30


 美夜が早めに教室に着いて座っていると、珍しく、沙頼と共に優姫が入ってきた。あまり眠れなかったのかな、と思いながら声を掛ける。

「おはよ、二人とも」
「おはよう、美夜」
「おはよう……美夜っ」
「わっ」

 席に座ったままの美夜に、優姫ががばりと抱き付いた。倒れそうになるがバランスをとり、沙頼が不思議そうに見てくるのに苦笑する。
 昨夜の事だろう、としがみ付いてくる背中をさすってやる。優姫は震える声で、小さく囁いた。

「ありがとう、ありがとう」
「ううん、優姫が頑張ったから」
「違うよ、美夜のお陰……ありがとう、本当に。助けてくれてありがとう」

 いつ零がいなくなるかという不安から脱出出来たからだろう、優姫は何度も礼を言ってきた。美夜はよしよしと背中をさすってやりながら、二人とも席に座るよう促した。
 顔を上げた優姫の目が潤んでいるのを見て、美夜は微笑んで優姫の頭を撫でた。

「あ、美夜、腕は……」
「大丈夫だよ」

 笑って左腕を動かすと、返答したのは優姫ではなく沙頼だった。

「階段から落ちたんでしょう?他の場所は大丈夫なの?」
「うん、腕だけ階段の角に打ち付けちゃって」
「頭を打たなくて良かったわ」

 包帯を巻いてホールに戻ったので、そういう事にしておいたのだ。優姫が察して頷いてくれたのを確認し、ふと、優姫が咬まれそうだった場面が頭をよぎる。
 座ったまま、今度は美夜が優姫を抱き締めた。驚きながらも同じように背をさすってくれる優姫に、彼女がここにいるのだと分かってほっとする。数秒抱擁して、ゆっくり体を離した。

「美夜……?」
「……優姫が無事で、良かった」

 呟くと、何故か物凄く怪訝な顔をされた。僅かに眉を寄せて、黒い大きな目を向けてくる。

「美夜、調子悪いでしょ」
「え、別に……」
「私には分かる!前に零に連行された時と同じ顔してるもん」

 そうなのか、と両手を頬に当ててみる。家族の夢を見た訳ではないのだが、色々と思う所があるのは事実だ。少し顔に出てしまっていたらしい。
 駄目だ、閑がいなくなったからと気が緩んだのか。

「と、言うわけで今日は私が美夜を連行する」
「ええ!?大丈夫だよ、ちょっと寝不足なだけで」
「だとしても……昨日の今日だし、美夜はいっぱい働いたんだから、休んでほしい」

 ね、と優姫に微笑まれる。そうすると美夜が断われないと知っての確信犯だろうか。優姫からの心配を無下にする事は難しい。
 うっと声を詰まらせると、優姫は勝利を確信したのか、美夜に指を差して強く言った。

「今日は休んで、ちゃんと調子を戻しなさいっ」

 じゃあ優姫も?と問うと、私は働いてないからと一蹴されてしまう。沙頼に手を振られながら、美夜は寮へと連れて行かれた。





 理事長が時計を確認すると、丁度昼御飯時だった。
 学園の理事長としての仕事の他に、早速枢から上がってきた報告書――ひとまず、昨夜の出来事に関した分――にも目を通していた。昨夜の内に、仮の寮内にいたという暁から話を聞いてまとめたらしい。本当に仕事が早い。

「錐生くんの様子を見に行かないと……」

 起きていたら、何か飲むか食べた方がいいだろう。まだ眠っていれば、また夕方に様子を見て。数日は安静にしてもらわないといけない。
 そう思って理事長室を出て零を寝かせている部屋へ、スリッパをパスパスいわせながら向かう。だが部屋のドアが見えたとき、その横で座り込んでいる女子生徒を見つけた。
 膝を抱えて座り、顔は伏せている。何故かその頭にはテディベアが腹這いで乗っていて、理事長は首を傾げつつ女子生徒――美夜に声を掛けた。

