35


 何となく、美夜が少し早起きした朝のこと。これまた何となく寮の郵便受けを見に行って、偶然にも自分宛の封筒を見つけ、部屋に戻った。
 ハンター協会からの郵便物に、一枚の紙が紛れており、それには他の資料よりも一段と丁寧に目を通した。印刷されたものだが、その字体の違いから、ハンター協会からではないとすぐに分かった。
 ハンター協会からは、吸血鬼の活動についての報告だった。たまに協会長が私信を走り書きしている事もあるが、今回は無い。つまりは、大した内容ではなかった。

「……了解です」

 紙面に向かって頷く。そこに書かれていた内容も大した事ではなく、予想の範囲内。読み漏らしが無いかともう一度目を通し、他の書類と一緒に赤いファイルに挟み込んだ。
 別に捨てても構わないのだが、一定期間置いておくのは癖のようなものだった。

「"残留"……当然か」

 紙面にあった文字を呟き、窓に凭れてソラを抱く。
 そのまま天井を見上げると、頭が窓に当たる感覚がある。二度ほど、窓に頭を当てるように動かすと、コンコン、とも、ゴンゴン、ともとれない音がした。

「もう学校行こうかなあ……」

 寝るという選択肢もあるが、ゆっくり眠る時間は無い。ソラを持ち上げ、その青い目をじっと見つめて笑う。

「……行ってくるね」





「美夜ちゃーん、ちょっといい?」
「はーい」

 優姫と沙頼が席を外し、零は寝てしまっているので、教材をパラパラと捲っていた美夜だったが、名を呼ばれて顔を上げる。顔を向けると手招きされたので、三人の女子が座る席に向かった。
 三人で、一人のノートを囲んでいる。それを確認し、心の中で僅かに溜め息をついた。勉強を教えるのは――優姫らは別として――好きではないのだ。

「あのね、この問いなんだけど……どうすればいいの?」
「えーっとね……」

 シャーペンを借りて、ノートの余白に丁寧に式を書いていく。細かすぎるくらい一々式を書いたので十行にもなったが――クラスメイト相手に、口頭での説明を加えるつもりが無いので――式が多いのはいつものことだった。
 こういう時、つくづく自分は優姫を特別扱いしているのだと思う。マンツーマンで勉強を教えるなど、優姫にしかしない。沙頼や零であっても断らないが。

「……はい、こんな感じ」
「ありがとう!答え見るより、美夜ちゃんの方が分かりやすいんだよね」
「ほんとそれ。先生やっちゃば?」
「はは、ありがとう」
「また何かあったらよろし――――」

 ガタン、と美夜の近くで大きな物音がした。話していた女子生徒も言葉を切って、何事かと音のした方を見る。
 美夜の視界に、倒れている女子生徒が映る。周りの生徒が困惑を露に「いきなり倒れて」「わかんない」と口々に言い合う様を聞きながら、倒れる生徒の傍に膝を付いた。
 ……意識飛んじゃってる。

「貧血かな……――!」

 誰かの手を借りて医務室まで運ばなければと思っていたのだが、彼女の首筋にあったのは、真新しい牙の跡だった。
 美夜が表情を硬くしたことで、周りの生徒のざわめきも増す。それに気付いて、顔に出ていた焦りを仕舞いこんだ美夜は、自分と女子生徒を囲む生徒に言った。

「ただの貧血みたい。倒れた時に、頭打ってないと良いんだけど……ちょっとどいてくれる?」

 自分の制服のリボンを解いてポケットに仕舞い、上着を脱ぎ始める。ボタンを外しながら、囲う生徒に道を明けるよう言った。もちろん、倒れる生徒を一人で運ぶ為ではない。刀を持っていればまだしも、今の美夜にそんな力は無い。
 生徒が空けた空間の先には、この騒ぎで起きたらしい零がいる。眠そうだが訝しげに見てくる彼そ手招いた。

「零、零。医務室に運んであげてくれる?」

 手招きした手を、さり気なく自分の首筋に当てた。「牙の跡」と声を発さずに口を動かすと、零の表情が険しくなる。
 零が立ち上がってくれたのを確認して、脱いだ上着を女子生徒の足に巻いて、落ちない様に袖を結んだ。スカートが捲れたら大変だ。

「行くぞ」
「うん」

 軽々と女子生徒を横抱きにした零は、厳しい表情で言う。美夜はそれに頷き、解いたリボンをブラウスの襟に回した。
 抱かれている意識のない生徒を一瞥し、廊下の床を見ながら呟いた。

