36
一人、廊下の窓から外を眺めている零に、無駄に明るい声が掛けられた。
「ぜーろっ」
「……理事長」
「どうせ真面目に犯人探ししてないだろうと思ってね、ちょっと話をしに」
サボりを前提にされている事にやや眉を寄せたが、事実なので反論はしない。ちなみに優姫は夜間部生と共に犯人探しをしていて、美夜は、女子生徒を送りに行ってからまだ姿を見ていない。途中で優姫らに合流でもしたのだろう。
理事長をじっと見て、話は何だと視線で問う。
「……僕この間、元老院の偉い人に何とか会ってもらってね、『閑さん殺しの真犯人はまず学園の外を探してください』と言ってやりました」
どうだ、僕もやるだろう、と言わんばかりに胸を張るが、その苦労を労う事はしなかった。調子に乗るのは目に見えているからだ。
それに、と零は眉間の皺を深くする。
「……本当はあの夜の真犯人に、気付いているんじゃないですか……?」
「……」
「学園のためなら事実も歪める……だから俺はあんたが嫌いなんだ」
黙した事を肯定ととって鋭い声で告げると、理事長は苦笑して肩を竦めた。
「誤解されてるなあ……可愛い生徒達を少しでも守りたいだけなんだけど。少なくとも今回の件に関しては、血を吸った子がうちの生徒でもちゃんと処断するよ……扱いは大変だろうけど」
脳裏に、美夜の首筋がよぎった。零が理性を失って狂う事は無くなったといっても、これからも美夜の世話になるのは目に見えている。
守りたいと思うのに、壊してしまいそうだ。
「僕が、学園の平穏の為に定めた"きまり"だからね」
「……多分、俺がそれを一番破ってる」
知らず口をついた言葉に、自分で顔をしかめる。罰せられるのを望んでいるようで、自嘲するしかなかった。
吸血鬼でありながら普通科に通い、学内で何度も牙を使っている。"仕方が無い"と言えばそれまでなのかもしれないが、本来ならば許されない。
「……じゃあ、俺はこれで」
話は終わったらしいので、零は何か言いたげな理事長に背を向けて歩き出した。犯人探しに加わるつもりはないので、どこか別の場所でサボろうと思いながら歩く。
理事長から不意に"緋桜閑"の名を聞いたからか、不快な感覚がじわじわと内から湧き出してきている。このような感覚は四年前からの事で、閑の名を聞く度に起こる。
閑が死んだからといって、これが消えることは無いだろう。むしろ以前よりも増している気がした。理由は簡単だ、零自身の手で殺していないから。
そう、ずっと望んでいた。閑をこの手で終わらせることを。
「――殺したくて堪らなかったのね……」
宙を睨んでいた零が我に返って足を止めると、目の前に、白い着物を着た閑がいた。どうしてと思うよりも前に、"殺したい"と思った。しかし何故か動けない。[血薔薇の銃]を抜こうにも、手はズボンのポケットに入ったままだ。
ーー殺さなければ。自分の手で。この女を殺すことこそが、俺の望みなのだから。
右手がようやく動く。だが零の意に反して、その右手が懐に入れられる事は無い。視線を落として手を見ると、それは真っ赤に染まっていた。
「……ッ」
これは一体誰の血だ?
