39


 優姫が学園の裏門に到着すると、理事長がほっとした様に笑っていた。
 運転手に礼を言って降りた優姫は、すっきりしない気持ちのまま、理事長の元へ歩み寄る。

「おかえり、優姫。枢くんから聞いてるよ……大丈夫かい?」
「うん……頼ちゃんは?」

 迷子の男の子に付き添っている間、沙頼には買い物を済ませてもらっていた。きっと優姫が戻って来るのを、しばらく待っていただろうと思う。

「冷えるからね、今は寮で待ってもらってるよ」
「そっか」
「無事で良かったよ、ほんと」
「あはは……美夜のお陰です」

 さあ早く中に入ろうか、と促す理事長に頷くも、頬に冷たさを感じて空を見上げた。理事長もそれに気付いて足を止める。

「雪……」
「どうりで冷え込んでる訳だ……」

 漂うように降って来る雪は、肌に触れると溶けて水滴へと変わる。雪が生まれる灰色の空を見上げていると、脳裏によぎったのは枢の姿だった。
 十年前の吹雪の夜、吸血鬼に襲われそうになった幼い優姫を、枢が助けてくれたのだ。返り血を浴びた枢に助けられたその瞬間が、優姫の記憶の始まりだ。
 枢が優姫の世界の始まりであり、枢が優姫の世界そのものだった。絶対的な信頼を寄せられる存在があるからこそ、記憶の無い不安を仕舞い込む事が出来た。

『――僕と同じ、血を食らう獣になって、永い永い時を僕と生きる?』

 夜会から戻って来た枢から、一生聞けるはずが無いと思っていた言葉を貰った。そして自分はそれに頷いたのだ。
 結局、枢は本気ではなかったらしいが、突然の事に追いつかなかった思考が涙となって頬を伝った。
 口先だけの自分に、彼は失望しただろうか。

「――――姫、優姫?」
「っあ、ぼーっとしてた」

 心配そうに窺ってくる理事長に、苦笑しながら頬をかいた。
 その時、優姫の目の前に何かが降って来た。スタン、と軽い音をさせて降り立ったそれに驚いて後ずさるが、それが何であるかを確認して目を剥いた。

「へ、美夜?!」
「うん、私」

 目元まで上げていた黒のネックウォーマーをずらしながら、美夜は笑んで頷いた。白い息を吐き、やや乱れた呼吸を整える美夜に恐る恐る問う。

「も、もしかして、着いて来てくれたの?」
「うん。心配だし、枢さんからも頼まれてたからさ。走って来た」
「ちょ、美夜ちゃん、なんてアクティブな……」

 驚く理事長に向かっていつものように笑う美夜に、申し訳無さが募る。
 自分がとんだ問題児になった気分で、がばりと頭を下げた。

「ほんっとに色々ごめん……!ありがとう」
「ううん、大丈夫だよ。気にしないで」

 自分と違い、美夜はコートを着ていないので、見ているだけで寒そうだった。夕方ならまだしも今は雪が降っているのだから。
 動いていれば温まると言うが、限度があるのではないか。現に、直に空気に触れている美夜の鼻や耳は赤くなっていた。

「美夜、寒いでしょ?早く一緒に寮に帰ろう?」
「ごめんね、まだ仕事中で……零が待ってると思うから、戻らないと」

 この寒い中をまた走るらしい。自分のせいで美夜の負担を増やしているのは明らかだ。
 再び謝ろうと口を開きかけたが、美夜が困った様に微笑んだのを見て、思わず言葉を詰まらせた。

「私……っ」
「優姫、私は全然大丈夫。こういうの慣れてるし。優姫こそ、ちゃんと休んで」

 黒い手袋をした手で頭を撫でられ、優姫はやっと少し笑った。

「……分かった。美夜も、帰ったら休んでよね?」
「うん。もう夜会終わるだろうから、そんなに遅くはならないし……悩み事なら聞くよ」
「!」

 最後は、優姫にだけ聞こえる耳打ち。枢との事を知っているのかと一瞬身構えてしまったが、美夜の様子からして、そういう訳ではなさそうだった。

「じゃあ」

 美夜は優姫と理事長に笑いかけると、ネックウォーマーを目元まで上げる。そして優姫が瞬きをしたただけで、目の前にいた美夜を見失ってしまった。
 さっきまでは、"分かりやすい"ようにしてくれてたのかな?

