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 夜会から数日後。
 午後の講義が全て終わり、いつもは校舎入れ替えの警備に向かうのだが、今日は別の、外へ続く門に向かう事になっていた。長期休暇で一斉に帰省する、夜間部生のお見送りだ。
 ちなみに普通科は明日から長期休暇に突入する。

「ねえねえ、黒主さん?あなたは休暇中、学園にいるのよね?」
「理事長の義娘なんだもの」
「え?まあ……そうかな」

 二人の女子生徒が優姫に声を掛けていた。美夜は時間を確認し、そろそろ行かないとな、と優姫に声を掛けるタイミングを図る。

「誰もいなくなった月の寮に、カメラなんて仕掛けてみない?」
「ええっ?!」

 それは犯罪ですよ、と心の中で突っ込んで、恋する女の子のその度胸に少し呆れて苦笑した。
 予想外の頼み事に驚く優姫に、助け船を出すように名を呼ぶ。

「優姫、お見送りの時間だよ」
「あ、うん!じゃあごめんね」

 後半は女子生徒に向けた言葉だ。優姫は早口で二人に謝って、美夜の隣に来ると小声で礼を言ってきた。
 盗撮は駄目だよね、と二人で苦笑しながら門へ向かう。すると優姫がはっとした様に首を傾げた。

「美夜、零は?」
「理事長の所に名簿を取りに。そのまま門に向かうって」

 美夜がそう答えると、サボりじゃなかったんだ、と優姫は申し訳無さそうに呟いた。




 零から受け取った名簿に、美夜は次々とチェックを入れていく。今となっては、美夜はほとんどの夜間部生の顔と名前を把握しているので、チェック作業はスムーズに進んだ。

「後は……枢さんだけ、か」
「枢は戸締りしてるからね。ちゃんと出来るかな……」

 腕を組んで真剣に言う拓麻に、美夜は思わず笑ってしまった。まるで拓麻が枢の保護者のようだ。枢に対してこんな風に口をきけるのは、夜間部生で彼くらいだろう。
 記入漏れや記入ミスがないかを確認していると、瑠佳が内緒話をするように耳打ちしてきた。

「お土産、買ってくるわね」
「え、そんな……っ」
「遠慮しないでいいのよ」
「じゃあ、ありがとう」

 礼を言うと微笑んだ瑠佳は、じゃあね、と小さく手を振って車へ向かった。瑠佳や英、暁、莉磨、拓麻、枢は休暇中まとまって動くらしく、最後の二人以外は既に車に乗っている。
 零は何をするでもなく突っ立っているだけだ。一方で優姫は、月の寮を見つめて枢が出てくるのを待っていた。夜会の後から、優姫は以前に増して、枢に対して挙動不審になっていた。何か力になりたいと思うが、優姫は「自分で解決するよ」の一点張り。
 夜会での出来事を何度思い返しても何かあったと思われるのは、挨拶を済ませた枢が優姫のいる部屋に戻って来た後。部屋から出た事を咎められただけではないようで、だが無理に聞き出す事はしたくない。

「あ、枢」

 拓麻の声で顔を上げると、こちらへ歩いて来る枢を視認する。しかし彼を待っていたはずの優姫が、静かに零の背に隠れてしまっていた。

「ちゃんと戸締り出来た?」
「一条……僕もそれくらい出来るから」

 美夜は最後のチェックを入れると、優姫の様子を窺った。枢に寮の鍵を差し出されると、目を合わせずにそれを受け取っていた。

「優姫が言ってくれたことは……嘘じゃないって分かってるから」
「!」

 枢が微笑んで言うと、優姫がようやく顔を上げる。枢の一言にどんな背景があるのかは分からないが、今の一瞬で優姫の雰囲気が明るくなったのは分かった。一応は解決したのだろうか。
 気にしないで、と枢が優姫の頭を軽く撫でる。顔を赤くする優姫に、美夜はひとまず安堵して口元を緩めた。

「枢、名残惜しいだろうけど……」
「皆と先に車に乗ってて。優姫と美夜も、先に戻っててくれる?」

 声を掛けた拓麻に続き、枢は優姫と美夜にもこの場から離れるよう言った。拓麻はすぐに了承して車に向かったが、美夜も優姫もそうはいかなかった。
 心配すぎる。喧嘩をしないという保障が無い。そんな懸念が伝わったらしく、枢が小さく笑う。