「美夜ちゃん?」
「…………あ、理事長」

 テディベアを頭から退けて抱え、美夜はやや緩慢な動作で立ち上がった。今は午前の最後の講義の時間の筈だから、休んだのだろうと思い、どうかしたのかと問う。

「優姫に……調子悪そうだから休めって言われちゃって。でも、寮だと落ち着かなくて」
「そうなのか……ま、僕も優姫に賛成だけど」

 優姫から聞いた話によれば、美夜のお陰で零の<レベル:E>化を止めるのに成功したらしい。それに彼女は有名なハンターで、その力で優姫や零を守ったとも聞いている。翌日の今日くらい休んでもいいだろうし、確かに顔色があまり良くなかった。
 寮から持ってきたのだろうテディベアを抱きながら、美夜はちらりとドアを窺った。零に用事があるのだろうか。昨夜の事を思えば、そうであっても可笑しくはない。

「錐生くんは寝てるのかい?」
「分かりません。声、掛けてないので」
「ずっとここで座ってたの?」
「朝、ここに来てからは」

 いつも浮かべている笑顔に元気が無い。理事長は頭をかいて苦笑し、美夜に付いて来るよう促した。

「ずっとこんな所にいたら冷えちゃうよ。何か飲み物でも飲みなさい」
「え、でも……」

 渋る美夜の肩を軽く叩いて歩き出す。美夜は迷う仕草を見せたものの、すぐに後ろを付いてきた。
 体調が悪いのではなく、調子が悪いのだろう。数時間も床に座って呆としていたようだし、引っかかる事でもあるのだろうか。
 ダイニングの椅子に座ってもらって、理事長は温かいレモンティをいれた。彼女はコーヒーが飲めないらしいから。
 カップを片手に美夜の所へ戻ると、椅子に座って天井を仰ぐ美夜の顔にテディベアが腹這いで乗っていた。
 笑いを狙ってる訳じゃないんだろうけど。

「美夜ちゃん……?」
「あ、ありがとうございます」

 カップを前に置くと、美夜はテディベアを膝に乗せて礼を言う。美夜がカップに口をつけるのを見ながら、正面に座って頬杖を付いた。

「……錐生くんをちゃんと助けられたんだから、もっと嬉しそうにしたらいいのに」
「嬉しいです、とても。……ただ、昨日考えないようにしてた事を考え始めると、止まらなくて」

 駄目ですね、と美夜は力無く苦笑した。自分が聞いて解決するなら聞いてやりたいと思うが、美夜の様子からして人に言う様な内容ではないように思えた。

「錐生くん絡みっぽいね」
「……それもありますけど、まあ、何かぐちゃぐちゃしちゃって」

 何とも歯切れの悪い美夜は珍しいと思う。レモンティの水面に視線を落とした美夜は、酷く寂しそうに見えた。
 美夜が何に悩んでいるのか分からないけれど、ネガティブ思考に陥っているようにも感じる。

「錐生くんの事は、彼と話してみなさい。ちょっとくらい起こしても大丈夫だよ」
「はい……」
「それでも解決しない事とかは、僕に言ってみな。力になれるか分からないけど、美夜ちゃんだって娘みたいなもんだから」

