26


 仮の寮――先日、まり亜と零が対峙していた場所に、優姫は一人で駆け込んだ。体に枢の体温が残っているような気がしたけれど、無理矢理振り払って、部屋のカウチに座るまり亜の前へ歩み寄る。

「……決めたのね?」

 着飾ったまり亜がカウチの真ん中に座り、薄く笑んだ。優姫は息を整えるとまっすぐにその目を見返して、強く言った。

「零を助ける方法を知っているなら、助けて欲しい。私を代わりに差し出しても」

 まり亜はその言葉に、予想通りだと言わんばかりに笑みを深めた。

「いらっしゃい、優姫」

 座ったまま手を伸ばすまり亜に近付いて、その前に膝立ちになった。まり亜は薄く笑み、優姫の手を取って自分の口元に運ぶ。
 じっと様子を見つめていると、優姫の指を口に入れる直前、まり亜は可愛らしく首を傾げる。

「何?」
「……私の血があなた達好みの味で、本当に良かったと今は思ってる。代わりに零を助けてもらえるんだから」

 十年前ははぐれ吸血鬼に襲われそうになり、英には甘い香りだと後で言われ、先日も街で<レベル:E>に良い匂いだと言われた。
 優姫の手を持つまり亜が、握っている手に力を込めた。ぎり、と骨の軋むような力の入れられ方に優姫は思わず顔をしかめる。

「……零(あのこ)に絶望を与えたのはこの私……貴女は幸せに育ったのね」

 まり亜は立ち上がりざまに、握っていた優姫の手をカウチの背もたれに叩きつける。優姫は強い力に逆らえず、体をカウチに打ち付けた。セットしていた髪がほどけたが気にせずに、立ち上がったまり亜を睨み上げる。
 怒ったと思いきや、今度はどういう訳か優しい手つきで優姫の頬に手を添えた。カウチに膝を乗せ、優姫に被さる様にして呟いた。

「真っ直ぐな瞳……子供の頃の零ちゃんと似てる。大切に守られてきたのね……羨ましい」
「……羨ましい?純血の吸血鬼の貴女が?」

 枢を見ている限り、確かに忙しそうにはしているけれど、いつも周りには誰かがいて、彼を守るように付き従っている。
 まして閑は女なのだから、大切にされないはずがない。優姫は眉を寄せて間近のまり亜の顔を見つめた。

「<純血種>が幸せだとでも……?」
「っ……」
「……まあいいわ」

 言葉を詰まらせると、まり亜は目を細めて体を起こす。

「約束だもの。零を助ける方法を教えてあげる」

 まり亜の視線の先には、着物を着た女性を横抱きにした男が部屋に入ってきていた。あの夜、まり亜に刀を渡していた、仮面の男だった。

「……壱縷(いちる)。あの子達は大人しく引き下がったのね」
「はい、閑様」
「でしょうね……。育ちのいい子達ですもの。<純血種>の体を傷つけてはならない事をちゃんとわきまえている……」

 まり亜の言う「育ちのいい子達」が誰なのかはよく分からないが、あの男――壱縷と呼ばれた男が抱いているのが、閑の体であるとは理解できる。
 目を瞑ったその姿は人形のように美しく、優姫は体を起こしながらその顔に見とれてしまった。

「あれが私の本当の体……零を救う方法簡単よ」
「!」

 まり亜は立ち上がると、男の腕にいる閑に手を伸ばす。力の入っていない閑の手をまり亜が握ると、閉ざされていた閑の瞼がゆっくりと開いた。

「あの子が、私の血を」
「――飲めばいいの」

 閑が動いて口を開くと同時、まり亜は糸の切れた人形のようにカウチに倒れこんだ。代わりに、先程まで生気すら感じにくかった閑が動き、長い銀髪が宙に泳ぐ。

「……血?!」
「そう……主である緋桜閑の血を。さすれば、零は<レベル:E>に堕ちはしない。真の夜の一族になれるであろう……」

 まり亜の時とは明らかに違う口調や雰囲気に、優姫は呑まれそうになりながらも冷静を保つ。
 閑が、従者であるらしい壱縷にまり亜をベッドに運ぶように指示を出す。優姫は、傍に来た男にどこか違和感を感じながらも、まり亜を抱いて出て行く背中を見送った。
 閑は裸足を床につけながら、優姫の座るカウチに寄りかかる。

「約束だ。哀れな私に血を捧げるがよい。私は追われている……もっと力が必要なのだ」

 閑が何に追われているのかは分からない。分からないし、あまり知ろうとも思わない。ただ、零を助けてくれるならそれでいいのだ。

「そのためにはそなたの無垢なる血が欠かせない……」
「……貴女がまだ力を欲しがるなんて。でも、もし学園の生徒に手を出したら……」
「そなたの血だけでよい」

 首元を飾っていたリボンが閑によって解かれる。閑の言葉に少し安堵しながら、優姫はその静かな目を見つめていた。

「わかっているであろうな……?<純血種>の牙が、そなたに穿たれることがどういうことか……」

 分かっているからこそ、覚悟を持ってここに来た。
 美夜は自分を必ず助けると、無茶をするなと言ったけれど、優姫はあまり聞いていなかった。零を助けるためなら、何でもするつもりだった。もし美夜がここに来たとしても、状況が好転するとはどうしても思えない。
 優姫が目を伏せると、閑が顔を近づけてくる気配がした。首筋に僅かに息がかかって、これから起こる事を思うと恐くもあるけれど、それでも引くつもりは無い。

