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 美夜は迷うことなくシャーペンを走らせ、一度も手を止めることなく問題を解き進める。教師が趣味で混ぜたような意地の悪い問題すらも、カリカリカリ、と難なく解答する。
 開始二十分弱で全ての問題を解き終え、シャーペンの芯を仕舞って見直しに入った。周囲の生徒の焦りを無駄に煽ってしまっているのだが、美夜は全く気にしない。

「…………」

 あまり綺麗だとは思わない自分の字が並ぶ解答用紙を裏返し、頬杖をついて仕事のなくなったシャーペンを見つめる。
 零が試験に来ていない。優姫も朝からどこか呆けてしまっている。
 昨夜、優姫に勉強を教えていた頃は何も無かった筈だ。その後、何かあったのだろうか――あったのだ、きっと。しかし優姫が話してこない様子を見ると、大した事ではないのかとも思う。優姫は嘘や隠し事が出来ないタイプだ。まして自分が、優姫がそういうことをしている事に気付かない訳が無い。
 丁度、今の教科が終わると昼休みになる。この教科が終わったら、それとなく優姫に尋ねてみよう。
 美夜は裏に向けられた解答用紙を睨むようにしながら、ただチャイムが鳴るのを待った。




 午前の試験が終了し、美夜は試験のために移動していた席からいつもの席へと戻った。他の生徒も、伸びをしたり試験内容についての言葉を交わしながら席を移動していた。

「優姫、どうだった?」
「あ、うん……」

 生返事な優姫に苦笑を浮かべる。この様子ではあまり出来は良くなかっただろうと思う。朝から心ここにあらずだったし。
 試験は今日中に採点されてクラス平均が発表され――その為に今日の午後は、もう一教科終われば自習――最下位のクラスは早速今日の放課後から舞踏際の準備に取り掛からなければならない。周囲の生徒がそれについての会話をするのを聞き流し、美夜は優姫の顔を覗き込んだ。

「どうかしたの?ぼーっとして」
「え、ううん、何でもない……」
「ならいいんだけど」

 嘘をついている様子は無い。しかし様子はおかしい。美夜は内心首をかしげながらも、表面上は変わらず笑みを浮かべる。

「二人とも、昼食に行きましょう?」

 沙頼にそう言われ、美夜も優姫も頷いて席を立った。





 美夜は午後の自習を、英から貰った彼の論文を読むことに費やした。かつて"奇跡の天才少年"の異名があったことにも十分頷ける、レベルの高いものだった。吸血鬼の名門の生まれであることに恥じないそれに――大筋を理解するのも精一杯――美夜は心の中で賛辞を送った。
 優姫はいつものように突っ伏して寝てしまっていたが、時折起きては呆と宙を眺めていた。チャイムが鳴っても起きない時がある事を考えれば非常に珍しい。
 一日の講義が全て終わり、帰る支度をしていた美夜らに声を掛けたのは、顔色が悪い上に口元を引きつらせた影山だった。

「……黒主くん」
「え、委員長っ?」

 影山の只ならぬ様子に、呆けていた優姫もはっと我に返る。影山は気の毒なくらい口元を引くつかせていた。

「五教科のクラス平均の順位を聞いてきたよ……ウチのクラスが最下位なのは予想通りだったけどね……っ!」
「あら……」

 寮に帰るのではなく――荷物を置きには行くけれど――舞踏祭の準備に行かなければならなくなってしまった。
 残念だったね、と美夜は沙頼と顔を見合わせて肩を竦めた。影山に見据えられた優姫は、体を小さくして教材を抱き締める。

「……黒主くん。君、解答用紙に名前だけ書いて、あとは白紙だったそうだね……」

 え、それは予想外。
 美夜が驚いて声を漏らすと、影山が暗い表情を一転、キラキラとした眼差しを向けてきた。理事長を彷彿させるそれに、美夜は半歩程後ずさる。

「晃咲さんは流石です!全教科において二問しか間違ってないなんて……っ」
「私の点数筒抜けかあ」
「なのに!誰かが白紙だったせいでプラスマイナスゼロ……!ああ錐生くんがいてくれれば……っ」