 胸を張って、おとーさんを頼りなさい、と言ってみると、美夜は口を開けてぱちぱちと瞬きをする。

「あ……僕がお義父さんだなんて嫌かもしれないけど」

 瞬きを繰り返す美夜の反応に少し自信を無くして肩を落とすと、美夜は慌てて首を左右に振った。

「違うんです、ただ驚いて。……私、零や優姫と理事長のご飯食べるの好きなんですよ、家族みたいで。理事長は素敵なお義父さんだと思います」

 そう言って美夜はやっと穏やかな笑みを浮かべてくれた。言われた言葉に感動して目が潤んでしまう。励ますはずが逆に励まされてしまった。

「美夜ちゃん……そんな風に言ってもらえて僕ぁ嬉しいよ!」
「大袈裟ですよ」

 美夜はくすりと笑って、レモンティを飲み干した。
 少し明るくなった雰囲気で立ち上がると、座っていた椅子にテディベアを座らせてその頭を一度撫でていた。

「ごちそうさまでした。洗っておきます」
「気にしなくていいのに」
「いえ……そしたら、零の所に行ってきます」

 理事長がカップを受け取ろうとするが、美夜はそれを制して歩き出してしまった。理事長は嘆息してそれを見送り、美夜の変わりに座るテディベアを見つめる。

「あんなにしっかりしてるけど、こういう所可愛いよなあ」

 透き通るような青い目を持った珍しいテディベアは、じっと主の帰りを待っていた。




 零のいる部屋のドアを、二度軽くノックする。しかし応答は無かった。眠っているのか、と腕を組んで考え込むが、よしと一つ頷いてドアノブに手を掛ける。

「零……?」

 音を立てないように開け、顔だけ入れて呼びかける。部屋は電気がついていない上に分厚いカーテンが閉められていて、見事に真っ暗だった。
 ドアの隙間から伸びている光を頼りに部屋を見回し、ベッドでやや息の荒い零を見つけた。熱が相当高いらしい。それもそうだ、よりにもよって[血薔薇の銃]で足を打ち抜いたのだから。熱で済んでいるだけ良いのだろう。
 部屋に入ってドアを閉めると、視界は黒に染まる。目が慣れてから、そろりと動いた。

「……大丈夫じゃなさそう、これは」

 ベッドに近寄り、穏やかとは言えない寝顔を眺める。床に正座し、ベッドの端に頭を乗せた。
 多少なりともある体質の変化による負担と、対吸血鬼用武器による負傷と、精神的負担。零は相当堪えていると思う。血を飲めば大幅に回復するのだろうが、彼は吸血行為を嫌っている。

「吸血を嫌う、吸血鬼……か」

 零はもう完全な吸血鬼。夜に生きる者。そうしたのは――――。
 瞼をきつく閉じていると、ベッドが軋む音がした。すぐに目を開けて顔を上げると、零がベッドに肘を突いて上体を起こそうとしていた。
 美夜は慌てて立ち上がり、その肩を軽く押す。

「寝てた方がいいよ、辛いでしょう」
「……おまえ、なんで」
「様子を見に。勝手に入ってごめんね。しかも起こしてごめん」

 零の体は抵抗無くベッドに沈んだ。美夜は零の頬に手の甲をあて、その熱さに顔をしかめる。

「氷枕とかあるのかな……ちょっと見てくる。何か飲み物も――――ッ」

 立ち去ろうとした時に不意に左腕を掴まれ、息を詰まらせた。丁度傷のある場所を握られるのは、流石に痛い。零はすぐそれに気付き、掴んだ手を離した。

「っ悪い……」
「ううん、どうかした?」
「……美夜、ここに来るな」

 溜め息と共に言われ、美夜は意味が分からずに返事に戸惑うが、零の目が赤くなっているのに気が付いた。先程自分が口にした言葉が甦る。
 吸血を嫌う、吸血鬼。
 自分の左腕を一瞥し、美夜は離れかけた零の枕元に歩み寄る。零は眉を寄せて顔を逸らした。

「いいよ、零がいいなら。昨日刀使ってたお陰で、前の咬み跡も治ってる」
「いらない……」
「……ん。氷枕は理事長に頼むね」

 以前なら、飢えを我慢すれば狂う危険性もあったから無理矢理にでも飲ませたが、もう今はそうすべきじゃないと思った。零は吸血鬼で、血液錠剤を飲めない体質である限り、一生誰かの血を必要としなければならない。飢えを我慢しても狂うことは無いだろうが、激しい苦痛が伴うだろう。
 眉を寄せる零に微笑みかけ、もう完治するまでは会えそうにないな、と思いながらベッドから離れる。しかし二歩程の所で、今度は呼び止められた。