「大丈夫、意地悪しないから、ね」

 にこりと微笑みかけられ、次いで零を見上げた。面倒くさそうな空気は漂っているが、厳しいものは無かったので、美夜は躊躇う優姫の肩を軽く叩いた。

「行こ、優姫」
「あ、うん」
「零、理事長の所に行ってるから」
「……ああ」

 不安が残らないわけではないが、この状況では流石に何も無いだろうと、二人で一礼する。そして相性が最悪な二人を残し、その場を後にした。




 枢は、立ち去った優姫と美夜を一瞥すると、零へ向き直った。そこに二人に見せていた笑顔は、申し訳程度も無い。

「……僕から言いたいことは一つ。優姫の手綱を、ちゃんを握っていてもらわないと困るよ。特に僕の留守中はね」

 先日の夜会でのことを指しているのは明らかだった。未然に防げなかった事は確かに省みるべきなのかもしれないが、枢の指図で動くつもりは毛頭無い。
 夜間部生の、枢を敬っている者達ならばいざ知らず、自分が枢を主とするなどあり得ないのだ。命令じみた事を言われるのは、ただ不快だった。

「今回は、彼女がすぐに見つけてくれたから良かったけれど……。僕を失望させないでくれるかな」
「…………」
「君が優姫の盾とならないなら、すぐに殺してもいいんだけどね……」

 眉間の皺が深くなる。枢の上からの物言いには慣れているが、不快感までは拭えない。
 枢は二人が去っていった方向に視線を投げてから、零が返答しないのも気にせずに、車の方へと歩き出した。

「……しばらく顔を見ないで済むと思うと嬉しいだろ?」

 一度ひらりと手を振って、枢は学園の門をくぐった。その背を睨むようにしていた零は、車が動き出す前に理事長室へと足を向けた。




 理事長室に理事長はいなかったので、美夜と優姫はそのまま待つことにした。美夜は名簿をデスクに置くと、窓から外を眺める。

「あ、美夜は長期休暇どうするの?」
「んー……二週間くらい、学園を出る予定」
「え!てっきり、残留かと思ってた……」

 残念だな、と呟く優姫に向き直り、苦笑しながら謝る。理事長には伝えてあるが、優姫と零には告げていなかったのだ。

「早くに言っておけば良かったんだけど……」
「いいよいいよ。どこに行くか、聞いても良い?」
「仕事が、ね。普段は私に仕事がこないようにしてくれてるから、こういう時は働かないと」

 優姫の表情が僅かに曇る。大丈夫だと言っても心配を掛けてしまうのは明らかだから、あまり言いたくなかったのだ。密集区駆除が二件、既に入っている。

「大丈夫だよ。これでも私、結構強いから」
「強いのは認めるけど……気をつけてね?怪我とかしないでね?」
「うん、ありがとう。……ね、優姫」

 呼ぶと、優姫が小さく首を傾けた。美夜は優姫に向けていた視線を宙へ移動させる。

「仕事って……言ったら、怒るかなあ」

 無論、零に、である。どことなく気まずい状況なままだからか、零に言うのは気が引ける。何も告げずに学園を立つことはしたくないが、踏ん切りが付かずにいた。
 優姫も美夜の懸念が誰に対するものか察してくれたようで、苦い顔で頬をかいた。

「……眉間の皺が三割増し、とか」
「だよね……」
「あ、でも最近零の機嫌良いよね。大丈夫なんじゃない?」

 そう言って笑う優姫は、美夜から言ったら余計に怒れないと思うよ、と付け足した。その言葉に数度瞬きをするも、適当な返答を見つけられずに曖昧に濁す。

「ん……後でちゃんと言わな――」

 その時、理事長室のドアが派手に開け放たれた。大きく肩を揺らして一体何事かと入り口を見ると、息を切らせた理事長がいた。

「あああ二人とも!た、大変だよ!紅まり亜ちゃんが目を覚ましたよ!」

 紅まり亜。
 閑が学園潜入の為に器としていた、<貴族>の女の子。閑が抜けた後も意識が戻らず、ずっと医務室で眠り続けていた。
 美夜は休暇の問題をひとまず片付けて、優姫と二人で医務室へと駆けた。理事長は零に知らせるため、入ってきた時と同様の慌しさで外へ向かっていた。




 保健医はいないのか、医務室にはベッドで上体を起こしているまり亜しかいなかった。
 二人で医務室に入りまり亜のベッドに近付くと、明らかな敵意を感じて足を止めた。

「あ、えっと、学園守護係の黒主優姫です。ええと……初めまして、紅まり亜さん」
「!……守護係の」

 優姫が名乗ると、まり亜は力を抜いたようだった。美夜は優姫と視線を合わせて微笑み、まり亜のベッドへと歩み寄る。今度は美夜が声を掛け、床に膝を付いて下から視線を合わせた。

