25
コツコツとヒールを鳴らし、肩辺りのドレスの飾り布と、腰にある大きいリボンを揺らして、美夜は舞踏祭の行われるホールへ向かっていた。いつもと全く違う服装な為に少々落ち着かず、やや早足になっていた。
舞踏祭の今夜、女子はドレスに身を包み、男子は制服の胸にバラのコサージュを付けてホールに集まる。
美夜はドレスの腰にあるリボンに、風紀委員の腕章を付けていた。手袋をしてその上から付けても良かったのだが、格式的に高くはないので――ドレスも昼のパーティー用であるし――肘上の手袋をするのが躊躇われた。悩んだ末、赤いリボンに腕章を通したのだ。
風紀委員として会場の警備をしなければならないので、裏方――裏方の生徒も交代で踊っていいらしいが――の仕事も手伝えない。
「早かったかな……?」
ホールにはまだあまり生徒がいなかった。しかし来るのが早くて悪い事は無いだろうと、美夜はホールをぐるりと歩いてみる。
今日の為に呼ばれた楽団もまだ演奏を始めていない。生徒が集まってきたら始まるのだろう。
一周ホールを回り、美夜は足を止めた。どこに立っていようかと辺りを見回し、非常に煌びやかな集団がホールに入って来た事に気が付いた。
「こんばんは」
美夜が言って腰を折ると、夜間部生は見知った生徒を筆頭に言葉を返してくれた。美夜が立っているのはテラスの傍で、夜間部生は自然とこちらへ向かってくる。
邪魔かな、とその場から離れようとしたが、その前に駆け寄って来た莉磨に声を掛けられた。
「それ……どこのドレス?可愛い」
「ありがとう。どこかなあ、送ってもらったから……。でも、やっぱり莉磨さん可愛い」
「ありがと」
流石夜間部生、皆ドレスが似合っているし、立ち居振る舞いが上品で目を引く。夜間部生の多くもドレスが昼のパーティー用なのは、この舞踏祭に合わせてのものだろう。本来夜のパーティーは格式の高いものが多いのだが、この舞踏祭はあくまで学校行事だ。
「あのさ……いい加減"莉磨さん"って止めない?美夜が私達と仲良いの、皆もう知ってるわよ」
「じゃあ……莉磨?」
「そ」
首を傾げて言うと、莉磨は微かに笑って頷いた。莉磨が笑う事は少ないので、美夜はどこか感動して莉磨を見つめる。莉磨に続いてやって来た千里も、眠いのか目をこすりながら言う。
「オレも……呼び捨て」
「えと……千里」
「んー」
……千里は、割りといつでも眠そうな気がする。
そう思いながら他の夜間部生とも挨拶を交わしていると、拓麻から「考えたね」とリボンの腕章を突かれたので、でしょ、と悪戯っぽく笑った。そして、ふと英が押し黙ってしまっている事に気が付いた。
「……英さん、元気ない?」
「い、いや、別に」
この様な行事は全力で楽しむタイプである英が妙に大人しい。すぐに難しい顔をして腕を組むので、これは話しかけない方がいいな、と美夜は瑠佳に向き直った。
「瑠佳さんは……」
「どうしたの?」
立ち姿に見惚れて言うと、瑠佳に小さく笑われた。
「髪を上げてると雰囲気違うなと思って。見惚れるよ」
「ありがとう。それをいうなら、美夜の髪型も新鮮で素敵よ」
「っありがとう」
普段飾り気無く一つに結っている髪は、今は髪飾りでまとめられていた。髪飾りがドレスとセットで届けられていて、使用方法を考えながらセットしたのは三十分程前。褒めてもらえたのが素直に嬉しくて、美夜は肩を竦めてはにかんだ。
すすめ着飾った女子生徒と落ち着きのない男子生徒がぞろぞろとホールに入って行くのを、零は入り口横の柱に凭れて眺めていた。風紀委員の腕章をしているが、制服は着崩したままだ。
「…………」
柱に後頭部をぶつける。ゴン、と重い音がして後頭部に鈍い痛みが伝わった。
まり亜と、まり亜と一緒にいた男の姿が頭をよぎる。と同時に、このホールの奥の部屋で、美夜の血を好きなだけ貪った事も思い出す。今は口元に付着していない血を拭うように、手の甲を口に当てた。