「……?」

 しかし、閑の動きがぴたりと止まる。伏せていた瞼を上げると、予想通り目の前には儚い印象さえ受ける銀髪があり――視界の端に、この部屋に足を踏み入れた零がいた。
 どうして?美夜は?
 優姫が零を認めて目を剥くと、零も状況を察して表情を険しいものへと一変させる。

「――優姫から離れろ、閑!!」
「っ下がって!零、お願い」

 優姫は、閑に向けられた銃口の前に立ちはだかった。仕込んでいた[狩りの女神]を素早く展開し、銃口を逸らさない零を見つめる。

「どけよ優姫、どうして――」
「この人だけが、零を助けることが出来るんだよ!」
「その女が俺を"助ける"……?」
「聞いて、零。零がこの人の血を飲めば、<レベル:E>に堕ちる事はなくなるの」

 驚きを滲ませながらも表情をより険しくする零は、片手に銃を持ったまま、優姫の方へと歩み寄る。優姫も退くつもりなどないので、[狩りの女神]を零に向けた。
 下がって、と繰り返し口にしても、零は引こうとしない。険しい表情のままで、優姫の庇う閑を見下ろした。

「……血の話が本当だとしても、お前を半殺しにしてからでもいいんだろ、閑」

 背後の閑が、僅かに笑ったような気がした。彼女は零から向けられる感情であれば、なんでも蜜とするらしい。
 閑の前からどかそうと、零に肩を掴まれる。所詮零は男で優姫は女、あっけなく[狩りの女神]が床に落ちた。カラン、と高い音を聞きながら、優姫は自分を掴む零の腕を外させる。
 殺意をむき出しにする、零の鋭い声が降って来た。

「……今更吸血鬼殺しを咎める気か」
「違うっ。そんなのじゃ……」

 零がどれほど彼女を憎み、復讐を願ってきたかを優姫はよく知っている。四年前彼を支え、四年間彼の近くにいたのだから、自分にそれを止められないことも分かっている。
 それでも、零には生きて欲しいから。

「――ごめん、零」
「何故止める、俺はこいつを……!」

 [血薔薇の銃]を持つ手を押さえ、優姫は左手を零の刺青に伸ばした。優姫の行動の意図に気付いた零が目を見開き、しかし素早く優姫の両腕を押さえた。
 ブレスレットから僅かに静電気の様な音が聞こえたものの、術式を発動させるには至らない。
 腕を押さえる零は、怒りよりも混乱を優姫に向けていた。それが優姫の心をより苦しくさせ、ぐっと唇を噛む。目頭が熱くなってくる。どうか分かって欲しい、と僅かに潤んだ視界のままに零を見つめると、腕を拘束する力が弱まる。

「優姫……」

 ふと、背後の閑が動いて衣擦れの音がする。

「――飼い慣らされおって……」

 低く聞こえた声に、零は視線を優姫から外した。優姫の斜め上を睨む零は、何かを堪えるように口元に力を入れている。
 零の様子がおかしい事に気付いて、腕を掴まれたまま首を後ろに回すと、立ち上がった閑が微笑みながら肩にかかる髪を払っていた。

「ふふっ……やっと主の声を聞けて嬉しいか。私に従いそうになるであろう?本来の体に戻ったからこそ、私の声はお前を縛る"力"になるのだ……」

 一体どういうことだろう。声が縛る"力"に?

「……ああ、丁度良い。"そのまま優姫をおさえていろ"。分かっているであろう?主であるこの私の命に、逆らえるものか、零……」
「……零っ?」

 零は腕を放さない。不安に思って零を見上げると、彼はどこか遠くを見ているような目をしていた。
 一度緩められていた拘束が強くなり、零は腕を強く握って優姫の背中に回した。容赦ない力に零の名を呼ぶも、零はこちらを見ることもしない。
 零を良い様に使う閑に怒りを覚えた。

「零にこんなことさせなくても、私は大人しく血を吸われるのに……!」
「四年間、この体は飢えていたのだ……そなた一人の血では足りぬと思わんか?」

 閑はこちらへ来ながらそう言って、零の制服の首元を寛げる。はっきり口にしなくとも、閑が何をしようとしているのかが分かった。
 私の血だけでいいと言ったのに、と止めるよう懇願するが、閑は聞き入れてはくれない。

「どうして零にここまで残酷なこと……」

 零の首筋に顔を寄せた閑の顎を、鮮血が伝う。天井を仰ぐ零は苦しげに眉を寄せていた。零が苦しむ様子を見ていられなくて、優姫は一度きつく目を閉じる。
 零の拘束から逃れようと腕を動かすが、零の意思に関係なくそうなっているからか、びくともしなかった。