「行き場を失くした願望は、何処へ行くのかしら……」
閑がそう言って笑う。零は、嫌悪感しか抱けないその笑みを睨むが、瞬きした瞬間に閑は消えていた。
代わりに、首筋を赤く染めた美夜が零をじっと見つめている。
「残酷な吸血鬼の本能と、すり替わるかもしれないね……」
零の嫌いな、人形の様な微笑みを湛(たた)えて、美夜はゆっくりと崩れ落ちる。自由を取り戻した体で咄嗟に支えるも、彼女の体に力は無い。
何故自分の手が赤いのか、それは美夜の血が付いたから。何故美夜が血を流しているのか、それは自分が咬んだから。何故美夜を咬んだのか、それは自分が彼女を求めたから。何故美夜を求めたのか――いや、それよりも。むせ返るほどの、血の甘い香りに酔いしれて。
「――美夜ッ」
視界に入ったのは、学校の廊下でも血まみれの美夜でもなく、医務室のベッドとカーテンだった。サボる為に医務室のベッドに横になっていたのだ、と状況を把握するのは容易だった。
ベッドで上体を起こしたまま、血に染まっていた手を顔の前に持ってくる。力が入らず、小刻みに震えてはいるが、そこに赤は無い。
「っは……」
夢だったのだ。頭ではそう理解しているのに、心情が追いつかない。早鐘を打つ鼓動が耳障りだった。美夜の姿を見るまでは冷静になれそうにない。
「零?」
「っ」
弾かれたように顔を上げると、医務室のドアから美夜が顔を覗かせていた。一番見たかった美夜の顔が見られて、鼓動が僅かに収まる。
美夜は、零発見、と微笑んで零の座るベッドへと歩み寄ってくる。
「犯人見つかったから、解散しようって。さっき優姫達に会って、優姫は理事長に報告に行ってくれて……零?」
傍に来た美夜と目が合うと、途端に彼女の表情が曇る。なんでもない、大丈夫、そう言えば良いだけだと分かっているのに、思わず美夜の腕を掴んでいた。
自分より遥かに細い腕を思い切り引き寄せ、存在を確認するように強く抱き締めた。美夜が身を硬くした気配を感じたが、零の様子から何かを察したのか、体を離そうとはしてこない。
「どうかした……?」
「っ……殺してしまったと、思った」
美夜の体はしっかりと零の腕の中にある。生きていると確信できて初めて、零は夢のイメージを払拭出来た。
「生きてる……」
「……うん、生きてるよ」
ゆるゆると背中をさすられる。夢中で抱き込んだので相当な力を加えてしまっている筈だが、美夜は痛がる様子を見せなかった。
「生きてるよ、ここにいるから。大丈夫、零は誰も殺してない」
「……ああ」
「大丈夫……大丈夫だから」
幼子をあやす様に、美夜は背中をさすったり軽く手を弾ませたりしながら、零を落ち着けようと「大丈夫」と繰り返す。
少しだったのか長い間そうしていたのか分からないが、零が腕の拘束を緩めると、美夜は僅かに笑んで顔を覗きこんできた。
「……大丈夫だから」
「ああ……そうだな」
緊張していた体から、少しずつだが無駄な力が抜ける。それが彼女にも伝わったようで、美夜はほっとした様に笑みを深くした。
何故美夜を求めたのか。不意に、夢の中での問いが浮上する。と同時にその答えが驚く程すんなりと導かれ、何かが胸にすとんと落ち着いた気がした。
零の背中に回していた腕を離し、ベッドに座りなおした美夜の両頬に手を添える。
「零……?」
美夜を求める理由の答えなど、至極簡単だ。「欲しいから」。ただそれだけなのだ。
いつも気遣ってくれる優しい視線が欲しい。温かく支えてくれる手が欲しい。向けられる言葉が欲しい。ふわりとした笑顔が欲しい。
そして――美夜だけの血が欲しい。
求めてはいけないのだと分かっている。美夜を傷つけ続けている自分には、彼女を守りこそすれ、手に入れられる資格など無い。それでも、分かっていても、美夜だけが欲しいのだ。
きょとんと零の目を見てくる美夜に、漂っていた様な不確かな感情が一気に形を持って現れた。
きっともうずっと前から、どうしようもない程――美夜が好きになっていたんだろう。
唇に柔らかいものが触れて、離れていく。美夜は目を見開いたまま今の状況を整理しようとするが、脈絡が無くて整理のしようがない。混乱すらしていなかった。
ごく近い距離に、浅紫の目と銀色がある。顔は手で挟まれて固定されている。何と言えばいいか分からず、ただじっとその目を見つめていた。
「……好きだ」
再び抱き込まれ、耳元で告げられた。先程の骨が軋むような、縋るようなものではなく、何度か覚えのある優しい抱擁だった。