 見直し甘かったかなあ、と口を尖らせていると、影山は芝居がかって見える程大袈裟な身振りで話す。最後にきつく優姫を睨み、こう吐き捨てた。

「君のせいで僕のクラスは舞踏祭の裏方さ!瑠佳さんと踊る機会を失ったら君のせいだからな!!」

 影山がバタバタと走り去ると、沙頼が優姫に呆れた声を掛ける。昨晩優姫が問題を解けた所を見ただけに、"白紙"が信じられないのだろう。もっとも、それは美夜も同じだ。

「優姫、あなた折角勉強したのに……」
「う、うん、そうなんだけど……」
「あの後何かあったの?」

 さらりと言った沙頼の言葉に引っかかる。美夜が問いかけようと口を開いたとき、影山の走り去った方向を呆然と見ていた優姫が目を見開いた。
 気付いた美夜がその視線を辿ると、開いている教室のドア際に、どういう訳かまり亜が立っていた。周囲の普通科生が好奇の視線を向けてくるのも気にせずに、じっと優姫を見つめている。

「っごめん二人とも。先行ってて!」
「……私も。ごめんね沙頼」

 優姫が教材を沙頼に預けてすぐに、美夜も小声で、置いて行く沙頼に謝罪した。驚く沙頼をその場に残し、教材を持ったまま、走り出した二人を追う。
 校舎を出、軽やかに駆ける二人を見失わないように必死で走る。
 ある建物の傍で優姫がまり亜の足を止めさせたのを確認すると、さっと木の影に隠れる。荒くなってしまっている息を押し殺し、今の状態で可能な限り気配を消した。




「待って、まり亜さんっ!」

 ストレートの髪をふわりふわりと揺らして駆けるまり亜の腕を掴む。

「ねえ優姫さん、このホールで舞踏祭があるの?」
「とぼけないで」

 腕を強く掴んでいるのに気にした様子も無く、まり亜は微笑んで尋ねてくる。少しきつく言うと、まり亜は無邪気な笑顔から静かな微笑みへと表情を変えた。
 どうして昨晩の出来事を忘れていたのだろう。彼女が四年前の零の敵(かたき)である事を。零がずっと憎んでいた、復讐を遂げる相手である事を。

「……今はまだ、大丈夫だけれどね。その内、あなたの言う事なんて聞かなくなるわ」
「…………」

 知っていたが、改めて突き付けられると辛かった。零はいずれ<レベル:E>になってしまうのだと認めたくなかった。
 腕を掴んだまま視線を地面に落としてしまうと、まり亜が空いている方の手を伸ばして来る。顎に触れた感触に顔を上げると、まり亜は至近距離で微笑んだ。

「私はね、零を助ける方法を知ってるの。零を助けたければ、取り引きしましょうか」
「!」

 <レベル:E>化を免れる方法があるのなら、知りたいに決まっている。自分か美夜が零を撃つなんて考えたくもない。

「あなたにしか出来ない事よ――――あなた自身を私に捧げるか、それとも、玖蘭枢の亡骸を私に贈って下さるか」

 言葉の意味を理解するのに、時間がかかった。
 優姫の顎に添えていた手を離し、まり亜は笑みを深める。その視線が一瞬優姫の後ろに逸れるも、直ぐに優姫を捉えた。

「そうね……期限は舞踏祭の夜、仮の寮にいらっしゃい」
「はい……」
「よく考えなさい――――後ろの子とも相談して、ね」

 言われて反射的に振り返ると、木の影から美夜が歩み出て来る。いつから聞いていたのかは分からないが、その無表情さから誤魔化せないと察した。
 まり亜は既に優姫に背を向けて歩き出していたので、優姫はまり亜を見つめる美夜に駆け寄った。

「美夜……」

 彼女は感情的ではなく、静かに怒る。冷え切った眼差しでまり亜の背を見つめる美夜は、明らかに怒って見えた。
 優姫が呼びかけると、美夜は一度視線を落としてから優姫を見る。するとそこにはもう怒りがなく、代わりに、酷く辛そうな、悲しそうな目があった。

「ごめんね優姫……気付かなくって」
「あ、謝る必要なんてないよ」
「でも……ね。ごめん、本当にごめん」

 美夜はまり亜が閑であると知っていたのだろうか。その事を黙っていたから謝罪してくるのだろうか。美夜が体の横に持った教材を強く握っていた。指先が白くなっている。彼女が何に怒り、何について謝っているのか、いまいち分からなかった。
 もう分かんないからいいや。考え込むのは私らしくない。
 そう開き直って、今にも頭を壁に打ち付けそうな勢いで自分を責める美夜の肩に手を乗せた。

「あのね美夜、聞いてたかもだけどまり亜さんは緋桜閑で、零を咬んだ<純血種>だったの。で、零の<レベル:E>化を止める方法を知ってる。だから私は取り引きに乗ろうと思う」