「優姫……そなたは私を残酷と言うが、そなたの選択が零を傷つけることくらい、私にも分かる……」

 口元の零の血を拭うこともせず、閑が耳元で囁いた。一瞬身を硬くしたが、すぐに力を抜く。元々こうなるためにここに来たのだから、と荒立っていた気持ちを無理矢理鎮める。
 目の前にある閑の目を見つめ、彼女の言う通りだと胸が痛んだ。

「私……零と一緒ならまあいいやって思ったから……許してくれるかな、いつかは」

 零だけではない。いつも自分を気に掛けてくれていた美夜だってそうだ。
 二人とも、すごく怒るだろうな、いや、自分を責めちゃうのかな。零も美夜も、悪くないのにな。
 閑の長い髪を見つめ、与えられるであろう痛みをただ待った。しかし、何故かそれはすぐに来ない。それどころか、閑は優姫から体を離し始めたのだ。

「え……?」

 どういうつもりか分からずに閑を見上げると、彼女もまた、困惑を隠す様な苦笑を浮かべていた。背後の零に視線を移すと、零は訝しげに閑を睨んでいるだけ。

「まさか……この私ですら、部屋に入って来たことに気付けんとはな」

 閑の顔から困惑が消え、変わりに満足そうな笑みが浮かぶ。状況が分からずに眉を寄せて閑を見ると、閑は優姫の前から僅かに体をずらす。
 優姫は目を見開き、背後の零も息を呑む気配がした。

「これほど近付かれて初めて気が付くなど……私も衰えたものだ」
「――お褒めに預かり、光栄です」

 そこで初めて、閑の背後に美夜が立っている事に気が付いた。
 数十分前に目にした、赤いリボンが目を引くドレスと、可愛いと思った髪型もそのままだった。ただ違うのは、その腰に頑丈に巻きつけられたベルトと、それによって支えられている刀。
 美夜はその刀の柄に片手を乗せ、微笑む閑を見て、それに合わせるように口の端を上げていた。





 賑やかなホールへと一人で戻って来た暁は、まだまだ盛り下がる様子のない生徒を見て小さく息を吐いた。悪い事じゃないが、呑気なものだと思う。
 枢が何処にいるのかは分からない。だがテラスか、あるいは星煉に聞けば分かるかとそちらへ足を進めた。

「っと、悪い」

 誰かとぶつかって反射的に謝ったが、ぶつかった人物は気にした様子も無く、見慣れた輝かんばかりの笑顔を向けてきた。

「あ、架院。君も入らない?」

 拓麻は夜間部と普通科を含む十人近い生徒で輪を作り、手を取り合って踊っていた。そのメンバーの中に、面倒くさそうな千里や莉磨までいたことには驚いたが、拓麻に強制的に参加させられたのだろう。

「……入りたくないですよ、流石に」
「そお?残念だなあ」
「急用もあるんで……」

 見なかったことにしよう、と再び星煉の方を目指すが

「そろそろ並びを交代する頃じゃないかしら?」
「え、でも……」
「こらこらもめないもめない、押さない押さな――――」
「きゃあっ」

 聞こえた悲鳴に振り返ると、場所争いで転倒した女子生徒を拓麻が助け起こしている。物語の一場面のような構図に、転倒した女子は頬を紅潮させていた。
 暁はどこかその様子に苦いものを感じ、大股で拓麻に歩み寄って耳打ちする。

「ほどほどにしてください。これだけ女子を引き寄せておいて……後で"食べる"つもりじゃないですよね」
「失礼だなあ、"親善"だよ。平和活動だよ」

 だといいんですけど、と腕を離すと、今度は拓麻が暁に小声で問うてきた。

「で、急用って?」
「……まずは玖蘭寮長に報告しないと」
「そっか」

 追及してこない拓麻から今度こそ本当に離れると、拓麻は笑顔でひらひらと手を振ってくる。普通科生を虜にする笑顔だが、拓麻は"急用"について何か知っているように感じた。

「"あの編入生"の件なら枢に任されてるけど、違うならいいんだ。……難しい問題じゃないことを願うよ」

 夜間部生の中で拓麻は、枢の付き人である星煉と同じくらい枢に近い存在だ。何か知っていても不思議じゃないな、と思いながら、拓麻から視線を外した。
 壁の花と化している星煉は、暁が近付くと遠くに投げていた視線を寄越す。

「なあ星煉、玖蘭寮長は」
「テラスに。……何かありましたか」
「ちょっとな」

 やはりそこか、と星煉に礼を言ってテラスに足を向ける。テラスの傍にあるガラスにヒビが入っているのを視界の端で捉え、どうやら寮長は不機嫌らしい――彼は苛つくとすぐに、手を使わずに物を壊す――とその矛先が自分に向かないことを祈りつつ、テラスを覗いた。

「…………」

 しかし、そこに枢はいない。星煉が嘘を吐いたとは思いたくないが、彼女が、枢がテラスからいなくなったことに気付かない方があり得ない。
 どうやら枢は、自分達に隠れて何かすることがあるらしい。星煉ならば知っているだろうが、聞いたところで教えてはくれないだろう。
 暁は少しの間、誰もいないテラスを見つめていた。

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