「初めまして、まり亜さん。同じく守護係の晃咲美夜です」

 閑が入っていた時の記憶は無いようなので、丁寧な口調で告げる。まり亜は優姫と美夜の名前を復唱して確認すると、顔色の良くないまま、不安げにこちらを窺った。

「紅まり亜です。その、閑様は……?」

 美夜はちらりと優姫と視線を合わせてから、静かに口を開いた。

「閑さんは、亡くなられました」
「っそ、そんな……!」

 表情を歪めるまり亜は、信じられないというように優姫に顔を向ける。否定の言葉を求めての事だろうが、優姫にそれを否定することは出来ない。
 閑は確かに、死んだのだから。

「本当です、まり亜さん」
「っ……じゃ、じゃあ壱縷ちゃんは……!」

 感じた人の気配に顔を上げると、零が到着したようだった。その後ろには理事長の姿も見える。立ち上がった美夜が理事長に場所を譲ろうとするが、それより前にまり亜が動いた。
 掛け布団をはねのけてベッドから飛び降りると、たった今到着した二人に向かって駆け出す。顔色悪いのに、と美夜が制止する暇も無く、まり亜は零に飛びついていた。

「ま、まり亜さん?!」

 優姫が声を上げ、理事長も何か言っているのだが、美夜は突然の出来事に上手く反応できず、僅かに胸が痛くなるのを感じた。

「壱縷ちゃん!」
「いやあの、まり亜さん、"それ"は……」

 理事長が指摘すると、まり亜ははっとした様子で零を見上げる。自分の飛びついた人物がその双子の兄であることに気付いたのか、浮かべていた笑顔を消して体を離した。
 美夜は心に滲んだ不快感を消し去ると、ふらつくまり亜を支えた。

「そう……閑様は、貴方と会ったのね」

 まり亜にとって零は、閑が滅ぼされた事実を認めざるを得なくなる存在であったらしい。本当に死んでしまったのね、と床を見つめて呟いていた。
 零は閑を殺した訳ではないのだが、今の彼女にそれを告げても混乱させるだけだろう。そう思い、美夜は何も言わずにまり亜をベッドへ腰掛けさせる。
 理事長が持ってきた血液錠剤を飲んでもらい、まり亜から閑についての話を聞いた。
 壱縷をつれてまり亜の前に現れた閑は、病弱なまり亜の体を治すことと引き換えに、体を器として貸すことを要求してきたと言う。まり亜は閑の血に連なる者であるので、閑にとって都合が良かったのだろう。また、まり亜にとっても、<純血種>の役に立てることは拒否する事でも無かったようだった。

「……閑様は"保護"という名目で、ご生誕まもなく隔離されてから、どなたの愛情にも触れられませんでした。零くんのご両親が滅ぼした閑様の想い人はとは、あの方に愛情を示してくれた唯一の人だった……その男(ひと)を失い、自分をも見失い、悲しみと怒りで……」

 俯きがちに話してくれるまり亜だが、零を責めるようなことは言わなかった。それどころか、話し終わった最後には「閑様は零くんに殺されても後悔は無かったと思います」とまで言った。
 殺したのは零ではない、悪いのは自分なのだと、美夜は心の中で謝った。あの部屋に残しておくことが、閑が枢に殺されることを意味すると分かっていながら、美夜は閑を助けなかったのだから。美夜の血でいくらか回復したとは言っても、手負いの彼女が枢に勝てるはずが無いのだ。

「……さ、そろそろ休ませてあげよう。これ以上は、起きたての体に障るからね」

 ひと通り話し終えたまり亜に、理事長は休むよう言い、自分たちも出るよう促した。理事長に続いて医務室から出るが、最後の零が出る間際で立ち止まる。
 理事長と優姫は歩き出してしまっていたが、気付いた美夜は、医務室を出てすぐの所で立ち止まった。
 美夜の位置からは零の表情もまり亜も見えないが、まり亜の真剣な声は耳に入った。

「貴方にだけは、真実を伝えておきたいの」
「……何を」
「……あの日、錐生を"駒"として狩るように仕向けた、本当の黒幕がいたことを」
「!」

 美夜は思わず息を詰めて、視線を零の背中から逸らした。体の横で手を握り、閉じた唇に力を込めた。

「<純血種>である閑様が<元人間>を愛することを喜ばない者……自分を取り戻した閑様が、新たに力を手に入れて倒そうとした敵……」

 これで零は、枢が何故閑の力を欲しがったのかにも合点がいくだろう、冷めた部分で考える。"彼"は長く生き、それ相応の力を持ち、<純血種>であれ容易く倒せないのだから。