 驚きと混乱を混ぜた様な表情の美夜に早口で述べる。取り引き、と美夜が復唱したのに頷き、優姫は躊躇なくはっきりと言い切った。

「私は私を差し出すよ」
「!」
「枢センパイを殺すなんて出来ないし」

 美夜は一気に焦りを露にする。だが、何と言われようとも優姫は意見を変えるつもりはなかった。零を助けたい気持ちに、一切の迷いはないのだから。

「そんな、じゃあ私が……」
「まり亜は私を指名したんだし。……私だって、零を助けたいんだよ」

 やや強めに言うと、美夜は言葉を詰まらせた。いつも美夜自身が優姫に言っていた事だ、美夜に優姫の気持ちを伝えるのにはこれが一番手っ取り早い。
 美夜は優姫から視線を外し、考えるように斜め下を見つめる。
 まり亜に――閑に身を差し出すということは、<純血種>に咬まれる事を意味する。つまりは、吸血鬼になることを受け入れる事になる。優姫がそうなることを美夜が簡単に認めないとは分かっていた。

「お願い美夜、行かせて」
「……無茶は、しないこと」

 美夜が相変わらず強く教材を掴んでいるのには、気付かない振りをして頷いた。

「でも私は、優姫を咬ませるつもりはないから。頃合いを見て、絶対助けるから」
「え、でもそれじゃあ零を助け……」
「その辺は上手くやる、ね。だから、無茶しないで」

 分かったと頷くと、美夜はほんの僅かに表情を和らげた。




 寮の部屋に教材を置いた美夜は、裏方の仕事の為、一人舞踏祭の行われるホールへ向かっていた。同じく寮に戻った優姫は少し後で沙頼と一緒に来るらしい。美夜も待っていてもよかったのだが、どうしても気持ちが落ち着かなかったのでさっさと寮を出た。

「冗談じゃない……っ」

 噛みしめるように呟いて、速かった歩調を更に速める。きつく握った手には爪が食い込んでいたが、力を抜くことはなかった。
 自分の情けなさに腹が立つ。結局後手に回ってしまい、優姫にあんな事を言わせてしまった自分を殴りたい。この"偽りの平和"に身を置いたせいで、何時の間にか平和ボケしてしまったらしい。

「私は何のために……っ」

 私は何のために、ここに来た?これではまるで意味が無いじゃないか。
 美夜はたまたま視界に捉えた木にツカツカと歩み寄り、木を目の前に立ち止まる。無言でそれに勢い良く額を打ち付けた。

「ごめん……もうヘマはしないから」

 木の幹に額を押し付けたまま、足元を睨んで呟いた。




 舞踏祭の行われるホールには既に多くの生徒が準備に勤しんでいた。舞踏祭前は寮の門限を大目に見てもらえるので、準備の生徒は思う存分準備を進めることが出来る。
 各学年で試験の平均点が最下位だったクラスの生徒が、飾り付けをしたり当日の段取りをしたりと賑やかだ。

「あ、美夜ちゃん!」
「こっちおいでよー」

 どこを手伝うべきかと見回していると、クラスの女子に名を呼ばれた。飾り付けを作っているらしく、多くの布に囲まれている。

「手伝ってもいい?」
「うんうん是非是非!」

 五人の輪に加わって、美夜は作業手順を聞きながら手を動かす。細かい作業だが苦にならないので、サクサク作業を進めた。

「早く終わらせないと、ダンスの練習する時間もないんだって。先輩が言ってた」
「え、まじ?あたし踊ったことないから練習しなきゃなのに……」
「踊れる人の方が少ないでしょー」

 黒主学園に通う生徒は、並よりは上の階級の人がほとんどだ。しかし今、パーティーはあれど踊る事は少ないらしい。踊りを知っていても、踊らない期間が長いと踊れなくなる。

「美夜ちゃんは?踊れる?」
「あ、うん。だから皆が踊りの練習してる時も、こっちの準備するつもり」
「踊れるからってサボらないのが流石だよー」

 いいなあ、と呟くクラスメイトに苦笑する。踊れるといっても練習に出てもいいのだが、優姫も踊れるらしいし――その時間も寝るだろう――沙頼も踊れるので準備をするらしいし、零は分からないが踊りの練習をするとは考えにくいので、練習に出るつもりはない。
 指に持った針に糸を通し、穴から抜けないよう糸の先を結んだ。それを準備しておいた布に走らせ、飾りを作っていく。
 糸が少なくなった所で玉止めをしていると、急に周囲がざわめき始めた。先程までも賑やかだったが、それとは違い、あちこちで「ケンカかよ」「こわーい」と耳打ちする気配がする。
 声につられた美夜が手元から顔を上げ、生徒の視線を辿ると、制服を血色に染めた零がホールに入って来ていた。