「美夜……何でそんな顔してる」
「うん?」
「……そういう笑い方、すんなって言っただろ」

 苛立ちを滲ませる声に肩越しに振り返ると、零は右手で目を覆っていた。美夜は少し肩を竦めて苦笑する。

「そうだね……ごめん」
「…………」

 零が右手を下ろすと、薄い闇の中に赤の双眸が浮かぶ。零は美夜を一瞥し、気だるげに上体を起こした。美夜は近付こうとして止めたのだが、何故か「来るな」と言った零が腕を伸ばしてくる。
 零はベッドに腰掛けたまま足を下ろし、熱い手で美夜の手を引っ張る。美夜は予想外だったそれに抵抗せず、零の方を向くようにベッドに座った。
 程なくして訪れた首筋の痛みに、零のシャツを握る。熱を出しているせいで、触れる手も、舌も、息も、いつもより熱い。
 零が顔を上げると、美夜はハンカチを取り出して咬み跡にあてた。

「……大丈夫?」
「ああ……」

 零が手の甲で口元を拭い、首を押さえる美夜を見つめてきた。
 荒かった息は少し落ち着いたようで、美夜はほっと胸を撫で下ろす。

「……美夜は、いつも他人を責めないよな」
「え?」
「昨日……優姫が咬まれそうになった時ですら、美夜は閑を責めなかった」

 俺が血を貪っても、と零は呟く様に付け足した。美夜は探るような零の目を見つめ、そんなのは当然の事だと頷いた。

「だって、全部私のせいだから」
「…………」
「優姫の事は、遅れた私の責任。……前に優姫がまり亜に接触されてたのも、私の警戒不足。……零に血をあげるのは、私がそうしたいからそうするだけ。零の苦しみも、それ以外の方法を持たない私のせい」

 ほらね、と自嘲すると、零は僅かに目を剥いていた。
 美夜は、視線を零から相変わらず暗い部屋の壁に向け、また口を開きかけて止める。言わないでおこうかと思ったが、口内に残るレモンティの香りに背中を押される様に、言葉を発した。

「……あのさ、零……私、どうしたらいいのか分からなくて」
「何が……?」
「……零を、零が最も嫌う吸血鬼にしたのは私だから」

 思いの外情けない声が出て、一度乾いた笑みを漏らす。空いている手でシーツを握り、独り言のように続けた。

「零が生きるって言ってくれて嬉しかったから……血を飲んでもらうことを躊躇わなかったの。でも、でもね、零を吸血鬼にして良かったのか、分からなくなる」

 彼は吸血鬼を嫌っている。<純血種>に至っては、存在そのものを憎んでいる。零を吸血鬼に堕としたのは確かに閑だが、その不完全さを埋めて、真の夜の一族にしたのは美夜自身。
 零が<レベル:E>となって死んでしまうのは御免だった。しかし今落ち着いて考えれば、本当にそれで良かったのかと疑問を持ってしまうのだ。吸血という行為を忌み嫌う零を、そうしないと生きていけない存在にしてしまったのだから。
 零と話しておきたかったのはこのことだった。「生きる」とは言ってくれたけれど、どうしても、吸血鬼であることへの肯定的な言葉を聞きたかったのだ。
 考えるべきことは多くある。その中でもこれだけは、自分で答えが出ることではなさそうだったから。

「ごめん……訳分からない事言って」

 矛盾だらけだ、と思う。今の言葉も自分の思考も、矛盾ばかりで自分の首を絞めている。自分にとって"絶対の存在"が近くにないと、矛盾ばかりが目に付いて嫌になる。
 やっぱり、ソラと一緒に来たら良かったかも。