「ごめん、こんなことになって」
「……お前のせいじゃない」
「でも、ごめん……」

 寮に何者かが忍び込んで、彼女を咬んだのだ。牙の跡を隠していないところを見ると、彼女自身、咬まれたことを覚えていないのだろう。上級吸血鬼による記憶操作である。
 気に病んでしまうのは、彼女が心配なのも当然だが、それよりも優姫が心配だからだ。優しい優姫は、すぐに責任を感じてしまうだろう。自分がしっかりしなければならないのに、と拳を作って握る。

「零、その子頼んでいい?理事長に知らせないと」
「ああ。……美夜、お前は悪くないから」
「……ありがとう」

 思いつめたような表情はしていなかったはずだが、零はそう言って、静かに美夜を見下ろしてくる。何でもお見通しか、と少し自嘲気味に笑って、理事長室へと駆け出した。





 放課後、理事長室に集まった風紀委員三人と枢は、理事長から「これから気をつけてくれば良いから」と気休めの励ましを受けていた。
 記憶操作という吸血鬼の能力が関わっているのは明らかだ。ハンターの術式を使わずに記憶操作を行えるのは<貴族>以上の吸血鬼。夜間部生がほぼ全員<貴族>であるので、夜間部全員に容疑がかかってしまったのだ。
 その為、今夜の夜間部の授業は臨時休講となった。犯人が見つかるまで、授業が再開されることは無いだろう。
 美夜は、[月影]出さないとな、と思いながら、重い空気を何とか払拭しようとしている理事長を見つめた。

「皆気疲れしてる中での事件だし、ね?」
「……生徒を疑いたくない気持ちは分かりますが、理事長は甘いですよ」

 枢が言うと、理事長は言葉を詰まらせる。吸血鬼と人間が非公式に共存している黒主学園で、起こってはならない事件が起こったのだ、厳しい対処が必要になる。
 理事長に向いていた枢が、零の方へ顔を向けた。

「一応言っておくけれど……錐生くんも容疑者だからね」
「枢くんっ」

 告げられた言葉に、美夜は枢を凝視した。言っていい冗談と悪い冗談があるが、どうやら彼は本気で言っているらしい。
 優姫や零も、表情を硬くして枢を見つめる。理事長が制すも、枢は気にせず続けた。

「君は、吸血鬼を狩る側から吸血鬼になった特殊なサンプルだから……予想外の能力が生まれても驚かないよ」
「……俺には覚えがないんですが」

 何とか銃を抜かない零に感心しつつ、「とうとう無意識に人を襲い始めたんじゃないのかな」と呟く枢に苛立ちを覚えた。
 零が生徒を襲うなど考えられないし、"特殊なサンプル"など、人に向けて言う言葉ではない。まして零は美夜にとって、優姫と同じく大事な存在なのだ。そんな言い方はいくらなんでも腹が立つ。
 そしてそれは優姫も同じだったようで、怒ったように枢に言った。

「センパイは、零の事を嫌ってても認めてくれてると思ってました。……零が女の子を襲ったとか、本気で思ってるんですか?」
「女の子襲ったって言い方が微妙……」
「零は黙ってて」

 優姫が怒りに悲しさを混ぜて枢を見上げると、枢の機嫌が少し悪くなった気がした。優姫が零を庇っているのが気に入らないらしいが、気に入らないのは美夜も同じだ。

「はい」

 美夜は軽く手を上げて、にこりと微笑む。突然の挙手に、優姫も続けようとしていた言葉を切って美夜を見た。

「枢さん……零が容疑者に含まれるなら、私も入れてくれますか?」
「なぜ?」

 理事長と零から名を呼ばれるが、大丈夫だと言う様に笑って、怪訝そうな枢に向かって口を開く。

「私はハンターですし、記憶操作の術式も使えます。それに私は<レベル:U>で、牙だってあります。吸血鬼としての因子の質が、始祖並みに高いことはご存知ですよね」
「そうだと言っても……美夜に吸血衝動は無いだろう?」
「"予想外"の事が起こって、私が"無意識に人を襲い始めた"のかもしれませんよ」

 あえて枢の言葉を使って言えば、彼は僅かに目を剥いた。

「私だって、相当"特殊なサンプル"ですから」

 手を下ろしながら言うと、枢はクスリと笑う。言葉遣いには気をつけてくださいね、と言わんばかりに笑む。しかし枢は前言撤回するつもりはないようだ。

「零だけじゃなくて美夜まで疑うなら……私が真犯人を捕まえて、二人の無実を証明します!行こ!零、美夜」
「おい優姫っ」
「とっと」

 優姫が急に腕を引いてくる。たたらを踏みながら優姫を窺うと、理事長室のドアを開けた優姫は少し瞳を揺らしていた。大好きな枢に背を向けているのだから、無理も無いだろう。