「やっぱり錐生って怖いよね」
「血まみれなんて、一体どんなケンカを」
「っごめん皆、抜けるね」
「え、美夜ちゃんっ?」

 美夜は布を置いて立ち上がり、ホールを真っ直ぐに進む零に駆け寄った。このホールには、入口の正面の奥の壁にドアがあり、零は周囲の視線を気にせずそれを目指しているようだった。

「零っ」
「……美夜か。あの編入生を見なかったか」

 こちらを一瞥するだけで立ち止まろうとはしない。淡々と問いかけられ、美夜は零の体調を気遣う言葉を引っ込めてしまった。

「まり亜?……見てないけど」

 零は、そうか、と短く返すとドアを勢い良く開けて中を見回す。誰もいない事を確認してすぐに踵を返そうとする零の腕を、美夜は慌てて掴んだ。

「零、怪我は――――」
「っ」

 パシ、と乾いた音がして、掴んだ手が振り払われた。零を非難する囁き声を聞き流し、美夜は振り払われた自分の手を見てから、一応は立ち止まってくれている、酷く顔色の悪い零を見上げる。
 零のシャツは右胸辺りから真下に裂けていて血を吸っていたが、そこから見える肌に傷はない。昨日の今日で治癒したのなら対吸血鬼用武器でなかったのだろうが、だからといって失った血まですぐに回復する訳ではない。

「……寮まで、行ける?」
「っ……ああ」

 零は僅かに目を剥いたが、美夜の言葉の意味を察してくれたらしく、気まずそうに視線を逸らして頷いた。
 ここからだとどちらの寮が近いだろう、と考えるが、どちらにせよ零が女子寮に入るのはまずい。男子寮に入れてもらおうと決め、美夜は零の前に立って歩き出した。
 零がついて来る気配がしたが、すぐに立ち止まる。振り返ると、零は喉を抑えて床を睨んでいた。

「……ごめん」

 私が前に立ったから、無意識に首に目がいったんだ。
 険しかった表情をさらに歪める零を、美夜は先ほど零が中を確認した部屋に引っ張り込む。この状態では寮までもたないと判断した。
 扉を閉めて鍵もかけ、ざわめくホールと部屋とを切り離す。扉に背を向けて零を見上げるとすぐ、シャツのボタンを外そうとしていた手を絡め取られた。

「は……っ」
「っん……」

 両手を扉に縫い付けられ、零の顔が首に埋まる。すぐに鋭い痛みが走って、美夜は声を漏らした。
 背中の扉越しに、生徒のざわめきが聞こえる。扉のすぐ傍まで来ているらしいが――零がいると分かっているからだろうか――ドアノブに手を掛ける事はなかった。開けようとしたとしても、鍵はかかっているけれど。
 あまり躊躇い無く血を飲み下す様子から、零がどれほど追い詰められていたのかを感じ、美夜は天井を見つめて眉を寄せた。
 ごめんね、零。
 美夜の手を扉に縫い付けている零の手は、強く美夜の手を握っていた。美夜がそれを握り返すと、更に強く握られる。
 数度、零の喉が鳴ると、牙が抜かれる感覚がした。手に込められた力はそのままに、飲み切れなかった血を零が舌で掬う。すぐに血は止まらないからか、牙跡を何度も舌が往復する。
 くすぐったさに身を捩ると、零がゆっくりと顔を上げた。

「顔色、ちょっと戻ったね」
「……ああ」

 覆いかぶさる様にしていた零が体を離し、するりと手を離した。零が口元に付いた血を舐めとり、美夜はポケットからハンカチを取り出して牙跡に押し当てる。
 扉の外は未だ生徒が近くにいるようで、複数人の会話する声が聞こえる。このまま出るのは賢明とは言えない。

「……行くぞ」
「え、でも――――」
「窓から出る」

 不意に体が浮く。横抱きにされ、真近にある零の顔を直視出来ずに、ネクタイの結び目を見つめた。

「あ、歩けるよ?」
「……多く飲んだ自覚はある」
「で、も、大丈夫だし」
「そうは見えないからこうしてるんだ。……スカートでも押さえてろ」

 零は美夜を抱えたまま器用に窓を開け、外に出る。前を向いたまま、体を小さくする美夜に問いかけた。

「……居住区でいいか」
「う、うん。ごめん」
「……謝るな。美夜は何も悪くない」

 その言葉に美夜は思わず目を見張った。驚いて零の顔を見ると、何だ、と視線を向けられ、その近さにさっと顔を伏せた。零が深い意味無く言ったのだとは分かっているが、考えている事を見透かされている気がしてしまって落ち着かない。
 美夜は周囲の視線からも零の視線からも逃れる様に俯き、その先にあった自分の制服のリボンを睨みつけた。

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