 ふと、少し前に夜刈が学園にやって来たとき、美夜が自分達を守ってくれたことを思い出した。夜刈の銃口を自分に向けたり――後で聞いた話、もし夜刈が美夜に向かって引き金を引いていたらただでは済まなかったらしい――優姫を安心させようと手を握ってくれたり、零に血を捧げたり。それより前にも、美夜には守られっぱなしだ。
 守られてるばっかりは、やっぱり私の性格に合わないや。私だって、動く。
 優姫は一つ強く頷いて、部屋のドアに手をかけた。

「……頼ちゃん、ちょっと出てくる。先に寝てていいよ」
「え、優姫っ!?」

 慌てる沙頼の言葉を聞き流し、優姫は寮の廊下を走り出した。目指すは、零や美夜が近付くなと言った編入生のいる仮の寮だ。
 紅まり亜が来た時から、今思えば二人ともおかしかったのだ。零は考え事をする時間が明らかに増えたし、美夜は時折、警戒するように辺りを見回す事があった。何を隠しているのかは知らないし、無理に知ろうとも思わない。けれど、自分に出来ることがあるならしたいし、出来ることを探したい。
 程なくして到着した仮の寮は、夜だというのにどこも明かりが付いていなかった。優姫は迷わず足を踏み入れ、物音に注意しながら歩き出した。生憎ただの人間の自分には、夜間部生のように気配に敏感ではないので、物音が立ちでもしないと人の居場所が分からない。
 焦る気持ちを抑えながら慎重に寮内を歩いていると、人の話し声が不意に聞こえた。

「!」

 優姫は耳をそばだてて、足音を鳴らさないよう気をつけながら声のする方へと進む。話し声のする部屋はドアが開け放たれており、ドアからちらりと見る限り、かなりの広さのある部屋――ホール、の方が近い――のように見えた。

「――――君は私を殺せない」
「っ」

 まり亜の声だった。優姫は中を覗きたい気持ちを押さえ、入り口横の壁に身を寄せる。

「吸血鬼としての生を与えた"主"を、"従僕(しもべ)"に堕ちた身で殺せる訳が無い」

 淡々とまり亜がそう述べた後、人の動く音と、ジャキ、という聞き覚えのある金属音がした。姿は見えないが、零だろうと想像できる。
 どうして零が、という気持ちと、やはりまり亜さんが原因だ、という気持ちが渦巻いた。

「……屈しない子は初めてよ。いい子ね、本当に君にして良かったわ……。どんなに姿が変わっても、ちゃあんと見分けてくれて偉いわよ?」

 何故か楽しそうなその声に、優姫は顔をしかめる。嘲笑われているかのような調子を含み、自分に向けられているわけでは無いのに不愉快だと感じた。

「君の、"人間"としての生を奪った私の事を見分けてくれて……」
「ああ……忘れない」

 まり亜の言葉が頭の中で反芻する。まさかと思う考えが起こり、優姫は眉を寄せた。そんなはずはと否定しようとするも、部屋の中にいる零の言葉で、それは決定付けられた。

「……緋桜閑。あの日、お前の本当の貌(かお)は俺達の血で濡れていた」

 声を出したいのを堪え、驚きに目を見開いた。
 まり亜さんが、零を闇に落とした吸血鬼。零が、復讐を遂げる相手。

「――――この体は私の物ではないの。だから乱暴は止めて欲しいのだけれど」

 戦闘開始を思わせる言葉に、優姫はとうとう中へ顔を向ける。部屋の中には案の定、まり亜と彼女に銃を向ける零がいた。そしてそのまり亜の頭上――二階部分には、白のドミノマスクをつけた見知らぬ男が立っていた。
 その男の手には一振りの刀。刀は躊躇い無く男の手から放されて、まり亜目掛けて落下する。まり亜はそれを後ろ手で難なく掴み、素早く鞘から抜き放った。
 まり亜の刀と零の銃が衝突し、独特の金属音が響く。優姫は思わず声を上げて壁から身を離した。

「っゼ――――」

 しかし室内へ入ろうとした体は、後ろから現れた強い力によって引き戻され、口元を手で覆われる。その途端、抗う事も許されずに体の力が抜けていった。
 瞼を下ろした暗闇の中で、声を聞いた気がした。




 ここに居るはずのない声に気をとられ、意識が目の前のまり亜から離れた一瞬で、零は刀をその身に受けた。右胸から真っ直ぐ下に鋭い痛みが走り、表情を歪める。
 しかし斬られる瞬間に引き金を引いたお陰で、まり亜の右わき腹に銃弾を打ち込むことは出来た。

「……っ」

 ボタボタと床に落ちる自分の血や傷を確認もせず、零は息を荒げて銃を構え直す。銃弾を受けたまり亜はセットしている髪が崩れているが気にせず、血に染まったわき腹に手をやった。

「やっぱり、借り物の体は使い辛いわね。……心臓に当たらなくてざぁんねん……」

 クスクスと笑いながら、まり亜は零から視線を外す。肩にかかる髪を払い、口角を上げたまま言った。

「……でも、傷を治して仕切り直しね。お互い」
「何……?」

 こんな程度の傷で、引き下がるつもりはない。
 零は眉を寄せてまり亜を睨みながら再び引き金を引こうとして――突如襲い来た、気が狂うような感覚に胸を押さえ、その場に膝を付いた。
 心臓が早鐘を打ち、体が熱くなる。忌々しいだけの吸血衝動だとはすぐに気が付いた。

「……出血が激しい"飢え"に繋がることもある。気をつけて?吸血鬼の本能はとても野蛮で冷酷よ」

 わざわざ指摘してくれるまり亜を膝を付いたまま強く睨む。まり亜は先程の宣言どおり仕切りなおすつもりらしく、くるりと零に背を向けた。

「ハンターどもも同じようなものだけどね。私に言わせれば……」

 まり亜は去り際そう呟いて、床に血を落としながら零を置いて部屋から出て行った。
 その背を睨んで見送った零は、沸き起こる吸血衝動を必死で抑え込む。床には自分の血で出来た血溜まりが出来ており、思った以上に出血が多かったのかと他人事の様にそれを眺めた。
 斬られた傷は既に塞がっている。吸血鬼である彼女が使用する武器なのだから対吸血鬼用であるはずがないのだ、吸血鬼の驚異的な治癒力が抑制されることはない。
 しかし、吸血衝動は収まらない。

「く、う……っ」

 発狂しそうなほどのそれに、零は意識を飛ばした。

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