「二人の無実を認めてくれるまで、センパイとは口をききませんっ」
「…………」

 理事長室を出る間際、優姫は枢を振り返ってそう言った。嬉しい反面、そんなに無理をしなくても、と申し訳なく思う。ちらりと枢に視線を向けると、明らかに不機嫌の度合いが増していて、残される理事長に心の中でエールを起こった。




「……き、嫌われちゃったかなあ」
「それはないよ、大丈夫。……すごいダメージを受けているとは思うけどね」

 校舎を出てすぐに目に涙を溜めて言う優姫を、美夜は全力で慰めた。枢が彼女を嫌うなどあり得ないが、早く撤回しないと夜間部生――特に拓麻――にとばっちりが来るだろう。
 優姫の頭を撫でながら、零に見つめられていることに気付いて小さく笑うと、零に溜め息をつかれた上、何故か頭を小突かれた。
 とりあえず倒れた女子生徒に話を聞こう、という事で、三人で医務室に足を向けた。美夜は、枢に言った事を後悔しているが撤回はしないらしい――怒ってはいるようだ――優姫に手を引かれながら、二人に続いて医務室に足を踏み入れた。
 医務室の入り口で立ち止まってしまった二人に首を捻り、手を離してひょこりと中を覗いた。

「あれ?優姫ちゃんに錐生くんに美夜。やっぱりこの子に話を聞きに来たんだね」
「拓麻さん……たち、も?」
「うん」

 医務室の中には、被害者生徒――春奈の他にも拓麻、千里、莉磨、暁、瑠佳の五人がいた。暁に関しては医務室の外におり、窓から会話に参加している。
 ベッドに座る春奈は、花束を持って頬を染めていた。夜間部生の麗しい面々に囲まれているのだから、無理もない。

「……先輩方、夜間部の授業は臨時休講になったはずですが」

 溜め息交じりの零の問いに答えず、拓麻は身を屈めて春奈に声を掛けた。

「色々聞いてしまってごめんね、大丈夫?」
「はいっ。お役に立てなくてごめんなさい。……それでは、失礼します。お花ありがとうございました」

 立ち上がってぺこりと頭を下げた春奈は、美夜と目が合うと申し訳なさそうに笑った。

「美夜ちゃんありがとう。錐生くんも、運んでくれてありがとうね。ただの貧血だったみたいで、もう大丈夫だから」

 血を飲まれたせいで貧血になって倒れたということは、相当な量を飲まれたのだろう。下手をすれば命を奪うくらいに。

「ん、頭打ってなくて良かったよ」

 春奈は零にも微笑んで礼を言うが、案の定、零は特に反応を示さない。春奈はそれを気にした様子もなく医務室を出たが、美夜は少し悩んでからすぐにそれを追った。

「寮まで送ってくるから」
「あ、うん」

 零が何か言いたげにこちらを見たが、美夜は問わずに、一人廊下を歩く春奈に駆け寄る。声を掛ける直前に春奈が振り向いたので、美夜は笑って隣に並んだ。

「寮まで送るよ」
「え、悪いよそんな……」
「また倒れたりしたら大変だし、ね」

 遠慮する春奈だが、まだ完全には体調が回復した訳ではないのだろう、すんなりと了承してくれた。美夜がちらりと首筋を窺うと、牙の跡が残っていたが、何も知らない人間ならば、まさか牙跡だとは思わないだろう。
 他愛ない会話を交わして寮に着くと、美夜は春奈を部屋まで送る。彼女が部屋に入ったのをその目で確認すると、足早に寮を出て、寮の前に立ったまま自分の部屋に意識を向けた。

「ギリギリかな……」

 [天守月影]の力を何とか借りられる距離に立ち、周りの気配に気を配る。広範囲の気配は探れないだろうし、人並みはずれた身体能力も無いが、近くに来た者の気配にはいち早く反応できるだろう。
 じっと立って、春奈の部屋の窓と寮の周りを見回す。
 番人のようにそうして三十分程すると、美夜は弾かれたように春奈の部屋の窓の下を見た。

「ストップ、夜間部生」
「ッ!」

 壁を駆け上ろうとしていた人影が、びくりと体を揺らす。美夜は刀から意識を外して、表情を硬くする男子生徒に歩み寄った。

「春奈ちゃんを咬んで、記憶をいじったのはあなたですよね」
「う、うるさい……ここでお前の記憶を――――」
「僕の友人に、愚かな真似をするのは止めてくれるかな……?」

 静かに現れた枢は、穏やかな声で夜間部生に言った。枢の登場で男子生徒はいよいよ表情を強張らせ、ゆっくりとその場に膝をついた。
 枢は片膝を付いた男子生徒を見下ろし、はあ、と溜め息をつく。男子生徒は枢からの見えない圧力に耐えるように、拳を握っていた。