「それは<純血種>の、そして貴方の、本当の敵でもあると思う……」

 敵、か。本当に嫌われ者だ、と口元に自嘲気味の笑みを刻む。
 零はそれに返答しないまま、医務室の扉を静かに閉めた。美夜は素早く思考を切り替え自嘲を消すと、険しい表情の零を見上げる。
 まり亜はもう閑ではないからか、零に憎悪の類は見えなかった。

「……行くぞ」
「うん」

 零はぽすりと頭を撫でてから、理事長と優姫が向かった方向へ歩き始める。美夜も零の隣を歩きながら、そう言えば休暇の事、と思い出して小さく溜め息をついた。さっさと言っておくべきだったな、と後悔する。
 ほとんどの普通科の生徒は、長期休暇に入る明日に早速学園を立つ。美夜は明後日の朝に学園を出て、二週間後に戻ってくるつもりだ。出発の前日である明日より、今日言っておいたほうがいいのは明らかで、切り出すタイミングを窺う。

「……あのね」
「あ、零、美夜!」

 前方から優姫が駆けてきたので、やっぱり後で良いよ、零に苦笑した。

「まり亜さん、自分の意思でこの学園に来たんじゃないから、明日家に帰るって。起きてすぐに、帰りたいって理事長に言ってたみたい」
「そっか」
「うん……」

 頷いた優姫の表情に影が差した。遠くを見ているような優姫は、廊下の窓の前に立ち止まると、いつの間にか降り始めていた雪を眺めていた。
 自分の問題は自分で片付ければいい。美夜にとって優先すべきは優姫なのだ。どうかしたのかと顔を覗くと、優姫は力なく笑った。

「……理事長がいて、枢センパイがいて、零がいて、頼ちゃんがいて、美夜もいてくれるのに……私、贅沢だな。私の親は、私を捨てたのかなって、ちょっと考えちゃった」

 まり亜から、閑が愛情に飢えていた話を聞いたからだろうか。まり亜が家族の元へ帰ると聞いたからだろうか。

「あんな吹雪の中に、子供を置いていって」

 優姫には十年より前の記憶が無い。それは当然知っている。記憶が無いということがどれほどの不安になるか、美夜は経験した事は無いが、孤独感に似ているのではと思う。
 そしてその孤独感ならば、美夜も嫌と言うほど身に染みて知っている。
 そんな不安を、優姫に感じて欲しくはない。無理に笑って欲しくもない。美夜は俯いた優姫の手を握って、視線を合わせてにこりと笑った。

「っ……ごめん美夜、なんでもない。ホントはそんなに執着ないんだ。だって全然、何も覚えてないんだから」
「優姫、無理して笑わなくてもいいんだよ?覚えてないって事自体が怖かったこともあるでしょう」

 笑顔があまりに痛々しかったのでそう言うと、優姫は一度上げた顔をまた伏せる。その思いつめたような雰囲気に手をぎゅっと握ると、優姫は視線を落としたまま、そろりと顔を上げた。

「……ねえ。吸血鬼になったら、心も強く変われるかな」

 今にも泣きそうな優姫が躊躇いがちに口にした言葉に、隣の零の空気が変わった。美夜ももちろん驚いて、まじまじと優姫の顔を見つめる。

「枢センパイに『吸血鬼になる?』って聞かれて……『はい』って言うことしか出来なかった」

 夜会以降の優姫の枢への態度はそれが原因か、と納得した。先程の見送りの時に言っていた枢の言葉の意味も分かる。
 空気が変わったのを察したのか、優姫はようやく視線を上げると、美夜と零を見てぎこちなく付け足す。

「あ、でも本当は、枢センパイは本気じゃなかったんだよ」
「それでもお前は、吸血鬼になってもいいと思ったんだろ……?」

 零から低い声が発せられ、優姫の表情が強張る。零のそれには怒気よりも悲しみが窺えて、美夜は何も言えずに、優姫の手を握っているだけだった。

「そんなものになんかさせない。玖蘭枢を敵に回しても、お前に憎まれても」

 声を荒げたわけではないが、だからこそ強い思いのこもったそれに、彼の今までの苦しみが乗せられている様で胸が苦しくなるのを感じた。そして美夜が何か言う前に、零は美夜の腕を引いて歩き出してしまう。