「俺は……好きなんだ、美夜が」
どうやら、キスされた上に告白されているようだ。そう理解出来てくると、一気に顔に熱が集まってくる。否、顔どころではなく全身が熱をもってきている。
好き、好きって何だっけ。何とか冷静になろうと無駄な問いを脳内で繰り広げてみるも、状況が変わる訳ではない。
「ちょっと、待って……」
キスされ告白され抱き締められるというのは、完全に自分の許容範囲を超えていた。まずい、このままでは自分の何かがまずい、と取りあえず零の胸を弱々しい力で押す。
美夜は零と体を少し離し、零の顔を見られなくて俯いた。脳で嵐が起こりそうなのを押し留めていると、その様子を拒否と取ったのか、零が搾り出すように言う。
「っ……悪い」
「う、あ、その……」
自分はどう答えるつもりなのだろう。それさえはっきりしていないのだが、嫌な訳ではないという事だけは伝えなければ、とそろりと顔を上げた。
「嫌だったんじゃない……けど、ちょっと、追いつかなくって……」
言うと、零は僅かに表情を和らげる。それに比例して、美夜の体温は上昇するし鼓動も速くなる。赤面などあまり見られたくはないが、顔を背けたいのを必死で堪えていた。
以前は自分から口付けたじゃないか、今更キスで驚くな、と内心で繰り返すが、全く効果は無い。あの時、血を口移しした自分に拍手を送りたい。
「私、零の事好きだし、大事、だけど……それがそういうのかは、よく、分からない」
「……ああ」
「だ、から……その」
「ああ、分かった」
零が小さく笑った。真っ赤になって体を固める美夜をまた軽く抱き締めて、美夜がしたように、あやす様に背中を叩いた。
「驚かせて悪かった。……返事がすぐに欲しいわけじゃない」
「……うん」
「可能性があるってだけで十分だ」
大きな手が頭を撫でてくる。それに少し目を細めていると、零がまた笑った気配がした。熱はまだ引かないが、肩から力が抜けてくる。
「まあ……そうだな」
「何?」
耳元で囁かれるくすぐったさと気恥ずかしさに、僅かに身を捩る。彼は美夜の体温を下げることに、協力する気が無いらしい。
「落としてやるから、覚悟しろ」
零は一段と低い声で、最後にそう言い残した。
*
『優姫には適当に言っておいてやるから、先に寮に戻ってろ』
零からの提案に頷いた美夜は、少々慌しく私室へと入った。
まだ寮のバスルームは開いているから早くお風呂に入ろう、と冷静に考える部分もあるが、大部分は未だ落ち着きが無い。一人になった途端ぶり返した熱をどうすることも出来ず、ソラを抱えて床に座り込んだ。
「ソ、ラ……ソラ、ソラぁ……」
完全に、自分の予想の範囲外の出来事だ。対処法が分からない。耳元に残る声と、体に残る彼の体温や香りに、息が詰まる。保留だと零から言ってくれたことは助かったと思う。
「どうしよう……」
そう口にして、はたと抱えたソラを見る。澄んだ青い目をじっと見つめていると、次第に心は静かになる。揺れていた心が、あるべき場所に落ち着いてくる。
好きだと言われて、素直に嬉しいと思った。キスを嫌だと思わなかった事や抱擁された事で、"そう"なのだとも理解した。自分が零に向ける感情は、零が自分に向けるものと同じ類であると、理解したのだ。
否、きっと自分は気付いていた。ただ知らない振りを貫いていただけなのだろう。
「っ……矛盾もここまで来ると、笑えもしない……」
いつから"そう"だったか等、問題ではない。自分が零にそういう感情を持った事が問題だ。あってはならない事態を、無意識に引き起こしてしまっていた。
ソラを見て冷静さを取り戻せた美夜には、もう熱は残っていない。
この学園に来てからというもの、散々嘘を吐いてきた。自分の目的に反したような、自分にとって矛盾だらけの行動もとった。
だから、今更己に嘘を吐いたって、何も支障は無いだろう。
「……ごめんね、零――――好きだよ」
自覚したばかりのこの想いには、きつくきつく蓋をする。漏れることの無い様に、幾重にも蓋をして鍵を掛けて。
ゆっくりと立ち上がって、改めてソラの目を見つめる。それでいいのだと、お前は大丈夫だと、励まされている気がした。
「うん……私は大丈夫。お姫様はちゃんと守るから……ね?李土」
当然、美夜の呟きにソラが返事をすることは無かったけれど、美夜は一つ小さく笑った。
- 37 -
prev│愛しき君に幸あれ│next
ALICE+