「……最低だ」
「なーにが最低だって?」
「理事長……」
柱の後ろからひょこりと姿を現した理事長に――正装と言うより仮装している――零は驚きつつも溜め息を吐いた。
無意識なのかわざとなのか、理事長は時折気配を消す。かと思えば吸血鬼の気配が混じる事があって厄介だ。
「警備ご苦労様。ちゃんと来てくれて嬉しいよ」
「……理事長命令と言われれば……来るしかありませんから」
「義理堅いな、ああああ?!ゆっきーがおめかしして来てくれた!」
理事長の叫びに眉間の皺を深めつつ、ドレスを来て現れた優姫へ視線を移す。長袖のドレスの手首辺りに風紀委員の腕章が付けられていた。
ハイテンションな理事長にダンスに誘われた優姫は、苦笑しながらも了承する。優姫とダンスの約束を取り付けた理事長は、満面の笑みで慌ただしくその場を去って行った。
「零、先に来てると思わなかった」
「……美夜は?」
「見てないよ。まだ来てないのかな」
既にオーケストラの演奏は始まっている。
あいつに限って遅れるって事はないだろうけど。
浮足だった優姫――舞踏祭には乗り気でなかった筈だが、枢辺りにダンスに誘われたとか、そんな理由だろう――に腕を引かれ、柱から背を離してホールに足を踏み入れた。
「良かった、まだ特に変な事は起きてないみたい」
ホールの中には多くの生徒がおり、演奏に合わせて踊っている組も幾つかあった。もしかしたら美夜がいるかもしれない、と視線を走らせていると、零の前を歩く優姫に飛び付いた人がいた。
「わ、美夜!来てたんだ」
「早く着いちゃったから、莉磨とかと話してたの。優姫可愛いっ」
「あ、ありがとう。美夜も可愛いね」
優姫を褒める美夜自身も何故か嬉しそうだった。しかし、褒められて、ありがとう、と笑う美夜も本当に嬉しそうで――単に褒められて嬉しいのか、優姫に褒められて嬉しいのかは置いておいて――零は密かに口元を緩める。
肩にある飾り布と風紀委員の腕章が付けられた腰のリボンが、美夜の動きに合わせて揺れていた。ただ、自分の咬み跡を隠している首飾りを見ると、自分を責めずにはいられなかった。
瞬時に口元を引き締めた零はきゃっきゃとはしゃぐ二人から視線を外す。
「ねえ美夜、枢センパイ来てる?」
「うん、今は多分一人でテラスにいると思う」
「ありがとっ」
早速枢の元へと向かった優姫に、美夜が一人呟いた。
「可愛いなあ……」
しみじみとしたそれに、呆れて溜め息を吐くしかなかった。
「どうかした?」
「いや」
テラスに向かった優姫を見送った美夜が零を見上げると、何故か零は溜め息を吐いていた。気だるそうに柱に凭れる零を見て、美夜は苦笑しながら制服を引っ張る。
「今日くらいは、服装正そうよ」
「……」
「ね、風紀委員さん」
そう言うと零は大人しく服装を直し始めた。胸ポケットにバラのコサージュを付けなければならないが、この様子だと零は持っていないし、生憎自分も持っていないので仕方がないことにする。
普段は見ることの出来ない零の制服姿に、よし、と一つ頷いて、いつもより近い零の顔に小さく笑った。
「……何だ?」
「ううん、零が近いなって。ほら、学園指定のブーツよりヒール高いから」
「ああ……優姫よりは高くても小せぇもんな、お前」
「零が高いんだよ」
踊ったり会話を楽しむ生徒を眺め、その視線はテラスに数秒留まった。頬を染めて枢とワルツを踊る優姫の腕には腕章が無く、美夜は頬を緩めて視線を外す。
楽しそうな優姫にこちらも楽しくなる反面、優姫の目にはやはり枢しか映っていないのだと改めて認識させられた。湧き出る様に浮かんできてしまう思いは、だが無理矢理単純な考えに収めた。
優姫が嬉しいなら、それでいいか。
「私、ぐるっと見てくる」
「ああ」