「……言ったろ。生きなきゃならなくなったって」

 間を置いての返答に、美夜はこくりと頷いた。

「お前も優姫も、俺に生きろって言ったし」
「……うん」
「……俺は生きると決めたんだ。生きろって言った本人が、そんな弱気でどうする」
「それはそうだけど……」

 俯き始めていると、頭に心地よい重みが乗った。軽く弾ませられ、美夜は覗き込むように零を窺う。零は真剣な表情で、美夜の不安を払拭するように言い切った。

「俺は、生きると決めた事を後悔しない」
「っ……うん」
「……だから美夜も、俺を生かした事を後悔なんてしないでくれ」
「うん、しないよ、しない」

 小さく何度も頷くと、零は口元を緩めて美夜の頭で弾ませていた手で頬を撫でてきた。まだ少々熱いそれに、美夜は泣きたい気持ちで顔を摺り寄せた。




「話、出来たみたいだね」
「はい」

 微笑む理事長にしっかりと頷く美夜を見て、零はどこかほっとした。
 美夜の血を飲んだからか、急速に体調が良くなるのを感じていた。足の傷もほとんど塞がっているだろう。歩いても支障は感じなかった。
 電気も点いていない部屋で少し話した後、時間も時間だし何か胃に入れようと、零は美夜と共に部屋を出てキッチンに向かったのだ。
 キッチンでは理事長が、 一人いそいそと昼食の準備をしていた。

「錐生くんは普通に食べられそうかい?具合は?」
「かなりマシです。……何か軽くもらえますか」
「良かった良かった。じゃあお粥で、も……」

 男が付けるべきではない、至る所にフリルがあしらわれたエプロンを付ける理事長が、零と美夜を見て動きを止める。驚いた表情だが、すぐににやりと口の端を上げた。
 零と美夜が手を繋いでいるのに気付いたらしい。

「君たち何時の間にそういう……」
「ち、違いますよ。私がふらふらしてたから、零が握ってくれたんです」

 美夜は迷うことなくそう返し、ね、と見上げて同意を求めてくる。確かにその通りなのだが、少々面白くない。
 美夜が首の咬み跡とブラウスに付いてしまった血痕を隠すために、耳の下で括っている髪の一房を、繋いでいない方の手で掬った。

「……今更だろ、美夜」
「え?」
「キスまでした仲だからな」

 カシャン、と理事長の持っていた皿が落ちて割れる。美夜の顔がみるみる内に赤く染まるのを見下ろし、満足気に笑ってやる。
 髪を離すと、美夜は口をパクパクさせて、両手を落ち着き無く動かした。

「あれは、だってほらっ……もう、何で蒸し返すのっ?」
「事実だろうが」
「そうだけどっ」

 手を繋いだままなので、必然的に零の腕も動く。話をしていた時の弱った様子だけでなく、こうして慌てる様子も中々見られないのでどこか嬉しくなった。表情には出さないけれど。
 顔を真っ赤にしたまま、とうとう美夜は零から顔を背けた。握っていた手を離し、硬直する理事長の足元の破片を片し始める。冷静なその行動に小さく笑うも、危ないからと下がらせようとしたとき、理事長が活動を再開した。

「ど、どどうしよう、赤飯にすべきだったかな?!」
「な、何でですか!理事長落ち着いてください、まずこれを片付けましょ――――」
「落ち着いてられないよ!大事な子供達がいつの間にかそんな関係になってたなんて!」

 理事長の言葉も手伝って一向に顔の赤みの引かない美夜に、もうやめてやるか、と小さく息を吐いた。一人で騒ぐ理事長に、おもむろにビンタを繰り出す。

「うるせぇ」
「ひ、ひどい……」
「……俺が閑の血を手に入れた方法が、美夜からの口移しだった」
「…………美夜ちゃんから?」
「まあ」

 言いながら、あれは流石に驚いたな、と改めて思いながら破片を一箇所に集めた美夜を見下ろした。理事長も僅かに頬を赤くして、同じ様に美夜を見下ろす。

「塵取り取って来ます……っ」

 視線に耐えかねたのか、美夜は逃げるように塵取りを取りに向かう。血を抜いた後なのだからと引き止めようとしたが、美夜は器用にすり抜けてしまった。

「かわいーねー。口移しは予想外だけど、優姫が言ってた事にも納得だよ」
「?」
「美夜ちゃんのお陰で君を助けられたって。錐生くんを助ける為の血を、美夜ちゃんが運んだんだね」