「ほんと……美夜はすごいなあ」

 雪の中仕事をしている美夜に、これ以上心配はかけられない。
 早く温まって、風邪を引かないようにしなければ。そして――美夜は頼れる存在だけれど――枢との事も自分でちゃんと整理したい。

「頼ちゃんにも謝らなきゃなあ」
「迎えに行くまで待ってたみたいだからねぇ。スープあるから、寮に持って行って一緒に飲む?」
「うん」

 雪の"白"を見て思い出される血の"赤"は、軽く頭を振って追い出した。





「さむ……」

 コートを着るべきだったかと後悔しながら、美夜は学園から夜会会場までの道のりを急いでいた。
 以前、粛正任務のとき、コートを着用したまま戦闘になり危ない目に遭ってから、任務時にコートは着用しないようにしている。長距離移動ならば着用していることもあるが、いつ戦闘になってもおかしくない仕事なので、そういう時もあまりない。
 しかし今回は夜会の監視。しかも降雪ときた。コート不着用は判断を誤った。

「……?」

 道のりの四分の三程進んだ所の、建物の屋上で足を止めた。点々と外灯が建っているレンガ造りの通りに、肩に雪を乗せた黒いコートを確認する。その気配も灰銀の髪も明らかに零だったので、見下ろして首を傾けた。
 屋上から空中に移動すると、重力に従って落下する。零の数歩前を狙って落ち、大きく膝を曲げて衝撃を和らげる。上手く着地出来たことに満足しながら、立ち上がって零を見上げた。

「……危ねぇだろ」
「平気だよ。零は何でこんな所に?」

 登場の仕方のせいか、零は呆れたように息を吐く。美夜の存在には気付いていなかっただろうが、驚いた様子は無かった。
 周囲にハンターの気配も吸血鬼の気配も無い事をきちんと確認し、ネックウォーマーを下ろしていつも通りの口調で問いかけた。

「……夜会は終わったから、俺達の仕事も終わりだ。美夜が足で戻ってくるなら、俺も戻り始めて合流した方が合理的だろ」
「すれ違ってたら……は、ないか」
「美夜なら、来た時と同じ道を使うと思った」
「…………まあね」

 零の言う通り、美夜は、学園から会場へ向かうのに通った道と同じ道を使っている。ただ単純に、指令書に添えてあった地図に書いてある道だからだ。零の指令書に地図があったのかは謎だが、美夜が地理に疎い事を覚えていたらしい。
 [天守月影]があるので、多少離れていてすれ違う可能性があったとしても零の気配に気付けるのだが、言い訳にしか聞こえないような気がしたので口にはしなかった。

「……車、いいか?」
「うん、大丈夫だよ」
「この時間じゃ拾えないしな」

 しかし歩いて帰るには時間がかかりそうだ。翌朝には通常通り学校が控えているので、あまり遅くなるのは避けたい。

「屋上使って、走って帰れる?」
「……お前、俺が吸血鬼だって覚えてるか」

 むしろお前の方が心配だ、とおもむろにコートを脱いで肩に羽織らせるので、美夜は言うべき言葉を瞬時見失う。コートに残っている零の体温が、冷えた体に伝わった。
 頭の中に、不意に左右違いの目がちらついた。

「いいよ、コート。雪降ってるのに」
「こっちの台詞だ。いいから着てろ。お前見てるだけで寒い」
「……ごめん」

 零だって寒くない訳ではないだろうに、コートを受け取る様子は無い。美夜は謝りながら、大きなコートの前を引き寄せて体を包んだ。裾が地面を擦っていないのを確認して、改めて零を見上げる。

「それじゃ、」

 走ろうか、と続けるつもりだったのだが、ぽすりと頭に乗せられた手に、されるがまま頭を撫でられる。

「……何かあったか?」
「何も……?」

 跳ねた心臓に気付かれないように、頭に手を乗せたまま小首をかしげる。じっと見下ろしてくる零の視線が気まずい。彼相手に隠し事をするのが非常に難しいと分かっているから、余計に気まずく感じる。
 そんな美夜に、零は僅かに苦笑して手を下ろした。

「無理に言えとは言わないけど……何かあったら、頼れよ」
「……うん、ごめん」

 走り出すのかと思えば、今度は緩く抱き締められた。以前とは明らかに違う自分の鼓動の早鐘に戸惑い、零の胸を軽く押した。
 たくましい体に頼りたくなる。そう思った事実には無視を決め込んだ。駄目なのだと呪文の様に、心の中で呟く。赤と青の目を意図的に思い出して、揺れた心を立て直す。

「零っ……あの」
「嫌か?」
「っ……」

 閉じ込めた感情が解放を求めている。零の顔を見ないようにタイの結び目を見つめ、突き放せない自分を恨んだ。雪が降る程冷え込んでいるのにも関わらず、内から熱が込み上げる。
 駄目、駄目。
 零と距離を置こうとするのが、どれだけ今更な行為か分かっている。それでも、これ以上近付いてはいけないのだ。彼に、美夜自身の気持ちに気付かれてはいけない。
 気付かれるのが、恐ろしい。