「大胆すぎるよ……堂々と女子寮に現れるなんて。一条達に見当違いの方向で騒いでもらったから、動きやすかった……?」
「愚かなことをしているという自覚はあります、玖蘭寮長……」

 美夜が一歩引いて様子を見ていると、枢はこちらに視線を寄越す。

「……枢さん、彼をどうするつもりですか?」
「そうだね……二度とこんな気を起こさないようにしてあげるよ」

 まさか殺すのか、と眉間に皺が寄った。この生徒がした事は簡単に許されることではないが、だからと言って"殺す"というのはやりすぎだろう。
 吸血鬼を狩る立場の美夜は、あまり強く言えないけれど。

「美夜がそう思うなら……殺さないよ」
「……そうですか」

 表情から考えていることが分かったのか、枢は「君は優しいね」と言って微笑んだ。美夜がいなければ殺すつもりだったということになるが、あまり考えないことにした。
 枢は身を硬くする男子生徒に再び視線を向けると、その頭に手をかざした。記憶操作かと美夜が理解したのとほぼ同時、枢の手から淡い光が零れる。

「僕は、君の様な者が嫌いではないよ……夜間部を危険にさらしても、誰かを求めるなんてね」

 ほんの数秒で光は収まり、おもむろに男子生徒が立ち上がる。どこか虚ろな目を枢に向けて深く一礼すると、無言で陽の寮から離れて行った。

「……春奈ちゃんの記憶を、消したんですね」

 小さくなっていく背中を見送りながら呟く。彼は春奈を心から思っていて、その思いを春奈の血で満たそうとしたのだ。吸血鬼にとって、慕う者への吸血行為は、愛情表現ともいえる。
 好いた者の記憶を消された彼が、可哀想だと思うのも確かだが、彼の犯したことを考えれば相応の対処だ。彼の行為は、普通科生の保護者の信頼を裏切るものだから。
 何にせよ、夜間部に関する事柄の決定権は全て枢が握っている。あの男子生徒が死ななかっただけでもよしとするべきなのかもしれない。

「美夜も優姫と一緒に、一条達の"探偵ごっこ"に付き合うかと思ったのだけれどね……」

 枢は寮の壁に凭れて、どうしてここにいるのかと問うてきた。美夜は苦笑を漏らしながら、自分に人差し指を向ける。

「血に飢えた吸血鬼の仕業なら、狙われるのは私のはずですから……春奈ちゃんを意図的に狙ったとはすぐに分かりましたし、だったら、寮を見張っていたほうが確実だろうと思って」
「一人で、かい?」
「枢さんは、当然春奈ちゃんが狙われていると気付いていると思いました。にも関わらず、その"探偵ごっこ"をしろって言ったのは枢さんでしょう?……だったら、そこに狙いがあると思うのが普通です」

 拓麻さんたちは陽動だったんですね、と確認するように言うと、枢はクスリと笑う。美夜の推理は当たっているようだ。
 わざわざ枢が出向かずとも、"探偵ごっこ"に加わっていない信頼できる夜間部生に犯人の対処を任せても良かったのでは、と一瞬思った。だが殺すつもりだったらしい事を思い出し、それを静かに行えるのは枢だけだと納得した。
 この学園は枢の大事な"箱庭"だ。今その安全を揺るがされるのは、枢にとって酷く不愉快だったのだろう。

「零や優姫には言っても良かったのかもしれませんけど……拓麻さん達に勘付かれると、あの彼が動かないと思ったので」

 そう付け足して、数歩歩いて寮から離れる。事件はあっけなく幕を閉じた事を報告しなければならない。

「"探偵ごっこ"の終了を連絡してきますね。……枢さんが直接対処したって言っていいですか?」
「ああ、構わないよ。偶然出会って捕まえたってことにしようか」
「はは、了解です」

 それでは、と校舎の方へと向かおうとしたが、壁から背を離した枢に頭を軽く撫でられて動きを止める。

「……美夜は本当に優秀だね」
「ありがとうございます」
「無理はしなくていいけれど……その調子で、優姫を守ってくれると嬉しいよ」

 微笑みと共に言われた言葉に、美夜は僅かに目を剥く。しかしすぐに笑みを深めると、当然ですと言って頷いた。
 枢の目が、微笑ましそうにも満足気に細められる。

「優姫は私の大事な子ですから」
「心強いよ」
「……優姫の事、怒らないで下さい」
「分かっているよ……君に妬けてしまってね、悪かった」

 頭から重みが離れると、美夜は微笑んで軽く一礼し、校舎へと向かった。

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