 小走りで塵取り片手に戻って来る美夜を見て、理事長は安堵したように笑った。
 その通りだ。美夜がいなければ、自分は閑の血を手に入れられなかっただろう。閑の血の匂いで移動した時には、もう遅かったのだから。自分の命が美夜によって繋がれた言っても過言ではない。
 しかしいくら美夜がハンターとして強いからと言っても、零からすれば、一つ年下で、妙に大人びていて、いつも周りにばかり気を配って、全ての責任を負おうとする、ある意味器用過ぎる危なっかしい少女なのだ。
 そんな美夜の小さな背中に守られてしまった事が情けない。ただでさえ何かを背負っている様な美夜は、平気で零自身の事まで乗せる気なのだ。否、とっくに乗せているからこそ、あんな事を言ったのだろう。
 美夜の考え方は、考え過ぎだと笑って一蹴出来る様な軽さではない。無自覚な自己犠牲に近いそれは、きっと美夜の基盤なのだと思う。
 だったら、守るしかない。

「……それ位俺がする」
「え、大丈夫だよ?」
「切ったらどうする」

 破片を塵取りに移動させようとした、未だ頬を染める美夜を制し、代わってその場にしゃがんだ。血を流させたのは己だろうと内心で自嘲する。
 俺がお前を守るからと言っても、説得力に欠ける、か。
 砕けた皿を見て僅かに苦笑し、だがもう美夜の笑顔が曇らないように自分が彼女を守らなければ、と強く思う。

「片付けてくれてありがとうね。二人とも座ってていいよ」
「手伝いますよ?」
「いいよいいよ、二人にはゆっくりしてもらわないと、僕が優姫に怒られるから」

 破片の乗った塵取りを零から取り、理事長は肩を竦める。迷う美夜に、行くぞ、と声を掛けると、美夜は理事長に軽く礼を言ってダイニングに移動した。
 数歩先にダイニングに入った零は、一つの椅子に鎮座するテディベアを見つけて首を傾げた。理事長がこんな物を持っている等あり得ないし、優姫もぬいぐるみを持ち歩いている印象はない。
 空いている椅子に座って、その頭を掴んで持ち上げてみた。テディベアの青い目が、恨めし気にこちらを見ている気がする。

「零、それ駄目」
「は?」
「頭持ったら可哀想でしょ」

 少し怒った様に、美夜は零の手からテディベアを奪い、テディベアが座っていた椅子に腰掛けた。零は空になった手で頬杖を付き、テディベアを自らの膝に乗せる美夜を窺う。
 何だか、少々意外だ。

「お前のか、それ」
「うん。うだうだしてたから、つい持って来ちゃって」
「……好きなのか?ぬいぐるみ」

 美夜はテディベアの両腕を手で弄びながら、何故か小首をかしげた。

「好き、かな?」
「……疑問形かよ」
「ソラは特別だから」

 照れたように笑って、美夜がテディベアを示す。どうやら彼――もしくは彼女――は"ソラ"と名付けられているらしい。ソラを抱く美夜は、心なしか幼く見えた。ぬいぐるみを抱いているから、だけではなく、仕草そのものが普段より幼く感じた。

「凄まじいギャップだよね、君も。誰も美夜ちゃんが"影"だなんて思わないよ」

 少しして、お盆に三人分の食事を乗せた理事長がダイニングに入ってくる。零の前に粥、美夜と自分の前にはパスタを置いて椅子に座る。粥なんて久々だな、と思いながら立ち上る白い湯気を眺めた。