「ぜろ……」
「……分かったよ」

 耳元で零が笑う気配がした。耳にかかった吐息に思わず肩を揺らすも、回されていた腕が解けたことで何とか平静を取り戻し、体を離す。
 生まれた距離に安堵すると同時、寂しく感じた自分がいた。

「っ……じゃ、走ろっか」
「……そうだな」

 零が僅かに怪訝そうにしたのには気付かない振りをして、借りているコートの前を合わせる。右手で一緒にして握り、左手は刀に添えて膝を曲げた。
 地面を蹴り、建物の凹凸に軽く足を掛けて屋上まで跳び上がった。





 白い湯気を立てるコーヒーに口をつけ、冷え切った体に染み渡るような感覚に、零は一人息を吐いた。
 着崩してはいるが一応正装のまま、私的居住区のキッチンでバスルームが空くのを待っていた。夜会の監視任務を終えて学園に帰って来た時間は、学園の夜の見回りを終えた時間と大差無く、寮のバスルームは使えなかったのだ。

「あ、錐生くん。お疲れ様ー」
「理事長……」
「あれ一人?美夜ちゃんは?」
「風呂ですよ」

 こんな時間にコーヒー飲んだら眠れなくなるよ、と言いながら、理事長は自分もコーヒーを淹れた。何だかんだで、理事長も割りと遅くまで起きている。

「しっかし、優姫のことはとんだハプニングだったねぇ。ま、何事も無くて良かったけど」
「そうですね……」

 優姫に何かあったら、零自身も優姫を心配するのは当然だが、何より美夜が自責の念に駆られてしまう。

「…………」

 今夜の彼女は、どこか様子がおかしかった。告白したことで多少硬くなっていたのは別段気にしないが、何か常に別のことを考えているように見えた。てっきり優姫の心配かと思っていたのだが、学園までの帰り道、それは覆された。
 美夜が何かに耐えているように見えたのだ。倒れそうなのを必死で堪えているような、頼ることを拒んでいるような、それでいて縋ろうとしているような、そんな印象だった。
 美夜が人に頼ろうとしないのは知っている。しかし零は頼られた事が確かにあって、いざと言う時には頼ってくれると思っているし、美夜が頼ろうとしない分、自分が彼女を気に掛けているつもりだ。
 零が学園を出ようとしていた時や、舞踏祭の後、発熱していた零の元に来た時と似た危うさを感じた。違うのは、今夜の美夜は抱えているものの一部さえ見せなかったという事。

「おーい、錐生くん?難しい顔してどうしたの?眉間の皺が深いよー」
「…………」
「に、睨まないで……。優姫といい君といい、悩みすぎはよくないからね?」

 大袈裟に溜め息をつく理事長は無視して、数口コーヒーを飲む。コーヒーの黒い水面を睨んでいたが、黙り込んだ理事長からの視線を感じて顔を上げた。

「……何ですか」
「いや別に……急な任務だったのにそんなに不機嫌じゃないのは、美夜ちゃんがいたからかなあってさ」
「…………」
「だから睨まないでよ」

 機嫌が良いとは言わないが、凄まじく不機嫌な訳でも無い。その理由は恐らく指摘通りなので反論しなかった。
 悩みの種も、彼女の事なのだが。
 理事長は大した意図も無くそう言ったようで、短く声を上げると話題をさっさと切り替えた。

「あ、そうそう。もうすぐ長期休暇でしょ?夜間部生が一斉に帰省するから、その時、全員出るの確認してくれる?」
「……分かりました」
「また二人にも言うけどね。僕が言うのを忘れそうだから」

 そういえば、もう長期休暇が目前なのだった。全寮制で外出も制限されている黒主学園の長期休暇は、夜間部生も普通科生も一斉に帰省する。学園に残る者は皆無に等しい。
 言わずもがな、零と優姫はこの学園が家のようなものなのであるし、旅行の計画も無いので学園を出るつもりは無い。
 美夜は、どうするのだろうか。
 家族のない美夜は、自分達と同じくこの学園が家の様なものだろう。彼女から<レベル:U>の話を聞いた時は、十歳でハンター協会の保護を離れて一人暮らししていたと言っていたが、実際は、ずっとハンター協会の元に身を置いていたのだ。ちらりと聞いた話では、協会本部内に部屋が設けられていたらしい。
 協会に帰省――という言い方が正しいのかは疑問だが――するのだろうか。今の美夜には何か不安を感じるので、あまり一人にはさせたくないのが本音だ。

「…………」
「また家族で旅行とか行きたいね!今度は美夜ちゃんも一緒にさ。枢くんを南国に連れて行ってみたいなあ」
「…………」

 一人でうきうきと喋り続ける理事長には相槌さえ返さず、湯気の量が減ったコーヒーを飲み進めた。


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