風紀委員らしくしようとホール内を歩き出す。落ち着いて周囲を見ると、夜間部生をそわそわと窺う普通科生が多かった。
憧れの生徒と交流出来るかもしれない貴重な学校行事だ。学年に関係無く、少しでもお近付きになりたいのだという気持ちが見受けられた。
「あ、美夜ちゃん!」
「へー、ドレス似合ってんじゃん」
不意に名を呼ばれて振り返ると、クラスの男女が数名集まっていた。美夜のクラスは裏方の手伝いだから、今彼らは交代しているのだろう。
「ありがとう。裏方どんな感じ?」
「結構忙しいよ。私たちもまた戻らなきゃ」
「なあなあ、晃咲は踊らねーの?」
「まあ……仕事中だしね」
苦笑して腰を捻り、リボンに付けられた腕章を示す。
「いいじゃんちょっとくらい。黒主だって踊ってるし」
「美夜ちゃん練習来なかったでしょ?だから皆で、美夜ちゃんはすごい上手なんだろうなって話してたの」
俺と踊ろうぜ、と近くにいた男子が言ったのをきっかけに、四人ほどの男子からダンスに誘われる。やんわり断ってみるが、引いてくれない。
優姫が踊っているのを知っている彼らに風紀委員業務を強調する訳にもいかない。女子に視線で助けを求めるも「踊ってるの見たい」と一蹴された。彼女らは好奇心に負けたらしい。
「私、別に上手じゃないし……」
「何今更な事言ってん――――」
「……悪いな、先約だ」
後ろから腕を引かれて顔を上げると、眉を寄せた零と目が合った。同時に、男子は美夜から一歩距離をとり、女子は視線を逸らしてグラスに口をつけている。
「へ、へー。じゃ、お二人の華麗なダンスを拝見させてもらうな」
「先約ってことは、踊るんだろ?踊らないならオレ、晃咲と踊りたいし」
零が来たことにほっとしたのも束の間、そう言われて腕を掴む零を窺う。美夜は零が踊れるのかどうかさえ知らないのだ。
どうするの、と不機嫌さを滲ませる目に訴えると、零は男子に言葉を返さず美夜の腕を引いて歩き出した。聞こえ始めた新たな曲を耳に挟みながら、美夜は零の背に呼びかける。
「……すごい見られてるよ、零」
「……何でお前はそう絡まれやすいんだ」
「え、ごめん。それとありがとうね」
先程演奏されていた曲とはまた違う、ゆったりとした曲が流れ始める。美夜は背中に視線を感じながら零を見上げると、零はクラスメイトの方を一瞥して溜め息を吐いた。
「……一曲丸々踊らなくていいだろ」
「零、踊れるの?」
「…………多分、大丈夫だろ」
ハンター協会でも稀に夜会を持つことがあるからだろうか、それとも何か別の理由――理事長の趣味とかそういう――だろうか。
「本当にいいの?無理して踊らなくても……」
「少しでも踊らないと、あいつらと踊る羽目になるぞ、お前」
「仕方ない……かな」
別にクラスメイトと踊るのが嫌という訳ではない。ただダンスはどうしても体が近付くので、誰とでも気兼ねなく踊れる訳でもない。まして異性だ。
「あ、でも……折角なら、零とは踊ってみたい……」
「っ……決まりだな」
優姫がまだテラスで枢といるのを確認し、美夜は零の前に立った。
『零を引き止めてて』
優姫から、前もってそう頼まれていた。嘘を吐けない優姫がまり亜の所へ向かう時に、零に見つかってはならないからだ。優姫がまり亜の所へ向かえば、後は約束通り、"隙を窺って"美夜が助ける事になっている。
まさかダンスで零を引き止められるとは思わなかったけれど。
「じゃあ、お願いします」
零の手を取ると、ぐっと体を引き寄せられた。
優姫がちらりとホールを見ると、穏やかな曲に合わせて零と美夜が踊っているのを見つけた。夜間部生に引けを取らない二人のダンスに、ホール内の生徒も少しの驚きをもって見ているらしかった。
美夜が上手く零を引き止めてくれていることに安堵し、優姫はテラスの策に凭れる枢に向き直った。直前までワルツを踊っていたことで少し顔が熱く感じたが、気にせずに枢を見上げる。