「そうですか?理事長は私の事言えないと思うんですけど」

 美夜は苦笑して、一つ空いた椅子にソラを座らせていた。
 僕なんてただのチンピラだよ、と頭をかく理事長に、どこがチンピラだと内心で突っ込んだ。理事長が現役の頃の話は零も聞いた事があり、チンピラというには些か血の気が多すぎだった。

「あ、あの、私がハンターやってること一応秘密にしててもらえますか?」
「いいけど……やっぱり、この学園にいると言いにくい職業だよねー」
「いえ、そう言うよりは……私の場合、色々絡んでくるので、伏せることにしているんです」

 頂きます、と両手を合わせながら美夜は肩を竦める。吸血鬼のいる学園にいながら吸血鬼ハンターであることを、後ろめたく感じている訳ではないようだ。
 だったらどうして、と理事長が首を傾けると、美夜は躊躇わずに口を開いてくれた。自分達には、伝えても良い話なのだろう。

「[月影]は持ち主をも飲み込む可能性のある危険な刀です。使用出来る者もそうそういませんし……私は<レベル:U>っていう特殊な体質なので使えるみたいなんです」
「ああ、<レベル:U>の存在自体が伏せられてるから、隠してるのか」
「はい。"晃咲"はハンターの家系ではありませんから、私の名前も公表出来ないんです。私の体質を知ってる夜間部生には知られても良いですけど……念の為です」

 枢さんにはバレたでしょうけど、と美夜は呟いてパスタをフォークに巻きつけ始めた。理事長もなるほどと頷いて食事を開始させ、零も粥を軽くかき混ぜた。
 以前、優姫と街に出た時の事が頭をよぎる。あの時戦っていたのは美夜だったのかと思うと同時、"影"に関する物騒な噂も思い出した。パスタを食べて美味しいと顔を綻ばせる彼女とは、到底結び付けられずに眉を寄せる。

「……戦闘中の"影"は、ハンターでさえ襲う可能性があるって話は本当なのか」
「はは、それ嘘」

 美夜は小さく笑って手を左右に動かした。そんな話もあったな、と理事長が呟く。

「私の素性がバレるとまずいからって、協会長が流した嘘なの。仕事中の様子を見られたら、私が若い女だって分かっちゃうから。単独(ソロ)でしか仕事をしないのもそのせい」

 女でハンターをしている者は比較的少ない。体力や筋力面でどうしても弱いところがあるからだ。しかも美夜程若いとなれば尚更だ。仕事中の"影"を見た者はそれが誰か探そうとし、女のハンターは少ないにも関わらず、見つからない事に違和感を覚えるだろう。
 まして密集区駆除を一人で行える者など数えるほどしか居ない。

「……大変だな、美夜」
「ん、そうでもないよ」

 さらりと言って微笑む美夜を見て、溜め息をついた。彼女はその辺りの感覚が麻痺してしまっているのだろうか。背負いに背負った上にそれとは、美夜の危うさの認識が甘かったのかもしれない。
 十年前に家族を失い、その後は[天守月影]の使い手として修行を積んだに違いない。零が"影"が活動していると耳にしたのは、恐らく三年程前だった。
 零はそこまで考えて、粥を口に運ぶ手をふと止めた。三年前だと言う事は、遅くとも美夜は十三歳の時にはハンターとして任務に出ていた事になる。ハンターの家系の者でも、そんな年齢で"狩り"に出されることは無い。

「…………」
「……何?」
「いや」

 彼女の師は一体どんな修行をさせたのかと疑問を持った。特殊な体質であるとは言え、美夜は女だ。[天守月影]を持つと身体能力が桁違いに跳ね上がるのは目にしているが、それでも、相当過酷な修行だったろうと思う。

『一体何が君を――――そこまで危うくさせているんだろうか』

 そんな枢の言葉が心の片隅で浮かんで消えていった。

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