「ちょっと、零……っ」

 苦しそうな零を振り払うことも出来ず、握っていた優姫の手をするりと離す。自分の失言に気付いた優姫が口元を覆うのを視界に留めながらも、美夜は零に引かれるまま移動する。
 優姫を励ましてやりたいのが本音だ。だが、零の痛みも感じ取れてしまうから。
 美夜にとって、優姫だけでなく零も大事な人だから。

「零……」

 校舎を出る手前のところで名を呼ぶと、零は立ち止まって腕を離した。

「……美夜は、優姫が吸血鬼になることを望んだら、止めるのか?」
「……止めない」

 答えながら、だから自分は移動させられたのかと腑に落ちた。優姫を吸血鬼にさせたくない零は、美夜が優姫の目の前で、優姫の言葉に賛同するのを避けたかったのだろう。
 零が眉間の皺を深くするので、ごめんね、と謝った。美夜は吸血鬼の存在を憎んでいないし嫌ってもいないのだから、誰かがが吸血鬼になりたいと言っても止める理由がない。

「……<レベル:E>に堕ちないで済む方法を知っているからか」
「それもあるけど……優姫が望むなら、私はそれを止めないよ」
「……俺は絶対にさせない。優姫も……美夜も、化け物なんかにはさせない」

 自分の名前が並んだことに、目を見開いた。驚くと同時に不謹慎ながらも嬉しく思ってしまい、視線を逸らして微かに笑む。
 零の気持ちに応えないと固く決めたくせに、想われていることが嬉しかった。

「……ありがとう」

 言った途端に、視界が黒く染まる。抱擁されているとすぐに理解し、最近多いなあ、と思いながら上昇する体温と鼓動の抑制に努めた。

「……変だぞ、美夜」
「え?」
「優姫だけじゃなく、お前も……夜会で何かあったのか?」

 美夜の頭に、零が自分の頬を乗せているような感覚がある。気まずい体勢ではあるが、表情が見られないのはありがたかった。顔を見られれば、誤魔化しが通用しない気がする。
 零の制服を掴んでしまいそうな腕を叱咤して、何もないよ、と呟く。

「疲れてる、のかも」
「だったらいい。……でも、あまり俺を待たせるな」

 腕の力が僅かに増した。不意だったので顔が零の肩口につき、収めようとしていた熱が上昇を始める。零の匂いをより感じてしまい、視線を宙で泳がせた。

「……無理に聞き出したくは無いけど、倒れるまで堪えようとするなら、話は別だ」
「っ……」
「一人で抱え込んでくれるな、美夜」

 ただでさえ、この頃揺れていた心が一層揺れた。物の輪郭がじわりとぼやけ、強く唇を噛む。口を引き結んだまま宙を睨み、自分の柱の揺れを無理矢理止めた。ギリギリとした痛みが胸に生まれたが、こんな痛みは取るに足らない。
 そうだ、こんな痛みはなんてことは無いのだ。零への想いを封じた時の痛みだって、なんてことは無い。これはきっと、この学園を心地良いと思ってしまった、自分自身への罰なのだから。
 そしてこの痛みと同等の、あるいはそれ以上の痛みを、最後は自分が与える側となる。
 最後に傷つけるのは、どう足掻こうとも自分だ。

「……明後日から、学園を、出るの」
「!……初耳だぞ」
「言い辛くって……仕事が入っててね、二週間くらいは、学園を空ける」
「……長いな」

 不満げな声に小さく笑って、だからね、と零の体を軽く押す。彼の顔を覗きこみながら、唯一の気がかりを口にした。

「優姫をみていてあげて欲しい。私は、傍にいられないから」
「……分かった」

 二週間の間に何かあっては困る。自分が傍にいたいけれど、今回ばかりはどうしようもない。
 了承してくれた零に、わざわざ自分が言うまでも無かったかと思った。零が優姫を家族のように大切にしている事は知っているから。

「じゃあ、私は優姫と一緒に寮に戻るよ」
「……さっきの――」
「分かってる。私は何も言わないし、その話題には触れないから」

 零の言わんとすることを予測して言うと、零は「そうか」と短く言った。

「おやすみ、零」
「……おやすみ」

 不自然でない程度に会話を切り上げ、美夜は優姫がまだいるであろう校舎の中を歩き出した。背中に零の視線を感じていたけれど、振り向くことはしなかった。
 思い切り揺れた柱を立て直せたからか、前より頑丈になった気がした。この調子なら、ちゃんと零と目を合わせても笑えそうだ、と自嘲した。

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