「あの夜……私を眠らせて記憶をいじったのは、枢センパイですよね?」
仮の寮で零とまり亜が戦っていた時、飛び出そうとした優姫を引き止めたのは間違いなく枢だ。上級吸血鬼の能力である記憶操作で、その時の優姫の記憶を書き換えていたのだ。
まり亜を見たことで思い出せたけれど、納得出来る訳がない。優姫の言葉を否定しない枢に、やや非難の篭った声音を向けた。
「幼い子供を危険から遠ざかるみたいに……もう、子供扱いしないで下さい」
「……違うよ、優姫。子供扱いじゃない」
「だったら、どうして」
「守りたかっただけなんだ。あの場は、ああするのが一番だと思ったんだ……」
枢は悲しそうにそう言って、テラスの隅で優姫を抱き締めてきた。煩い程に跳ねる心臓を鎮め、何とか冷静さを保つ。
枢が優姫自身を案じてくれたのだとは分かっている。彼はとても優しいから。
優姫は少しだけ枢の腕の暖かさに身を委ねると、枢を軽く押して体を離した。
「……ごめんなさい」
少しはにかんで謝ると、枢はするりと腕を解く。優姫はその枢の表情を見ないようにしながら、テラスからホールへ移動する。華やかなホールの中を、一人静かに抜けて行った。
二分ほど曲に合わせて踊ると、自然と零と美夜はダンスを中断した。元々一曲踊るつもりもなかったからだ。美夜をダンスに誘っていた男子が呆気にとられているのを見て、零は軽く息を吐いた。
「零、ダンス上手いんだね」
まだ踊っている組の邪魔にならないようにホールの隅に移動すると、美夜は息を整えながら笑った。
「お前こそ……好きなんだな、ダンス」
「うん、運動は苦手だけど踊るのは好き」
踊っている最中、美夜はずっと笑っていた。本当に楽しそうに笑顔を浮かべていたのだ。美夜は――作り笑いもあるが――よく笑う方だが、無邪気な笑顔はそうそう見ることが出来ない。
そういう意味ではあいつらに感謝してもいいかもな、と苦笑する。
楽しかった、と余韻に浸っている美夜だが、視線を零から逸らした瞬間に、その笑顔が瞬時消えた。それに気付いた零は、伸ばした手の甲を美夜の頬にあてる。再びこちらを見る美夜の表情に異変は無いが、一瞬だけ見えた真剣な表情が気になった。
「……どうした」
「何もないよ?」
ぺちぺちと手の甲で美夜の頬を軽く叩くと、美夜は僅かに頬を染めてそれから逃れる。あれだけ密着して踊っている最中に赤面していなかったのは、自分がダンスに負けたからかと心の隅で思った。
追及しても言わないのだろうとそれ以上は聞かなかった。閑の存在が近くにある今、敏感に反応しすぎているのかもしれない。
「じゃあ、私、ちょっと見回ってくるね」
「……ああ」
「ダンスのお相手ありがとう」
美夜はドレスの裾を摘んで軽くお辞儀をし、人ごみの中へと歩いて行った。残された零は壁に背中を預けて、風紀委員らしくホール内の様子を窺い、英と暁が連れ立って出入り口へ向かうのを見送り――テラスに、枢しかいないことに気が付いた。
枢と一緒にいたはずの優姫がいない。ホール内にもそれらしき人物は見受けられない。
「っ……」
零がまり亜と仮の寮で戦闘した時、優姫がいたのは確実だ。その後どうなったのかは知らないが、まり亜から接触がなかったとは言い切れない。嫌な予感がした。
大股でホールを横切りテラスに出ると、枢がこちらへ顔を向ける。そのすまし顔に苛立ちを覚えながらも、零は短く問うた。
「……玖蘭先輩、優姫は」
「僕は、君の役割を伝えたはずだ……優姫の盾だと。忘れては困るよ。それとも……」
優姫の身に何かが起こる可能性があるとなれば、やはりまり亜絡みだ。零は眉間の皺を深くしながら、不可解な所で言葉を切った枢を睨む。
「……それとも君は、盾の役目を彼女に譲って僕に殺されるつもり?」
「!」
"彼女に譲って"?
枢に殺される云々はどうだっていい。自分もそのくらい枢を嫌っているし、枢にとって自分は優姫の盾以上でも以下でもないと宣言された事もある。易々と殺されるつもりもないが、今更な話だ。
それよりも、今枢が口にした"彼女"に目を見開いた。優姫の盾に進んでなろうとする人物は誰だと考えるまでも無く、枢が言っているのは美夜だ。ほんの数分前に見回りに行くと言っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
零は仮の寮の方向を睨み、テラスの柵を飛び越えて走った。上着のボタンを外しながら、仮の寮にいるであろう二人の行動を思い起こす。
まり亜と対峙していたことを知っていながら、追及してこなかった優姫。その優姫がホールからいなくなったことに、恐らく気付きながらも何も言ってこなかった美夜。
美夜が零に嘘をついていたのだとしたら、初めから二人は、自分に知らせるつもりはなかったのだろう。
「くそ……っ」
賑やかで楽しそうな話し声とオーケストラの演奏が急速に遠ざかり、外灯が照らす中を駆ける。奥歯をかみ締めて、地面を蹴る足に力を込めた。
四年前、自分から全てを奪った綺麗な笑みが頭に浮かんだ。
*
舞踏際を抜け出し、英と共にある建物の地下への階段を下りる暁は、段々と気温が下がってきていることに気が付いた。
「冷えてる……多分ここだ」
半歩ほど先を歩く英が難しい顔をして呟く。暁は未だ半信半疑で、螺旋状に続く階段の先を見つめた。カツン、カツン、と二人の靴が階段を叩く音だけが響いている。
「へえ……本当に、この先に……」
「やっと信じる気になったか?暁」
まあな、と溜め息混じりに呟いて、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま階段を下りていく。程なくして階段が終わると、さらに気温が下がったような気がした。階段を下りて着いた開けた場所には、宙に浮いている大きく透き通った塊と、それを支える無数の糸が壁から伸びていた。
宙に浮いた石――水晶の様な氷の様なそれの中には、着物を着た髪の長い女が眠っている。暁はそれを見上げ、体内の血が僅かにざわついたような感覚がした。
「"狂咲姫"……緋桜閑」
驚きつつも、確認までに名を呟く。英は半ば睨むようにそれを見上げ、ああ、と短く頷いた。
「お前の考え通り、体を脱ぎ捨てたらしいな」
「…………ここまでする理由が分からない」
腕を組んで呟く英に、暁は返答できない。<純血種>の、しかも"狂っている"と言われる彼女の考えなど一端の<貴族>である自分に予測できるとは思えないからだ。
コツ、と靴音が聞こえた。暁も英も立ち止まっているので、それは第三者のもの。近付いてくる人間の気配は感じていたので、驚くことは無かった。
「あなた方には関係の無いことだよ」
閑の眠る石の奥から、ドミノマスクをつけた男が歩み出た。何となく聞いた事のあるような声と灰銀の髪に違和感を覚えながらも、口には出さない。
一方で英が刺々しい口調で言う。
「……お前、紅まり亜の従者だったな」
「正確には"閑様の"だけどね」
男の言葉で、閑は体を脱ぎ捨ててまり亜として生活していたのだという仮定が事実となる。
男が石に歩み寄ると、何らかの術式を解いていたらしく、宙に浮いていた石は音も無く地面に下りてくる。地面に付いた途端、今度は音を立ててそれは割れた。
「お前、何を――――」
「関係ないって言ったはずだけど。<貴族>が<純血種>の体を傷つけるつもり?」
「…………」
男はこちらを見ずに述べて、横たわる閑の体を丁寧に横抱きにする。するとそのまま男は出てきた方へ歩き、この場を去った。
暁は砕けた石の残骸と弛んだ糸の束を見つめ、ふうと息を吐き出した。
「……行かせてしまってよかったのか」
「枢様のお考えが分からない以上、下手に動けないだろ」
「そうだな……まずは、玖蘭寮長に報告か」
報告するよりもまず、あの人なら既に気付いているだろうと思った。気付いていながら、あえてまり亜――もとい閑を放っておいたのだろう。そこにどういう意図があるのかは分からないが、閑の体を見つけてしまった以上、見て見ぬ振りも出来そうに無い。
「ああ……頼む、暁」
英は石の残骸を見つめたまま、その場から動こうとはしない。暁は何も言わずに、癖のある髪を掻き上げながら階段に足を掛けた。
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